椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

10月19日のまち クリスマス試食会

2018-10-29 18:26:45 | 生協活動

パルシステム埼玉所沢第2地区会で恒例のクリスマス試食会が開かれました。

現在、地区委員は5人で、こういったささやかな集まりの企画・運営を年3~4回ほどを手分けして行っております。

大まかな流れとしては

・準備

企画の場所・日時・担当・参加費などを決める

→生協企画広報チラシ掲載申し込み(参加者募集)

→参加申込者へ当落連絡

→当日で使われる商品発注

・当日

会場設営

→キャンセル確認・緊急時対応確認

→参加者への注意事項を伝える

・終了後

会場の原状復帰→報告書作成

となっています。

ありがたいことに毎年更新されて配布される「委員のしおり」にマニュアルや連絡先など見やすくまとめられています。

こういったものはどこの組織でも必要そうです。

今回は当日のキャンセルがあったりして、5名の方が参加されました。

お皿、カップ、三角巾、エプロン、ふきんは各自に用意してもらっての参加となっています。

後片付けの時間があまりないので、大きめのお皿を1枚もってきていただきました。

これが1人分です。カロリー過多かもしれませんね。

 

会場は所沢地区の配送をしている三芳センター食堂で、商品は当日食堂に置かれています。

私以外の方たちは車で出かけてくるため、駐車場の心配がなく申し込みが楽なこの会場は使いやすいとのこと。

ただし、参加申し込みは毎回それほど多くはありませんので、参加費を100円として認められた経緯があります。

それぞれの地区会でのクリスマス試食会の参加費は100円から500円までまちまちで、今後、申込数や内容などから検討されていくことになると思います。

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9月にパルシステム埼玉で「生協とは」学習会がありました。

協同組合の歴史、パルシステムグループの歴史を振り返りながら、「協同組合」の価値と役割を考えるという趣旨でした。

協同組合について

定義:協同組合は、共同で所有し民主的に管理する事業体を通じ、共通の経済的・社会的・文化的ニーズと願いを満たすために、自発的に手を結んだ人々の自治的な組織である。

価値:協同組合は、自助、自己責任、民主主義、平等、公正、そして連帯の価値を基礎とする。それぞれの創設者の伝統を受け継ぎ、協同組合の組合員は、誠実、公開、社会的責任、そして他人への配慮という倫理的価値を信条とする。

日本での協同組合は

生活協同組合(地域生協、共済生協、医療生協、大学生協など)・・消費生活協同組合法(厚労省)

農業協同組合・・農業協同組合法(農水省)

漁業協同組合・・水産業協同組合法(農水省)

森林組合・・森林組合法(林野庁)

労働金庫・・労働金庫法(厚労省/金融庁)

信用金庫・・信用金庫法(金融庁)

信用組合・・中小企業等協同組合法(中小企業庁) 

根拠となる法律が異なり、所轄官庁が違っているため、日本の協同組合の閉鎖性が生まれ、利害集団とみられやすくなったとのこと。

また、労働者協同組合法が成立していないため、協同労働への参画、雇用問題についての取り組みが弱いということもいえるとか。

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日本の将来にとって選択肢を多く残しつつ、生協を育てていくことが大事そうです。

生協が日本の雇用問題について率先して考える組織になるといいのではないでしょうか。

首都圏の生協では配達員さんたちの待遇が気になるところ。

ネットでは生協がブラック企業だともいわれたりしているようで、人手不足が深刻になっていけば問題が出てきそうです。

 

こういった感想をあれこれの会議で訴えてみるのですが、どこでどのように訴えればよいのか、方針の決定がどこでされるのか、組織図を見てもいまいちわかりません。

あれこれの報告書や会議は単なるガス抜きのようにも感じられてきます。

生協のみならず民主主義の組織というものの問題点はそういった面にありそうです。

 

 


10月17日のまち 庭木剪定

2018-10-25 10:04:20 | 建築

築35年ほどになった我が家のリフォームを息子の設計事務所に依頼しているのですが・・・・・

まず植木を何とかするように、といわれて(泣

 

今の時期は造園業の方たちは多忙期のようで、たまたま近くの親戚のお宅で剪定の作業をされていた植富さんという個人の方にお願いすることにしました。

 

ビフォー  猛暑をクーラーなしで過ごせたのはこの茂った樹木のおかげだったのですけれど。

 

アフター すっきりしました。

 

定年後に1級造園技術士と1級造園施工管理技士の資格を取られたとのことで、かなりの分量でしたが手際よく2人で2日で仕上げていただきました。

 

 

・手入れのコツや趣味のお話などお聞きすることができました。

・お2人のお話から体を動かす仕事で、よく眠れるとのこと。定年延長よりも思い切って他の仕事にチャレンジしてみることもよさそうです。

・私の場合、まちづくり活動で同年配の男性の方たちとよく話す機会があるのですが、そうでない方は業者の方に何かを依頼するのがおっくうになったりするようです。

高齢で1人暮らしになったりする場合、いろいろな方にお世話になることが多くなるので、まちづくり活動などに参加して会話が無理なくできるようにしておく必要がありそうです。

