古文書に親しむ

古文書の初歩の学習

第二十一章 苫草場争い 其の五十六

2014年05月26日 04時59分37秒 | 古文書の初歩

「苫草場争いのまとめ」その二

⑤ 田並上村と、田並浦の氏神様は両村共有の天満宮ですが、この文書の作成日から17年以前(享保18年・1733年)、神社修理の際、両村の連名ではなく、「田並浦」とのみ棟札に書いたことは、承知できない仕方であります。浦儀八郎殿が大庄屋の時にもお話申し上げているのですが、斯様なことで公け事に申し上げるのも憚り多いことですが、棟札に田並浦の名前のみ書いたことは勝手気侭な仕方で御座いますので、良きお取り計らいを成し下さいますよう、願い奉ります。

⑥ 12年前、田野崎へ難破船が漂着した時にも、上村には少しも配当が入らず、田並浦のみが支配したと言う事実があります。 

 「筆者・注」昨日も述べました様に、この田野崎の岬は、位置的には明らかに田並浦(下村)領内であるのに、ここでも難破船の取り分うんぬんの話しが出て来ますので、この岬を含めて、海岸の磯辺物の収穫は両村入り会いの部分であった可能性が考えられます。

「棟札」・・・『むねふだ』又は『むなふだ』と読む。建物の新築の棟上げや建て替え・大修理などに当たって、工事の意味や、日付、大工の棟梁の名前、建築主の名前などを墨で木の板に書き、棟木に打ちつける木札のこと。本文の場合は、建築主として、田並浦と田並上村両村の名前を書くべきなのに、田並浦とのみ記載したことに怒っているわけです。日本史の中で、数多くの有名神社・寺院・その他主要建築物に残されている棟札により、色々な歴史事実が判明する事が多く、棟札は歴史上の重要な史料となっています。

本文に記載されている、古文書学習上の慣用句としては、「難心得」・・・『こころえがたく』。 「気侭成」・・・『きままなる』。 「右之品」・・・『みぎのしな』、右に述べた事情。 「憚多ク」・・・『はばかり多く』。恐れ多いこと。遠慮が有ること。 「難渋船」・・・『なんじゅうせん』。難破船の事。意味不分明の宿題用語は「分一」、「不在村」などがあります。つづく


第二十一章 苫草場争い 其の五十五

2014年05月25日 06時00分54秒 | 古文書の初歩

「苫草場争い・願奉口上」のまとめ。

これは、田並上村文書のうち、田並上村と隣村の田並浦(通称・田並下村)との間で起こった紛争に関する、大庄屋宛ての調停陳情の文章です。いわゆる「一つ書き」と言われる古文書のスタイルになります。

本文の始まりの文書が欠落していますので、一頁の前に幾つの一つ書きが有ったのか、それとも本文が最初の一ページなのか分かりませんが、大勢に影響は有りません。はじめの文章(本学習の第一~第六ページまで)は、先ず第一に、当上村が不作で困窮しているのに、隣村の田並浦から、強引に押し入り苫草を引きに来たのは、不届き千万である事。

第二番目に、先年田並浦と東隣の有田浦との間の領分争いの時の話し合いとして、上・下入り相(相互に他領へ入り込む事)と申し出たが、これは田並浦の領分だけの話しでも無いので、連名で書き付けを差し上げるつもりである事。

第三に、田並浦の方は、なちかの平見・堤の平見・田の崎その他多くの新畑を開墾して、農地を拡げているのに、上村の方は少しも開墾させない状況の中で、上村へおおぜいで入り込み、苫草を引きに来るのは不届き千万なやり方である事。(不届き千万は二回目です。)

第四番目として、田ノ崎山については、木の下の雑木や松の枝打ちの稼ぎ仕事は、田並浦ばかりがいい目をして、当村には何の恩恵も無い事。

ここで、不可解なのは、「田ノ崎山」は現代の我々から見れば、明らかに田並浦の領分と見えるのに、これほど拘っているのには、何か理由が有るのかも知れません。つまり、田ノ崎の岬は、両村入会の約定が有ったのかも分かりません。 以下つづく。

 


