椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

ヒロシマ原爆投下の日 その4

2019-01-26 15:47:14 | 藤村瞬一

最終講義には私も出かけましたが、プリントは用意してあったものの声も以前の張りがなくなっていて、どちらかというとわかりにくいものであったかもしれません。

ヨーロッパの戦地を訪ねたこととかヒトラーのことを話したほうがよかったのに、と思ったりしました。

よく考えてみると、17歳で原爆に遭遇し、広島のこの世のものとは思えない惨状は主人の心身に大きな影響を与えたのだと思います。

最後の入院で認知症になったかと思ったとき、メモ用紙に広島と書いて得意そうな顔をしていたことを思い出します。

名前が書けない状態であったのに・・・・・

17歳から亡くなるまで、なぜこのような戦争が起きるのか、を調べた時間は、ほかの方よりもずいぶん長かったのではないでしょうか。

先日、主人のノートにメモを見つけました。

                 

80歳ぐらいになって書いたものだと思います。

 

 戦争の本質 

競争、利潤の無限大の追及(→追求ですね)人間の拮抗心、征服(支配)欲、優位、信仰

 とのことです。

欲や拮抗心などを煽られて戦争への道に踏み込まないように、参考にしていただければと思います。

 


ヒロシマ原爆投下の日 その3

2019-01-26 00:57:40 | 藤村瞬一

5.広島が一貫して投下目標に選ばれた理由

(イ) 西日本最大の軍事都市で7本(現在は6本)の川の洲の上にあり、川が防火の働きをして焼夷弾攻撃に適さず、通常の空襲目標から外れていた。このため無傷のまま残され原爆の目標に最適とされた。

(ロ) 京都と同様、三方を山で囲まれ爆撃効果が大きいとみられた。

(ハ) 七つの川と中央にT字形の珍しい橋(相生橋という)があり、また川の流れに直角に進めば、七本の川があるので必ず広島を探し出せるからと、地形上、目視爆撃には格好の目標になった。*夜間や雲に覆われた天候の時に使われるレーダー爆撃は地上からのレーダー妨害波によって原爆の信管が誤って作動し自爆する恐れがあったので使えなかった。

(二) 広島には連合軍の捕虜収容所がないとみられていた。*実は一か月前の沖縄から飛来した4機のB-24爆撃機のうち、撃墜され捕虜となった米兵など23名が広島城の地下壕に収容されていた2名を除いて被爆死したといわれる。→ こちら

 

6.原爆慰霊碑のこと

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」 

 これは有名な、広島の平和公園にある原爆慰霊碑(正式には広島平和都市記念碑という)に書かれてある碑文である。この碑文の英訳はあまり知られていないので、紹介しよう。それは

   Let all the souls here rest in peace;

        For we shall not repeat the evil.

  この碑文は、昭和27年7月26日、元広島高等学校教授で当時広島大学の雑賀忠義教授が、碑文などの造詣が深く、当時の濱井信三市長の委嘱を受けて、自ら筆をとって書き上げたもの。慰霊碑の設計者は同じく広高出身の建築家・丹下健三である。

 ところが同年11月、広島で開かれた世界連邦アジア会議に出席したインドの国際法学者R.B.パル(Radhabinod Pal)博士――東京裁判でただ一人、日本の無罪を主張した判事――が「原爆を落としたのは日本人ではない。・・・・・・ これを書いた当事者はもっと明瞭な表現を用いた方がよかった」と批判したのに対し、濱井市長は「過去の戦争は明らかに過ちであった。あの碑の前に立つ人々が誰であれ、自分に関する限り、過ちは繰り返さないという誓いと決意を固めることが、将来の平和を築く基礎であり、現在生きている人たちが、それを実践したとき、はじめて地下の霊は安らかに眠ることができる」と反論した。

