椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

10月10日のまち 上野・護国院大黒天 その4

2018-10-21 12:41:25 | 歴史あれこれ

1717年とは8代将軍吉宗が前年に将軍となったばかりのころ、ということになります。

吉宗の財政改革は、何とか成功したようですから、現代でも参考になる点が多々あるのではないでしょうか。

吉宗について こちら

自ら質素な暮らしをして改革に臨んだ、側近重用を避けたということは評価されているようです。

情報収集・分析などにも人任せにせず熱心だったように見受けられます。

天英院から見込まれての就任ということなどから、大奥にはやはり参謀的な女性もいた、ということではないでしょうか。

 

国難ともいう時期に舵取りを任されてどのような心境であったのでしょうか。

牧谿「瀟湘八景図巻」などの絵画が好みであったとか。

検索して得られた牧谿「煙寺晩鐘図」はこちら  等伯の「松林図」に近いような・・・・

 

ドラマなどで描かれてきた暴れん坊将軍吉宗とはだいぶ違っているのかもしれませんね。

改革とはずっと厳しいものであり、多くの人たちがその気持ちを共有することが必要そうです。

 

コメント

10月10日のまち 上野・護国院大黒天 その3

2018-10-18 12:09:38 | 歴史あれこれ

上野戦争、関東大震災、戦災をくぐりぬけて残ったこの護国院大黒天は、1717年に一度焼失しているとのことです。

もしかしたら、そのころ江戸は何らかの危機があっての「護国」ではないか、と思ってみました。

そういえば、護国寺はどうだったのか・・・・・ こちら

護持院が1717年に焼失して護国寺境内へと移されたとのこと。

1700年前後はもしかしたら危機と思われる状況があったのかもしれません。

森鴎外が「護持院原の敵討」という作品を残しています。

史実としてはその敵討は1830年代の出来事のようです。

1913年に発表されたこの作品にどういう意味があったのでしょうか。

「敵討」について

護持院に着目すれば

1700年ごろのものとしては

忠臣蔵、伊勢桑名藩での野村騒動など。

1830年代に着目すれば

大塩平八郎の乱

1910年ごろとすれば

日清、日露戦争、あるいは大逆事件

 

そのほかにも多くの殉教者たちとか旧幕府側など複雑な集積といったものなどにも思いを巡らしたということはないでしょうか。

 

 

 

コメント (1)

10月10日のまち 上野・護国院大黒天 その2

2018-10-11 22:14:01 | 歴史あれこれ

堂内の写真もOKとのことでした。

哲学的な大黒様のようです。

護摩木に心願成就と名前を書いて納めました。

江戸時代の千人仏です。

格調の高さのようなものを感じたりします。

「護国院大黒天の縁起」から

・徳川氏が天下を統一し、次第に平和な時代がまいりましたが、平安な日々が続くにつれ、かつて歴戦の武将として戦場に多くの血を流した大名たちも、戦死者たちの追善供養をせずにはいられない気持ちになりました。

・丁度その頃、即ち寛永十六年、大阪落城二十五年に当って、この護国院釈迦堂で、豊臣・徳川両軍の戦死者の霊を弔うため大念佛法要が行われました。

・この時、三代将軍家光公は、国の護り、人々の福運を長く祈ってほしいと願われ、大切に秘蔵されておりました藤原信実卿のかかれた大黒天の画像を、護国院の開祖生順大僧正(天海大僧正のお弟子)に贈られました。

それ以来この尊像をおまつりして鎮護国家と、海運隆昌を祈り続けてまいりましたので、護国院大黒天として信仰されました。

・わが身の福運を祈ると同時に、ご利益がすべての人々の上にありますよう祈ることが、ご利益をえる秘訣でございます。

その時心は争いを忘れて安らぎ、自然に七難を遠ざけ、七福を授かりましょう。

・どうぞ一人でも多くお誘いになって、大黒天の前で心の安らぎと福運とをお祈りください。

 

なるほど、自分の福運を祈るだけではなく、ご利益がすべての人々の上にありますようにと祈るのが大黒天の信仰だったんですね。

真摯な祈りが長い期間にわたって捧げられてきた空間で、私も手を合わせて満たされた気分になりました。

 

そして、江戸時代に生きた人たちの思いが少しわかったようなつもりになりました。

 

コメント

10月10日のまち 上野・護国院大黒天 その1

2018-10-11 21:50:34 | 歴史あれこれ

リフォームを長男の設計事務所に依頼しているため、また上野に出かけました。

 近くに護国院大黒天というお寺があってその名前に魅かれて参拝しようと思いました。

 

 

この護国院大黒天については こちら

むかしの東叡山寛永寺三十六坊の1つで、今でも東叡山釈迦堂ともいわれているそうです。

寛永寺で最初に建てられ、1630年に落成したものの、1717年に焼失、

1725年に再建されたもののようです。

開祖は天海大僧正の片腕といわれた生順大僧正とのこと。

谷中七福神の一つのようです。

 

 

コメント

9月13日のまち 上野・寛永寺 その5

2018-10-08 15:38:46 | 歴史あれこれ

この上野戦争などが行われていたころ、川越藩はどうしていたのでしょうか。

寛永寺とは他藩に比べて深い関係にあったように思うのですけれども。

川越藩の動向については こちら

情報をいち早く得ていたようで官軍側となり、川越のまちが守られたということのようです。

何事も情報収集が大事だということですね。

 

戊辰戦争では、外国から提供された兵器の差で、勝敗が決まった面があるようです。

奥羽越列藩同盟側は、情報収集ができなかったうえに古い兵器を高額で買わされてしまったのでしょうか?

 

現代ではフェイクニュースといった偽情報やサイバー戦争まであるので情報収集もたいへんですね。

川越藩のような手堅いDNAというものがいざというときには発揮される・・・・ということもありそうです。

コメント