植富さんのお父さんに我が家の長男がお世話になったことがありました。

長男が中学生の時にビデオ研究会に所属していて、狭山湖の歴史をビデオにまとめて文化祭で発表したことがありました。

そのときお父さんのYさんに勝楽寺村から山口地区に移られたという体験をカメラの前でかなりの長時間お話をしていただいたのです。

貴重な記録だと思われますが、そのビデオは今、中学校にあるのかどうか。劣化してしまうものかもしれませんね。

 

文化祭の発表会では、あまり編集をしていないものであったせいもあってほかの発表がいろいろある中では時間的に迷惑になってしまったようでした。

中学生ぐらいのときにも、まちづくりのような体験をしておくことは必要ではないでしょうか。

 

 


10月14日のまち 山口歴史講座 勝楽寺 1300年の歴史

2018-10-24 12:35:50 | 歴史あれこれ

10月14日(日)に所沢・山口まちづくりセンターホールで

第60回山口地区文化祭記念事業

山口歴史講座「勝楽寺 1300年の歴史」 湖底のふるさとを振りかえって

が開催されました。

プログラムは

1.嘉永2年の『山口詣』から見た勝楽寺村佛蔵院について

  小山 裕さん(山口郷土民俗資料保存会副会長)

2.座談会 旧勝楽寺村からの勝楽寺移転について

  竹中清悟さん(佛蔵院勝楽寺二十四代住職)

  斎藤重雄さん(山口郷土民俗資料保存会/元宮大工)

  小山 裕さん(山口郷土民俗資料保存会副会長)

 司会進行 神藤年三さん(山口まちづくり推進協議会会長)

となっていました。

 

狭山湖底に沈んだ勝楽寺村について、興味を持っている方が増えているようで、この講座にも多くの方たちが来ておられました。

ふと郷土史というものは、古いものについてはこれが真実だと言い切れないものがあったりして、その時代での望ましい歴史みたいなものが付け加えられたりするのかもしれない、と思うことがあります。

1.では、江戸末期の嘉永2年(1850年)の資料について大変興味深いものですが

 作者が柳瀬の川うそ となっていて・・・・数々の伝説の紹介がされていました。

 奈良時代から鎌倉時代まではどういう時代だったのか、かえって謎が深まっていくような・・・・・

2.では元宮大工の方や佛蔵院住職の方から移築のお話がありました。佛蔵院は勝楽寺村にあったお寺でいまは山口に移築されています。

 勝楽寺村は松材の産地だったようです。それで大きな家が並んでいたのだとか。

 

 

 佛蔵院の移築の様子だとのこと。大掛かりな足場で滑車などを使ったようです。

 

 梁にはりっぱな松が使われているようですね。

 

  90歳を過ぎているという元宮大工の方の生き生きした説明に、これこそ歴史だ!と思ってしまいました。

 奈良時代にもこういった多くの大工さんたちが日本のあちこちで活躍していたことでしょう。


10月10日のまち 上野・護国院大黒天 その4

2018-10-21 12:41:25 | 歴史あれこれ

1717年とは8代将軍吉宗が前年に将軍となったばかりのころ、ということになります。

吉宗の財政改革は、何とか成功したようですから、現代でも参考になる点が多々あるのではないでしょうか。

吉宗について こちら

自ら質素な暮らしをして改革に臨んだ、側近重用を避けたということは評価されているようです。

情報収集・分析などにも人任せにせず熱心だったように見受けられます。

天英院から見込まれての就任ということなどから、大奥にはやはり参謀的な女性もいた、ということではないでしょうか。

 

国難ともいう時期に舵取りを任されてどのような心境であったのでしょうか。

牧谿「瀟湘八景図巻」などの絵画が好みであったとか。

検索して得られた牧谿「煙寺晩鐘図」はこちら  等伯の「松林図」に近いような・・・・

 

ドラマなどで描かれてきた暴れん坊将軍吉宗とはだいぶ違っているのかもしれませんね。

改革とはずっと厳しいものであり、多くの人たちがその気持ちを共有することが必要そうです。

 


10月10日のまち 上野・護国院大黒天 その3

2018-10-18 12:09:38 | 歴史あれこれ

上野戦争、関東大震災、戦災をくぐりぬけて残ったこの護国院大黒天は、1717年に一度焼失しているとのことです。

もしかしたら、そのころ江戸は何らかの危機があっての「護国」ではないか、と思ってみました。

そういえば、護国寺はどうだったのか・・・・・ こちら

護持院が1717年に焼失して護国寺境内へと移されたとのこと。

1700年前後はもしかしたら危機と思われる状況があったのかもしれません。

森鴎外が「護持院原の敵討」という作品を残しています。

史実としてはその敵討は1830年代の出来事のようです。

1913年に発表されたこの作品にどういう意味があったのでしょうか。

「敵討」について

護持院に着目すれば

1700年ごろのものとしては

忠臣蔵、伊勢桑名藩での野村騒動など。

1830年代に着目すれば

大塩平八郎の乱

1910年ごろとすれば

日清、日露戦争、あるいは大逆事件

 

