今日は、宮島弥山倶楽部の初心者登山に参加する、ひさしぶりで、たのしみだ。
広島駅のホームは貨物列車も通過する、地元の人達は別として、観光客はだいたいが
カメラを構える。
集合して、船に乗るといつもわくわくする。総勢7人だった。
色あざやかだ。
猫はいつも人気者だ。
今は使われていない岩惣の宴会場、おもむきのある建物だ。
こういう道標もある。昔から道に埋め込まれていたのだろうか、それとも立てられていたのだろうか。
右から2文字目「い」の隣は「わ」なのだろうかと思って、東京に帰って、受講しているカルチャー
センターの王朝物語の先生に質問したら、「は」の変体仮名であると教えてもらえた。現在使っている
「は」は「波」由来のかなで、この写真のものは「者」由来のかなとのこと。PCにはない字だ。
「いわ」は戦前によく使われた歴史的仮名遣いでは、「いは」とのことで、現在の表記では「いわ」に
なる。つまり、「岩惣」だったのだ。
川岸を上って、岩惣の離れに行く。この川岸の場所は、礎石だけがのこっているが、風流な東屋が
あったらしい。
「うーん」という風情の離れ、風呂はないらしいが今でも泊まれる。
さきほどから、昔は賑わって繁盛していたのだろうなという雰囲気がただよっている。
今日も、この前と同じ、紅葉谷コースを登る。
お母さんは強し。
登山口の石碑に「大黒天」と書いてある場所と思われる、岩陰。今は、仏像はない。
真ん中にある黒い点は近づいて見てみるとコウモリだった。
飛びまわるので、これが撮影の限度。
本堂からの景色、かすんでいる。
ここで、昼食になった。その後、リーダーが用意してきた厳島図屏風(大聖院所蔵)と厳島図絵の
資料を見ながら、本堂・霊火堂から山頂までの遺構を探した。どちらも江戸時代の絵だ。
はじめてつれていってもらった、三鬼堂の裏の祠、なにかおごそかなものを感じた。
ここにもはじめてつれていってもらった、やはりなにかおごそかなものを感じた、上下の写真。
途中の景色。
文殊堂、観音堂の前のこの場所に次の写真の焼き物がむき出しになっていた。雨で地表に出て来たの
だろうか。
表側。
裏側。広島大学に持って行くとのことだった。
鐘楼の跡、ここはいつもすぐそばを通っているのに、近づいたのははじめて。
1945年の枕崎台風?で鐘楼は倒壊したらしい。平宗盛寄進と伝えられる梵鐘は本堂に安置されて
いる。
ここにもはじめておまいりした。
屏風にも図絵にも載っている毘沙門堂の柱の穴ではないかと思われる、上下の写真。
毘沙門堂跡の後ろの岩は見上げると大きい。
山頂入口の門のようになっている岩はよく見ると怖い。いつも気にもしないでくぐっていたが、
右上部の苔の下の半円形の空間は最近この岩がずり落ちてできたものだ。やっぱり、こわいなー。
海の青、木々の緑がきれいだ。
屏風にはカヤの木が目印的によく表示されている、それらの木はもうないらしく、見つからなかった。
樹種としては、この木だろうか。
ここにもはじめてつれてきてもらった。
そこからの駒ヶ林。仁王門の工事現場のビニールシートも見える。
仁王門の工事現場、ついこのあいだ28日に来た時から工事が進んでいた。
2004年9月の台風で倒壊したとのこと。
大聖院コースの降り口。このコースを降る。
この景色はいつ見てもいい。
今日も大満足で船に乗った。