 また雑賀教授もパル博士あて英語(専攻が英語・英文学で、和歌山出身のアメリカ2世で英語が達者)で上述の碑文の英訳とともに反論の書簡を送り「広島市民であるとともに、世界市民であるわれわれが、過ちを繰り返さないと霊前に誓う。これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の心情であり,良心の叫びである。”広島市民の過ちではない”といった狭量な立場に立つ時は、過ちを繰り返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない。・・・・・・また(アメリカだけの過ちであるというのは)仏陀の、論理のための論理に陥るな、という戒めに反するではないか」と反論した(11月11日)。

 最近、日本の歴史学者の間でも歴史の流れに反するような修正主義的な主張をするのが目立つ。原点に立ち返る必要を痛感するため、敢えてこのエピソードを紹介してこの一年の、そして本学における講義の幕を閉じたい。静聴ありがとう。


ヒロシマ原爆投下の日 その2

2019-01-25 00:59:08 | 藤村瞬一

3.幻の声、その日の広島放送局

 当日、午前11時ころだったと思うが、苦しそうな男の声で「こちら広島放送局、感度あったら応答ねがいます」を繰り返す連絡放送があったのを記憶している。

 当時は個人用のラジオなどはなかった時代で、寮の廊下のスピーカーから流れていた。「JOBK、JOBK=大阪放送局のコールサイン=」という呼び掛けが入っていたようにも思う。

 ところが1992年に元NHKラジオ番組制作担当の白井久夫氏が書いた『幻の声 NHK広島8月6日』(岩波新書)によると、当時呼び掛けたのは女性アナウンサーだったり、呼び掛けの内容が私の記憶とかなり違っていたりして、50年も前のこと、私の記憶力にも自信がなくなってしまったが、読み進んでいくと、当日大阪や岡山の放送局と連絡をとろうと繰り返すうち、疲れてきたので、何人かの局員が放送担当外の人も交替でマイクの前に立って叫び続けたとのこと。

だから内容もまちまちだったとのこと。記憶違いでなかったので一安心した。記録や聞き取りの限界を示す一つのエピソードとして紹介しておきたい。

4.東練兵場の老婆のことなど

 プリントには見出しだけなのですが、たびたび聞かされてきたことや残っているメモから

 勤労動員が休みの日で、本来ならば爆心地方面に出かけるところを、主人のいた寮だけが行事があったのだとか。→ こちら

 ・6日当日は、被爆して顔もよくわからなくなってしまった寮生が戻ってきて、夜、機械油を体に塗ったりして看病した。苦しんでうめいていて恐ろしいと思った。

 ・7日に親類宅の様子を見に現在の広島駅北側のあたりを歩いていたら、肩から下げていた水筒に老婆が飛びついて来て怖くて逃げてしまった。

 ・トラックからのおにぎりの配給を待っているとき、倒壊した家の梁に挟まれて動けなくなった姉が猛火に包まれるのを見届けるしかなかった女学生からその話を聞かされた。見ず知らずの人間にでも話さずにはいられなかった?

 


ヒロシマ原爆投下の日 その1

2019-01-21 20:31:31 | 藤村瞬一

主人である藤村瞬一が亡くなってもうすぐ5年になります。

主人の遺した書類の中から、大学の最終講義のプリントが出てきました。最終講義は1997年1月13日に行われています。

ヒロシマ原爆投下の日

1.「エノーラ・ゲイ」(原爆投下機)などの進入経路

 当日のBー29、3機の進入について様々な説があったが、現在は米第21航空軍509混成航空群の作戦任務13号が公開され、全貌が明らかとなった。

 それによると、8月6日午前0時37分(日本時間)、気象観測機3機、広島、小倉、長崎へ出発。テ二ヤン島から広島まで片道約2,400キロ、6時間30分の航程。午前7時すぎ3機は豊後水道を北上、伊予灘で分散、広島担当の「ストレート・フラッシュ」号は、広島上空を3回旋回した後、7時25分ごろ「第1目標を狙え」の暗号無線。

