「苫草場争いのまとめ」その二
⑤ 田並上村と、田並浦の氏神様は両村共有の天満宮ですが、この文書の作成日から17年以前(享保18年・1733年)、神社修理の際、両村の連名ではなく、「田並浦」とのみ棟札に書いたことは、承知できない仕方であります。浦儀八郎殿が大庄屋の時にもお話申し上げているのですが、斯様なことで公け事に申し上げるのも憚り多いことですが、棟札に田並浦の名前のみ書いたことは勝手気侭な仕方で御座いますので、良きお取り計らいを成し下さいますよう、願い奉ります。
⑥ 12年前、田野崎へ難破船が漂着した時にも、上村には少しも配当が入らず、田並浦のみが支配したと言う事実があります。
「筆者・注」昨日も述べました様に、この田野崎の岬は、位置的には明らかに田並浦(下村)領内であるのに、ここでも難破船の取り分うんぬんの話しが出て来ますので、この岬を含めて、海岸の磯辺物の収穫は両村入り会いの部分であった可能性が考えられます。
「棟札」・・・『むねふだ』又は『むなふだ』と読む。建物の新築の棟上げや建て替え・大修理などに当たって、工事の意味や、日付、大工の棟梁の名前、建築主の名前などを墨で木の板に書き、棟木に打ちつける木札のこと。本文の場合は、建築主として、田並浦と田並上村両村の名前を書くべきなのに、田並浦とのみ記載したことに怒っているわけです。日本史の中で、数多くの有名神社・寺院・その他主要建築物に残されている棟札により、色々な歴史事実が判明する事が多く、棟札は歴史上の重要な史料となっています。
本文に記載されている、古文書学習上の慣用句としては、「難心得」・・・『こころえがたく』。 「気侭成」・・・『きままなる』。 「右之品」・・・『みぎのしな』、右に述べた事情。 「憚多ク」・・・『はばかり多く』。恐れ多いこと。遠慮が有ること。 「難渋船」・・・『なんじゅうせん』。難破船の事。意味不分明の宿題用語は「分一」、「不在村」などがあります。つづく