テムテムな日常

頑張れみんな!頑張れ自分!

援助するということ

2008-06-06 | 雑談
タイ語学習の一環となれば・・・という気持ちで、とある支援団体の翻訳ボランティアをするようになり1年がたちました。学校の長期休暇のあとに、里親の方へあてた手紙を翻訳するのが主な役目です。子供達は普段は親元を離れて支援団体の寮生活をしながら学校へ通っているわけですが、どの子も「夏休みは家に帰って両親の仕事を手伝った」といったことを書いていて・・・なんか正直、私たちの生活とはかなりかけ離れた生活をしているんだなぁ・・・と、胸打たれることも多いのです。もちろん、楽しい夏休みの出来事ばかりが書かれているわけではありません。ときには知人の死や、ご近所さんの不祥事(麻薬で捕まった、とか・・・)も書かれていて、こちらとしては訳すのにちょっととまどってしまうようなこともあるのですが、まぁそれはそれ。子供達の生き生きとした生活ぶりを感じてこちらもうれしい気持ちになることの方が多いです。

この支援団体からは、毎月活動報告を兼ねた冊子が送られてくるのですが、先々月くらいのものに書かれていた代表の言葉に、私はとっても感動して、「これからもここのボランティアをしよう!」と強く思ったのですが・・・

「支援する」ということの最終目標というものは、「支援活動の終了」だと思うんですよ。言い換えれば、「プロジェクトの終了を目指して活動する」のが「支援活動」だというわけです。これは一見「?」となるように思いますが、とても大切なことではないかと私は考えているわけです。

支援を受ける側が、支援されることに慣れてしまうことは、とても危険なことだと思うのです。いつかは自立して、支援がなくても自分達の足で立ち、歩いていかなければならないのは当然のことなのですが・・・日本人の考える「支援」というものは、どうも自己の満足にすぎないのではないか、という気がするのです。

私は介護の仕事をしていますが、なんでもかんでも利用者のニーズを先回りして、1から10までお膳立てするのが正しい方法ではありません。「ちょっと物足らんな」と思われるくらいがちょうどいいのです。「できることはやってもらう。出来ないことは手伝う」というのが、ケアの基本ではあるのですが、介護側の都合で手を出しすぎてしまったり、すべて完璧にこなしてあげることが正しいケアだと思い込んでいる介護職員がいかに多いか・・・。こういった「里親」というボランティア活動にしても同じことが言えるのです。金銭的な面で援助することは確かに一時的には助けになります。しかし、援助した子供達の「人生」まで背負うことは出来ない・・・いつかは自立することを願い、その日をめざして援助するということが大切なのではないかと思うのです。

代表の方の言葉には「プロジェクトの終了がみえてきた」とありました。つまり、自立の道が開けてきた、ということです。これが一番いいことなのです。もちろん実際にプロジェクトを終了するのはまだまだ先になると思います。けれども確実に、この団体の行ってきた支援活動は「自立」への方向へ向かってきている・・・私も微力ながら、このプロジェクトの行く末を見届けたいと思っています。