第二十一章 苫草場争い 其の五十四

2014年05月24日 06時45分54秒 | 古文書の初歩

「苫草場争い・願奉口上」第十二及び十三頁、日付・署名・宛名欄

解読 (十二頁)          田并上村庄屋 常蔵

                    同所肝煎 曽之右衛門

          一名「組頭」と読めますが、省略します

    (以下十三頁)        頭百姓 四郎兵衛

                     同断  平右衛門

                     同断  千右衛門

                     同断  平兵衛

    寛延三年           同断  左右衛門

      午九月           同断  万七

                     同断  徳三郎

                     惣百姓中

     浦 儀左衛門殿

解説 このページは文章が無いので、特に解説は不要と思いますが、名前の文字の特徴について述べておきます。前ページの署名の最初は、「田并上村 庄屋 常蔵」・・・「并」は現在の「並」、この辺は書きなぐった様な書き方です。「庄屋」も読めません。「常」も「蔵」も形で覚える字。この時代の名前の読み方はたいへん難解で、すべて形で覚える字と言っても過言ではありません。つまり、全部は覚えきれないと思います。慣れるしかないと言う事になります。 次の「肝煎」も読むのは困難ですが、「庄屋」とセットですから、分かります。次は「組頭」と書いていますが、切れているので省略。十三頁、はじめは「頭百姓・四郎兵衛」・・・頭『かしら』百姓・・・百姓のうち指導的な立場の者。田並上村には、三つの組が有り、その長を「組頭『くみがしら』と言いますが、その下に「頭百姓」が七人居たと言う事か?「同断」とは、右に同じと言う意味です。つまり「頭百姓」のこと。それぞれの名前については、全く難しいですが、この文書は、人名の手本としてはとても参考になります。この中で、特に形で覚えるのは、「ら」の様に書く「郎」、「右」と「左」の区別、などに注意しましょう。この中で一番やさしいのは、「万七」でしょうか。 「惣百姓中」・・・百姓一同の事。 「寛延三年」=1750年、今から264年前の文書です。 「浦儀左衛門殿」・・・江田組大庄屋殿。  


第二十一章 苫草場争い 其の五十三

2014年05月23日 06時20分36秒 | 古文書の初歩

 

「苫草場争い・願奉口上」第十二頁、上の五~七行目

解読 (苫)草引セ申儀罷不成候間、乍恐

    以御了簡被為仰付被下候ハゝ、難在

    奉存候。以上。

読み 苫草引かせ申す儀罷り成らず候あいだ、恐れ乍ら

    御了簡を以て仰せ付けさせられ、下され候わば、在り難く

    存じ奉り候。以上。

解説 「引セ」・・・「引かせ」と読みます。 「申儀」・・・申す儀。苫草を引かせる件は。 「罷不成」・・・罷り成らず。してはならない。 次の小さい点の様な字は「候」です。「候間」・・・現代文に訳すれば、「・・・ので」。今後は苫草を引かせる事は絶対させないので。 「乍恐」・・・慣用句で、下から返って、「恐れ乍ら」。恐れ多い事ですが。 「以御了簡」・・・お取り計らいをして戴いて。 「被為仰付」・・・下から返って「仰せ付けさせられ」。「被」は受け身や尊敬の意味の助動詞で、「・・・られ」等と読みます。「為」は使役『しえき』の助動詞で、「・・・させ」等と読みます。その次は「仰付」ですから、「仰せ付けさせられ」と読み、続けて難しいですが、「被下」・・・「下され」と読み、目上の人に対するへりくだった言い方になります。 続けて難解文字ですが、「候ハゝ」と書いています。『そうらわば』。下されるならば。 「難在」・・・当て字です。『有り難き』と同じです。 最後も難解ですが、「奉存候以上」。


第二十一章 苫草場争い 其の五十二

2014年05月22日 07時46分06秒 | 古文書の初歩

 

 

「苫草場争い・願奉口上」第十二頁、上の三~四行目

 

解読 不届成儀ニ乍恐奉存候御事。

    右之通ニ御座候得者自今苫

 

読み 不届きなる儀に恐れ乍ら存じ奉り候おん事。

    右の通りに御座候えば自今、苫(草)

 

解説 最初は読みにくいですが、「不届成」・・・不届き成る。道理に背いた。 「儀」・・・事。行為。 次の太字で重ね書きした箇所は「乍恐」・・・恐れながら。 四行目は、「右之通ニ御座候得者」・・・右に述べた通りで御座いますから。 「自今」・・・『じこん』。「爾今」とも書く。これ以後。