今日一番印象にのこったもの。とにかく「すごかった」。北条稲荷のおきつねさま。
今日は「小田原マナイタ散歩~敗者の残滓を求めて~」と言う催しに参加した。12時にJR小田原駅改札に集合、半日の街歩きだった。
小雨だったが暖かくて歩きやすかった。企画された「小田原大好きな」方とマナイタ学会長のお世話で約20人の参加者がたのしい
時間を過ごした。ありがとうございました:
新宿駅にはいろんなロマンスカーがはいってくる。
ぼくはこの電車に乗った。
すいていた。
大人数でバスに乗る。運転手さんはなにごとだろうと思ったにちがいない。
市街地の東南、酒匂川手前のあたりで降りる。
小田原合戦の時に徳川家康の陣があった場所にある祠。3万人の兵を率いて箱根を越えて、布陣。平地だし、小田原城にも
近い。豊臣秀吉からの圧力が感じられる。
現地ではどういう図柄かわからなかったが、家に帰って見たら、お姫様の酒匂川の川越だった。あちこちにあった。
何mなのか不明。
途中の祠。
大木の切り株が何本も残っていた。
貫禄のある狛犬。
蘇鉄が立派なお家。
津波対策には気を使っている。
多分この後、関東管領上杉憲政の嫡子の龍若丸の墓(この人が殺されたので、憲政は長尾景虎に家督を継がせて、上杉謙信
となった)。隣の恵比寿神社。新田義貞の首塚。と行ったが写真を撮らなかった。
暗渠の上の橋の欄干跡。
反対側からは開渠になっている。
欄干にある謎の穴。
国道をくぐって海岸に出る際にあった看板。津波のキャラクターには迫力があった。
雨なのでさびしかった。西側方面。
東側方面。
足跡がいっぱいあるのでなにかの練習場だろうか。
男性用。
男性・女性用。すごく簡素なトイレだが十分役に立つ。
山王川の河口。
道路の向う側、上流方向にある山王神社。小田原合戦の時、このあたりに北条勢の砦(曲輪)がり、徳川勢の井伊直正が
攻め落とした。小田原城総構で行われた唯一の合戦らしい。
藪原稲荷。北条時代、江戸時代にこの付近に処刑場や刑死者を葬った場所があったらしい。
袖ヶ浦地蔵尊。
幕末にコレラが流行して、疫病退散、漁の安全で崇められるようになったとのこと。小田原城総構の上にあるらしい。
そこにいた猫。みんなが呼んだら逃げて行った。
北条稲荷。北条氏政が父、氏康の死を狐の祟りと考えて祀った社。元は小田原城内にあった。ここも総構の上らしい。
ここのおきつねさまは、ど迫力だ。ブログの一番最初の写真もここ。
子ぎつねが母ぎつねを見上げている。
一里塚跡。
江戸見つけ跡。
背後の松がかっこいい。
昔は抹香町と呼ばれたところ。遊郭の跡。赤線、青線と続いたらしい。道が非常に狭くて、碁盤目に通っている。
名残かなーと思われる家がある。
ぼくが入社した大昔に作られていた模様の型板ガラスがたくさん使われていて、思わず撮ってしまった。
近くを総構の外側の堀(水路)が流れていた。暗渠になっている。
総構跡(蓮上院土塁跡)。堀跡の暗渠が道路になっている。
流れを覗く。
爆弾がおちて、総構が吹っ飛んだあと。
江戸時代の小田原藩牢屋敷跡、明治時代には監獄。
この後、甲州道を北上して五百羅漢駅方面に向かう。甲州道は江戸幕府街道奉行の管轄街道の一つ「矢倉沢通」の一部と
思う(「根府川通」とともに五街道分間延絵図に記載されている)。
売っているもののとりあわせが昔風だ。
左側のお家。
右側のお家。
右側のお家の屋号。
さっき河口に行った川だ。右側のキャラクターがいい。
アマゾンの流通基地。
読めないけれど「右ーーー」の道標。
曲がって見るとこういう感じ。
味噌屋さん。製造建物もあった。
山王森(多古)刑場跡。江戸時代の刑場跡、刑執行の時、玉宝寺の僧侶がお経をあげていたらしい。
この道が玉宝寺に続く。
玉宝寺。
五百羅漢像。
裏山の墓地の頂上にあった祠。
その向こうは小田急線が通った時に造られたらしい切通し。
鐘楼。江戸時代の処刑者の供養の鐘を午前十一時につくと書いてあった。
お寺の横を小田急ロマンスカーが通った。
白山神社。小田原合戦の時に織田信雄の陣があった場所。
大雄山線五百羅漢駅。ローマ字表示のHとYの間にスペースがあるのは不自然だなーとよくよく眺めたらIの字を消した
跡があった。昔はGOHIIYAKURAKANと表示されていたようだ。
市街地に電車で戻って、少年院へ。正門。
現在、移転を検討中らしい。
新幹線の古い型の鼻の部分だろうか。
こういう施設だった。
駅前繁華街にあった。
この後、駅前で解散。めずらしい所をまわって、おもしろかった。今日は懇親会にも参加して、たのしんで、ロマンスカー
で帰った。