椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

6月14日のまち

2014-06-21 07:23:55 | 日本を元気に
青森で買い物の途中で見かけた画廊喫茶(→こちら)の方から「板院展」のご案内をいただいたので上野に出かけました。

日本板画院HPは こちら

以前の上野の記事は こちら

上野の美術館に行くには鶯谷で降りたほうがよい、と主人の助言通り、今回も鶯谷で降り、
南口のおそば屋さんの「公望荘」で天せいろを食べました。
すっきりとした味でおいしかったです。


やはり上野はいろいろな意味で贅沢な空間ですね。


東京都美術館へ。
多くの書展や画展が開かれていて迷ってしまいました。

版画展というのは初めてでした。力作が並んでいます。


チャリティということで版画を購入できました。好きなトンボの版画を見つけました。



絵や写真とはまた違う版画の魅力というものがありました。

女性の方が多く参加されていて、どちらかというと女性の方が大胆な試みをされていると感じました。



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主人から聞いた話〔3〕

2014-06-09 19:00:30 | 藤村瞬一
育ち盛りのころに食糧不足であったため、慢性的に空腹をかかえていたようでした。
両親とも小学校教師で、闇の物資にはなかなか手が出なかったとか。
広島の親せきでは米や野菜をつくっていたようですが、そちらも子だくさんで
たいへんだったようです。
今でいう家庭菜園をつくってみても、カボチャなどできたものが盗まれてしまうのだとか。

主人の父親のアイデアで空腹を満たすためたくさんのフダン菜を水炊きにして油を落としたりして食べたのだそうです。

私は北国育ちなのでホッケなどが好物なんですが、主人は戦争中、北からの魚で臭いがするものが
配給になったせいであまり食べたくないようでした。
当時は今のような冷蔵・冷凍での輸送ではなかったでしょうからね。

銭湯などで靴が無くなるのは日常茶飯事であったとか。
また、気の毒だということで友人の友人みたいな人を泊めたりすると
金品を盗まれて、恩をあだで返すという話もあったんだそうです。


戦争中、軍との商売で儲けた人たちは、戦後も闇で大儲けしたということのようで
戦争ですべて変わった、ということではないようです。


ただ、主人の場合、子どものときのひどいアレルギー体質が改善されたとのことで
空腹ということがアレルギー体質改善に役立つのかもしれません。



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主人から聞いた話〔2〕 つづき

2014-06-01 23:50:28 | 藤村瞬一
八月六日の記録の続きです。

一、九時、山下帰寮。(注 記録者である山下教官のこと)
 二年生ハ、宣誓署名場ニテ防空幕ヲ下シアリシ為メ、幸ニガラス飛散ニヨル怪我人ナシ。
 二年二井谷ト食堂ニ食事中ノ一年生某、脚部若クハ背部ニガラスヲ指シ者アリシノミ。(注 刺サリシ のまちがいか)
一、十時頃、一般罹災者ト共ニ顔面・胸部ヲ真赤ニヤケドシ、殆ンド裸体トナリシ広高生、広島方面ヨリ歩イテ帰ヘリ来タレリヲ迎フ。
 全身ノヤケドニヒルマズ、寮歌ヲ高唱シ帰ヘリ来タレリモアリ、悲惨。
一、直チニ舎監室ヲ臨時救護所トシ、救援ニ当ル。教官住宅ニモ五名収容。
一、岡村啓一、重傷ニテ友人四人ニ車ニ乗セラレテ帰ヘル。気力ハ旺盛。岡村ハ寮、三寮ノ部屋ニ収容ス。
一、正午近キ頃迄ニ十数名負傷帰寮。
一、十一時、二十名ノ迎ヘノ生徒(栗栖班長)ヲ広島ニ派遣ス。
一、午後二時迄ニ帰ヘレル者、二五名ナリ。
 
・・・・・

一、岡村啓一、昼間経過良好ナリシモ、夜ニ入リ尿出デズ。膀胱ニ管ヲ通シタル処、血液ノミ出ズ。
・・・・・ 残念ナガラ深夜ノ来診医師ナシ。
山下・西川・三野・岩政ソノ外一ネン二名バカリニテ徹夜ノ看病ニ当リ、夜明ノ約束ノ医博ノ来診ヲ待ツ。