 「エノーラ・ゲイ」と随伴の計測器投下の「グレート・アーチスト」号、写真撮影機「Rー91」号の3機は、午前1時45~49分、テニアンを出発、日本に近づくと高度を9,000メートル近くまで上げ、7時50分四国の大島上空を通過、8時6分松永上空で進路を西方に変え、投下目標から22キロ離れた八本松(現在の東広島市付近)の上空9,480メートルから原爆を投下(午前8時15分17秒)、その後ほとんどダイビングするような角度(60度)で、時速528キロの猛スピードで急降下、高度1,800メートルのところで右旋回しつつ急上昇(加速して離脱距離をできるだけ延ばすため)原爆が投下後、高度600メートル弱で爆発(8時16分)するまでの43秒の間に爆心地から13キロ離れ(可部上空)爆風や熱線の被害から逃れた。

なお写真撮影機「Rー91」は2機とやや離れ、爆発の様子を南側からカメラに納めた。3機は広島上空を3回旋回し、四国の中央を横切る形で帰途についた。

 

2.なぜ、B-29の爆音を耳にしなかったのか?

  4発の大型爆撃機B-29は高々度を飛んでいても、独特の大きな爆音を出す。それが1万メートル近い高度から時速528キロの猛スピードで急降下すれば、かなりの爆音を轟かせて飛ぶはずだ。しかし私には爆音を聞いた記憶がない。

広島市原爆体験記刊行会編『原爆体験記』 朝日新聞社 1975年 や 

 長田新編『原爆の子』上下、岩波文庫 1990(1951)年 

には何人かが”物凄い爆音を聞いた”とか”銀色に輝く大きなB-29を見た”ということが書いてある。私がいた寮は爆心地から6キロ離れた所にあって、頭上1,800メートルまで急降下してくれば、そこら一帯に大きなエンジン音がしたはず、と思うのだが聞いた記憶がない。ピカッと光って、それからいきなりドカン!と隣室に爆弾が落ちたような轟音に襲われ、しばらくして、静かになったので、布団をかぶったまま外に飛び出した次第だ。

 いまだに解けないナゾの一つである。

 


1月11日のまち 航空公園駅から

2019-01-20 11:31:33 | 所沢

このごろよく所沢・航空公園駅を利用するのですが、

駅前バス停でクスノキに話しかけられたような気がしました。

クスノキについて こちら

防虫、抗菌ということについて役立ちたいとか?

日本の植物はその特徴を生かして十分に役立てる必要がありますね。

「薬師の国 日本」というイメージは悪くなさそう。

多くの人たちの仕事になるはずだと思います。

所沢は ほっとスポット がけっこうあります。

AIの時代には、それだけ ほっとスポットが必要そう。

 ここだけの話、たくさんの観光客が押し掛けてくるところではありません。

けっこう便利なのだけれど静かで自然豊かなところなのです。

 

また、冬の太陽がありがたく感じられます。

北海道・東北の方たちが冬の間、こちらで過ごすといったことが

できればいいのにと思ったりします。

今は、合理的な住み方や働き方をよく考えてみる機会と

するべきではないでしょうか。

 

 


2018年12月 青森 その11

2019-01-14 00:15:38 | 日本を元気に

なぜ、大高興先生は貴重なコレクションを寄贈することにしたのでしょうか。

読売新聞 昭和52年8月16日の記事が「風韻堂雑録」に掲載されています。

「きずな」――恩師との”約束”果たす  より

◇紅白マンジュウ失敬

 忍び込んだ真っ暗な職員室で、目当てのマンジュウをがぶりと一口やった時だった。パッと電気がついて、入り口に担任の塩谷雄馬先生が立っていた。

 昭和十四年。西郡岩崎村黒崎小学校のあすは卒業式という前の晩だった。

 当時、私は複々式授業が行われていたこのへき地校の六年生。級長だったから、卒業生二十三人を代表して答辞を読むことになっていた。だが、卒業式のために準備されたアンコ入りの紅白マンジュウが食べたくてしょうがない。一日がまんすればいいのに、それができず、つい職員室にしのびこんだ。

 雄馬先生は名前の通り馬づら。やせて小柄な先生と”犯行現場”で向い合いながら「親にいわれたらどうしよう」「同級生に知られたら答辞が読めなくなるのでは」。そんな不安が胸をふさぎ、多分、私の顔は血の気を失っていたことだろう。

