三昧日記

小心者川筋男の後悔日誌

低い山ある記(22)名無し竜王山

2019-10-12 05:46:33 | 日記
久しぶりの「低い山」ある記です。一昨日近郊の小山に登りました。以前か
ら気になっていた山です。大坂山から馬ヶ岳へと続く山並みに目立つピーク
があります。国土地理院の地形図で調べても名前がついていません。登山道
も示されていません。
(1)山 名 無名(ここでは取り敢えず「名無し竜王山」と呼びます)
(2)標 高 353.8m
(3)位 置 北緯33°40’2.6”, 東経130°54’28.5”
(4)登頂日 2019(令和元)年10月10日
名無し竜王山の遠景です。

一番高いところが頂上です。頂上から左側に急斜面があってそこからしばら
く平坦部が続きます。それから再び急斜面になり降り切ったところが峠で,
ここが登山口になります。登山口とはわたしが勝手に位置付けたものです。
たいていの場合山の稜線には道があるものです。
下の地図をご覧ください。

わたしが歩いた軌跡を破線で記入しました。右側の峠が登山口です。その
場所は崖になっており,まずこれを登るのが大変です。

上の写真中央部に見えるあけびの蔓をつかんでよじ登ったものです。しば
らく道のないところを強引に登って行くと道らしき形跡が認められます。

急斜面を登りきったところが最初のピークです。標高234mです。

地図では三角点があるはず。探して見ると,・・・ありました。

「四等」三角点ですね。左横書きなので新しい(戦後の)ものでしょう。
小ピークですが周囲は樹木に覆われて眺望がまったく利きません。道はこ
こから2方向に分岐しています。主峰の方角に進みます。

途中省略。何やら見えてきました。

祠のようです。頂上にまちがいないでしょう。

三角点もあります。今度は右横書きで「三等」と書かれています。戦前
のものかも知れません。

祠の中には一枚の大きな石が置かれてあって,「龍王大権現」と彫り込
まれた文字が認められます。これが,わたしが名づけた「名無し竜王山」
のいわれです。
祠の背面です。

風化と苔のため判然としませんが,大体以下のように文字が刻まれてい
ました。
背面の石は左右に分かれていて,まず右側は
縦書き: 文政九年三月八日
横書き: 工石 吉夏
     吉寅 野鞘
横書きの部分はどう読んだらいいのか分かりません。石工という文字が
あるので右横書きと判断しました。夏吉は地名とすれば隣の郡(市)に
あります。その下の鞘野は名字でしょう。寅吉は名前でしょう。文政と
いえば江戸時代。庶民は名字を許されていませんでした。すると,寅吉
という名の石工が作ったものと思われます。
分からないのは夏吉/鞘野です。夏吉の鞘野と言う人が奉納したのでし
ょうか?でもなぜこちらは名字(だけ)?
夏吉の鞘野寅吉という石工が拵えたのかも知れません。しかし,そうす
るとなぜ名字と名前の間に空白があるのか?
背面の左側部分にはすべて縦書きでつぎのように刻まれています。
世話人 中村喜太郎
昭和五年九月吉日
圖師區中四一名
區長棚田熊太郎
風化・苔のため一部の字は想像力を働かせたものです。間違っているか
も知れません。
当初「圖師」というのは石工と同様職業だと思いました。しかし,地理
院地図で確認するとこの山のすぐ北側にある(あった?)集落の名前で
あることが判明しました。
四一名は四十名かもしれません。41名なら四十一名と書くのではないで
しょうか?しかし,十の縦棒がどうしても認められませんでした。
つまり図師の人達41人(または40人)が寄進・奉納したということに
なりましょう。
しかし,ここでまた疑問。文政九年とはどういう関係になるのでしょう
か?
もっともらしいわたしなりの解釈はつぎのとおりです: 最初文政九年
に誰かが奉納した。それが風化していたので昭和五年に麓の図師の人た
ちが改修した。
あれこれ推理しながらの下山でした。
以上