八月七日(火)晴
一、午前六時、山下更ニ工場病院ニ行キ催促。七時、医師来診。
 梁ノ打撲ニヨリ腎臓破裂、脊髄モ打チ手術モ甲斐ナシト、昨夜ヨリ強心剤ノミ打続ク。
一、午前八時十三分、岡村啓一、手当ノ甲斐ナク遂ニ逝ク。
 直チニ弘重外一名ヲシテ柳井ノ岡村宅に急報セシム。
以下略


八月二十三日現在、死亡十七名、行方不明五名とあります。


主人の友人であるTさんにいろいろとメールで伺ってみました。
以下がその一部です。


まず入学式の出席人数ですが、全く分かりません。私自身は当時神戸市に住んでいましたが、
直前に神戸の空襲で自宅は焼夷弾で全焼し、B29の機銃掃射の中を逃げ惑い、兵庫県西宮市の祖母の家に避難し、やっとの思いで入学式に間に合ったのですが、当時は同じような経験をした仲間が結構いたと思いますから、全員が入学式に出られたとは思えません。
高校へ入学したという感動、抱負なども全く記憶にありません。

入学はしたものの、広島市の校舎には入れず、山陽本線の向洋(広島駅の一つ手前。かつてご主人が訪ねてみたら昔の面影は何もなかったという手紙をもらったことがあります。)
近くにある日本製鋼所に動員され、高射砲製造の手伝いをしましたが、既に必要な金属材料が入って来ず、やるべき作業がない日も多かったような記憶があります。中学校時代の動員では神戸の工場で爆弾を作っていましたが、そのときは一日中作業が続き疲れ果てたものですが、それに比べて作業は暇で、工場内で遊んでいるときもありました。なお、クラスによって工場が違いましたので、ご主人がどういう作業に従事したかは分かりません。

動員のない日は工場の近くの(あるいは工場内であったかもしれません)仮校舎で授業を受けました。授業がどの程度あったかは記憶していません。語学の授業にドイツ語があり、初めてドイツ語に触れ、当時ドイツとは同盟を結んでいたこともあったのでしょう、
熱心に勉強しました。それがその後もドイツ語を学び続けるきっかけになったと思います。当時は全寮制で、全員が寮に入ったと思いますが、部屋は違いましたがご主人と同じ寮で暮らすことになったのが最初の出会いです。ご主人は文系、私は理系で専攻は違っていました。

8月6日の日は授業、工場共に休みで、日頃の絶え間ない空腹を満たそうと、友人と広島市へ何かうまいものを食いに行こうと出かける予定だったのですが、たまたま私たちの寮だけ寮を監督する上級生の指導があることになり、広島市に行くことは断念せざるを得ず、これが原爆に遭わずに済んだことになるのですが、休みで広島市へ出かけた多くの寮生が被爆しました。広島市へ出かけていれば、爆心地近くへ行く予定だったので、運命を感じます。

8月6日、部屋で順番を待っていたとき、突然強烈な爆発音が聞こえ、外に飛び出したのですが、広島市の方向に例のキノコ雲がもくもくと吹き上がってくるのを見ましたが、何ものか当時は全く分かりませんでした。それから数時間後に、全身真っ黒になり、皮膚が体から大きく垂れ下がった瀕死の重傷者が大八車などに乗せられてぞくぞく到着、寮は仮救護所になりました。

被爆の2日後に行方不明の寮生の捜索に仲間2人と広島市に入りましたが、探し出すことは到底不可能でした。その後私は広島市の壊れた広高校舎で寝泊まりして、先生方の被爆した自宅の整理の手助けをすることになりましたが、先に収容された負傷者もそれぞれ病院や自宅に引き取られ、他の寮生も取り敢えず自宅に帰省することになったようですが、その場には居合わせていませんでしたので具体的なことは分かりません。

8月15日の終戦日を私は広島市の壊れた校舎の一室で残られた先生方と放送を聞きました。雑音が多くはっきり聞き取れず、何を言っているのかよく分かりませんでしたが、戦争が終わったということを感じました。



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