◇罪に”二人だけ”の密約

 その時、塩谷先生は「そんなに食べたければ食べろ。オレも一つ食う。その代わり大人になったらだれにもできないことを一つせい。そうすれば罪を許してやる」とおっしゃった。自分もまんじゅうを食べ、以来、この事は二人だけの秘密になった。

 先生は終戦後間もなく亡くなったが、約束を覚えているのが自分一人になってしまうと、どうにも落ち着かない。折にふれ「だれにもできないことを一つせい」という先生の言葉が頭に浮かんでくる。

◇貴重な文化財県に寄付

 四十七年、意を決して私は一万一千二百一点の文化財を県立郷土館に寄贈することにした。四十年かかって集めた命の次に大切にしていたコレクションの数々。ロックフェラー財団からは一億円で譲渡してほしい、国内の博物館からは五千万円で譲ってくれとの申し込みがあったほどの貴重な文化財だ。

 妻も「売れば鉄筋の病院を建てられる」と反対したが、私は歯をくいしばってコレクションを全部手放した。寂しくて、郷土館開館の日は泣けてしょうがなかった。

 そのあと、小学校時代の通信簿を持って日本海を見おろす丘にある岩崎村の先生の墓に報告に行った。「約束を果たしましたよ。これならだれにもできないことでしょう」。卒業からちょうど三十三年目のことだった。

◇塩谷先生の偉大さを知る

 また、この事件で先生は人を許すということの大切さを教えてくれた。もし、あの時、許してもらえず逆にうんとしかられていたら、私はどうなっていたかわからない。その意味で先生は真の教育者であり、忘れ難い恩師だ。

 しかし、男はつらいもの。正直言ってマンジュウ一個がえらく高いものについたと思うこともある。

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新成人の皆様へ

この塩谷雄馬先生からの「だれにもできないことを一つせい」という言葉を伝えたいと思います。


2018年12月 青森 その10 つづき

2019-01-12 00:20:49 | 日本を元気に

このご著書には、新聞での紹介記事のほか、考古資料などについての随想・随筆だけではなく、医学のご研究や保健所長としてのご体験についても書かれています。

 プロローグは中学生であったお嬢さんの作文「遺物と父」です。その作文から
・小さいころから私にとって、がらくた同様の遺物を収集している父は、単に土器キチガイでしかなかった。私の楽しみにしていた約束は、たいていすっぽかして土器掘りに行く父であったからだ。幼心に、父は私の実の父ではないのではないか――とまで疑ったくらいであったし、また何度泣いたかしれない。
 だから、もちろん父が三十数年間も一筋に集めている理由さえわからなかった。
 しかし、昨年六月に突然寄贈すると言い出した時、私たち家族は驚いてしまった。いざ、そう言われてみると、この上もなく惜しいような気がしたし、半生かかって収集した物を寄贈してしまうなんて、普通の人のやることではないと思った。
・父の遺物に対する愛着は、私たち親子以上に親密な関係を持っているであろうに、私をお嫁にやるよりも淋しく、せつない気持ちにかられるのではないだろうか。このような事を考えると、私は父が気の毒に思われ、なんとか慰めてあげたいと思う。
「私たちの祖先が生活のために製作した物を、後世の人々に残すために寄贈するんだよ。それに、郷土館に保存され陳列された方が、遺物の魂がより喜んでくれるだろう。」 
 私は、この父の言葉をかみしめながら、私欲を越え、遺物を本当に愛し、生かそうとする父の心が、わかってくるような気もする。
 
保健所長時代の新聞記事「低所得者に多い結核蔓延 公費の栄養補給を」から
・こうした低所得者の日常生活の栄養摂取量は、厚生省の基準をすべての面で下まわっており、その量も六割から五割となっている。このことが、一旦結核におかわれると治ゆしにくく、死亡率も高い原因となっているわけで、日常生活における栄養の摂取が、いかに大切かがわかる。
 大高所長は学会でこの点を特にくわしく述べ、低所得家庭の結核患者に対する栄養費は厚生省が援助して負担するようにしなければならない、と力説した。
 