そのほかにも多くの殉教者たちとか旧幕府側など複雑な集積といったものなどにも思いを巡らしたということはないでしょうか。

 

 

 


10月10日のまち 上野・護国院大黒天 その2

2018-10-11 22:14:01 | 歴史あれこれ

堂内の写真もOKとのことでした。

哲学的な大黒様のようです。

護摩木に心願成就と名前を書いて納めました。

江戸時代の千人仏です。

格調の高さのようなものを感じたりします。

「護国院大黒天の縁起」から

・徳川氏が天下を統一し、次第に平和な時代がまいりましたが、平安な日々が続くにつれ、かつて歴戦の武将として戦場に多くの血を流した大名たちも、戦死者たちの追善供養をせずにはいられない気持ちになりました。

・丁度その頃、即ち寛永十六年、大阪落城二十五年に当って、この護国院釈迦堂で、豊臣・徳川両軍の戦死者の霊を弔うため大念佛法要が行われました。

・この時、三代将軍家光公は、国の護り、人々の福運を長く祈ってほしいと願われ、大切に秘蔵されておりました藤原信実卿のかかれた大黒天の画像を、護国院の開祖生順大僧正(天海大僧正のお弟子)に贈られました。

それ以来この尊像をおまつりして鎮護国家と、海運隆昌を祈り続けてまいりましたので、護国院大黒天として信仰されました。

・わが身の福運を祈ると同時に、ご利益がすべての人々の上にありますよう祈ることが、ご利益をえる秘訣でございます。

その時心は争いを忘れて安らぎ、自然に七難を遠ざけ、七福を授かりましょう。

・どうぞ一人でも多くお誘いになって、大黒天の前で心の安らぎと福運とをお祈りください。

 

なるほど、自分の福運を祈るだけではなく、ご利益がすべての人々の上にありますようにと祈るのが大黒天の信仰だったんですね。

真摯な祈りが長い期間にわたって捧げられてきた空間で、私も手を合わせて満たされた気分になりました。

 

そして、江戸時代に生きた人たちの思いが少しわかったようなつもりになりました。

 


10月10日のまち 上野・護国院大黒天 その1

2018-10-11 21:50:34 | 歴史あれこれ

リフォームを長男の設計事務所に依頼しているため、また上野に出かけました。

 近くに護国院大黒天というお寺があってその名前に魅かれて参拝しようと思いました。

 

 

この護国院大黒天については こちら

むかしの東叡山寛永寺三十六坊の1つで、今でも東叡山釈迦堂ともいわれているそうです。

寛永寺で最初に建てられ、1630年に落成したものの、1717年に焼失、

1725年に再建されたもののようです。

開祖は天海大僧正の片腕といわれた生順大僧正とのこと。

谷中七福神の一つのようです。

 

 


9月13日のまち 上野・寛永寺 その5

2018-10-08 15:38:46 | 歴史あれこれ

この上野戦争などが行われていたころ、川越藩はどうしていたのでしょうか。

寛永寺とは他藩に比べて深い関係にあったように思うのですけれども。

川越藩の動向については こちら

情報をいち早く得ていたようで官軍側となり、川越のまちが守られたということのようです。

何事も情報収集が大事だということですね。

 

戊辰戦争では、外国から提供された兵器の差で、勝敗が決まった面があるようです。

奥羽越列藩同盟側は、情報収集ができなかったうえに古い兵器を高額で買わされてしまったのでしょうか?

 

現代ではフェイクニュースといった偽情報やサイバー戦争まであるので情報収集もたいへんですね。

川越藩のような手堅いDNAというものがいざというときには発揮される・・・・ということもありそうです。


9月13日のまち 上野・寛永寺 その4

2018-10-06 10:16:31 | 歴史あれこれ

上野戦争では、輪王寺宮という存在が大きな役割をしていた、というかさせられていたようです。

のちの北白川宮能久親王と称されるこの人物の運命は本当に興味深いものがあります。→ こちら

錦の御旗が彰義隊側にも必要だったということなのでしょうか。

まだ若かったたため、側近たちに従うしかなく、その後も台風の目のように東北を動かされることになったように思われます。

奥羽越列藩同盟については こちら

欧米の武器商人などの動きが伝えられているものの果たして使いこなせたものかどうか・・・・・

 

森鷗外は、作家兼歴史家として能久親王に特別な思いを抱いたのがよくわかります。

森鷗外がドイツ留学時の恋人が日本へ追いかけてきたものの家族の反対で会うことすらできなかったとはよく知られています。

能久親王も上野戦争のあと、ドイツに行き似たようなエピソードを残しています。

森鷗外による「能久親王事蹟」が遺されています。その中に掲載されたという「能久親王年譜」が青空文庫にありました。 → こちら

能久親王は近衛師団長として出征した台湾でマラリアに罹り亡くなったとのこと。

 

大日本帝国がハプスブルク帝国同様に消滅への道をたどらないためにはどうしたらよいのか、と森鷗外は考えたことでしょう。