雑誌掲載の梅干しに関する記事「梅肉エキスでわかった酸以外の殺菌力」から
大高興博士は、青森県の無医村で育ちました。その村では昔から、「お腹をこわした、熱が出た、もうなにかにつけて、梅干しとか梅肉エキスや梅酢を与えるのが、長い間の習慣となっていました。それで何とか治っていたんですね。梅にはなにかあるぞ、そう思っていました」
・大高氏が究明しようとしたのは、有機酸以外の、殺菌効果の物質だったのです。そしてついに、その抽出に成功しました。
 梅肉エキスから有機酸を取り除き、そのあとで精製された未知の物質―。
 「液状のそれを、ほんのわずか、赤痢菌、チフス菌、ブドウ状化膿菌などにためすと、いずれも十数秒で死滅しました」
・「きっと、誰かが、あの結晶化を成功させてくれると思います。私が梅肉エキスから取り出した未知の物質は、細菌に対し、強力な発育抑制の効力を持っている、これは確かです。梅肉エキスにそれがある、ということは当然、梅干しや梅酒、梅ジュースなどにも存在するはずです。
 なお臨床医の経験から申しますと、飲料水でお腹をこわしたときとか、食中毒の予防には、梅肉エキスや梅干しはとても効力があります。ことに海外旅行に出かける時には、ぜひとも持参してほしい。きっと役立ちますよ」

2018年12月 青森 その10

2019-01-10 13:33:25 | 日本を元気に

風韻堂コレクションを寄贈された大高興先生は、亡くなった父の友人であったようで、両親から思い出話をときどき聞かされておりました。

父の本棚に大高先生のご著書「風韻堂雑録」昭和54年 があって、付箋や鉛筆の傍線がついています。

 

 

略年譜より、一部抜粋

大正十五年十一月二十三日 青森県西津軽郡木造町菰槌に生まれる。

昭和七年 亀ヶ岡遺跡から完形の毒つぼを拾う。

昭和二十年 青森大空襲で下宿全焼。

昭和二十五年 弘前大学青森医学専門学校卒業。

昭和三十一年 医学博士の学位授与。

昭和三十一年 弘前医科大学講師。

昭和三十一年 宗像志功画伯と親交。

昭和三十二年 弘前大学医学部助教授。

昭和三十三年 青森県黒石保健所長。一時鰺ヶ沢保健所長。

昭和三十七年 青森市の自宅で養父開業の手伝い。

昭和四十一年 収蔵庫建築、翌年宗像志功画伯が「風韻堂」と命名す。

昭和四十六年 現住地に内科医院開設。

昭和四十七年 四十年間収集の埋蔵文化財11,201点を県立郷土館に寄贈す。

昭和四十八年 竹内知事より感謝状と記念額。

昭和四十八年 青森県褒賞。

昭和四十八年 東奥賞受賞。

昭和五十二年 日本博物館協会顕彰。

 

 


2018年12月 青森 その9 つづき

2019-01-06 16:37:27 | 美術館・博物館

額の字は棟方志功によるものだとか。

遮光器土偶です。

器のデザインは現代的にも感じられます。

漆が使われているものがあります。

撮影は許可されています。

たいへん贅沢な空間に感じられないでしょうか。


2018年12月 青森 その9

2019-01-06 13:41:02 | 美術館・博物館

回り道をしてしまいましたが、実はこのとき、郷土館の常設展にある風韻堂コレクションを観たいと思って訪れたのです。

風韻堂コレクションについて

このコレクションは

大高氏がご尊父と二代にわたって 苦心の末 収集された

1万1千点余に及ぶ 考古資料です

同氏は 青森県の文化遺産として 県民に役立ててほしいとの 願いをこめて

当県立郷土館の 開館に際して 寄贈されました

この資料は 県重宝に指定された 亀ヶ岡遺跡の出土品をはじめ 優品が多く

学術的にも 高く評価されています

当館では 大高氏の御厚志を記念し 

これを 風韻堂コレクション と呼び 特別展示室を 設けました

 

大高 興氏については