古文書に親しむ

古文書の初歩の学習

第二十一章 苫草場争い 其の一

2014年03月31日 05時36分28秒 | 古文書の初歩

願奉口上 第一頁、一~二行目。        たいへんご無沙汰致しました。風邪も完全に治り、少し落ち着きましたので、再開します。   この文書は、はじめの部分が欠けておりますが、全体の文意に支障は有りませんので、使用させて戴きます。串本町史(史料編)に解読は載っています。古文書としては、文字が綺麗で、虫食いは無く、理想的な教材と言えます。

解読 八月十六日始メ引申様ニ村中

    相談仕引セ申候。然処ニ當立毛

読み 八月十六日始め引き申す様に、村じゅう

    相談仕り、引かせ申し候。然る処に当立ち毛

解説 この古文書は、二種類の文書が残っており、不思議な事に、二種とも前の部分が欠けています。前回までは、田並と有田の争いでしたが、今回は、田並浦と田並上村の隣村同士の争いになります。 

「始メ引申様ニ」・・・「引」の次の「ト」の様な字が「申」です。「始め引き申す様に」という意味がよく判りませんが、「引き始める様に」と解釈して置きます。「引く」とは「苫草」『とまくさ』を引く事。「苫草」を刈り取る事。 二行目、「相談仕」・・・相談仕り。相談をして。 「引セ」・・・引かせ。 「申候」・・・「P」様な崩し字の下部が右に跳ねている所は「候」です。 「然処ニ」・・・然る処に。ところが。 「當」・・・当年の。 「立毛」・・・「成長した稲」のこと。

「苫」・・・「苫草」・・・菅『スゲ』や薄『ススキ』や萱『カヤ』の様な植物で、鎌で刈り取って乾燥させ、屋根の材料や、俵の材料など、昔の庶民の生活には無くてはならない重要な生活資材でした。

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休みのお知らせ

2014年03月20日 09時18分50秒 | 古文書の初歩

風邪引きの為、少し休ませていただきます。すぐ治るか、しばらくかかるか分かりません。

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第二十章 乍恐奉申上返答口上覚控え 其の七十二

2014年03月18日 16時38分57秒 | 古文書の初歩

 

⑦ 現代文訳

 

四の(四) 右に述べた霞ヶ谷山の件は、以前に申し上げました通り、昔は当村の百姓・弥次右衛門、重太郎、伝之右衛門と言う者等が、先祖の代から所持して来て、故障も無く支配して来たところ、この度有田上村から彼これ申して来てもつれたについては、右の山御差し止め為させられ、稼ぎ人及び仕入の者どもが難儀し、歩銀等を小百姓どもへ分割払いする事も出来ず、近年は秋の収穫も、とりわけ凶作続きの上、今年の麦作も間違いなく出来が悪く、どちらにしても弱い百姓どもは、至って難渋が重なりましたので、是より内にも御裁許願い奉る筈でしたが、田畑への植え付け等にも差し支えますので、その件について御断り申し上げます。

この際、右の事情をお調べなさって下さいます様、尤も、右に申し上げました通り、昔から故障無く支配してきた当村領に間違い無く、尚また当村から吐生村へ行き来する道も有りまして、年々道の管理も、白畑の尾根まで整備し、御役人衆が御通りの際、前記白畑尾根まで出迎えております。

且つまた、先年から米の出来高を提出の際にも、「東は白畑尾根まで」と書き上げていますので、当村領である事に間違いない処ですが、有田上村から無茶な事を言ってきて、当村百姓ども難儀いたしております。右の各条項を恐れながら、よくお考えの上、御処理なさって下さいます様、願い上げ奉ります。以上の通りお伺いに対する返事の文書を差し上げます。已上。(以上)

田並上村庄屋 長蔵

同所 肝煎   伊右衛門

深美 嘉左衛門殿

丑六月                              終わり

 

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第二十章 乍恐奉申上返答口上覚控え 其の七十一

2014年03月17日 21時48分25秒 | 古文書の初歩

 

⑥現代文訳

 

四の(三) 且つまた、有田上村には滝の尻までは、古くて荒れた田畑も有ります、などと言う事を申し出てきています。これに付いてはそのような事も有り得ると思います。滝より下(シモ)の事は、たとえ田畑が荒れていなくて、元からの山林であっても、有田上村領に相違ございません。

 

当村領と申しましたのは、前段に述べた通り滝の肩までで、白畑の尾根筋で且つ霞ヶ谷の内は残らず昔から所持し、支配して来ており、既に山林歩銀(税金)決定のお達しもございました。その後、当村百姓・伝蔵所有の杉山を十五、六年前、有田浦の権左衛門へ売って伐り出し、尚またその後八年前に常蔵所持の雑木山を伐り払いましたが、昔から当村領に間違いないので、有田上村から歩銀の件は言って来ないし、有田上村領であれば、今までの内に上木(ウワキ)を売り払った時の歩銀を受け取る筈でございます。

 

今更、串本の幸右衛門所有の山に限ってかれこれ言って来るのは、如何なものかと存じます。霞ヶ谷山の件は前に申した通り、当村領でございまして、弥次衛門・重太郎・伝之右衛門等が代々所持し、重太郎から甚作へ売ったと言う証文も残っています。弥次衛門から買ったと言う証文も有りますので、支配してきた当村領に紛れ無いものと存じ奉ります。以上の事情をお聞き入れなされ、御裁決の上、御許可下さいますよう、願い上げ奉ります。

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第二十章 乍恐奉申上返答口上覚控え 其の七十

2014年03月16日 22時20分03秒 | 古文書の初歩

 

 

⑤現代文訳

 

四の(二) 前に申したことは、串本浦幸右衛門が所有の昔の証書に「有田領奥地ヶ谷の奥、霞ヶ谷の口」と書き入れているとの事で、これが一つの谷の事であれば、滝より下(した)の奥地ヶ谷の内側は有田上村領であって、滝より上(うえ)霞ヶ谷の内側は当村(田並上村)領分であるので、上の様に書き入れたものである事は間違いありません。

 

前記の霞ヶ谷も有田上村領分であれば、前記の様に「奥地ヶ谷の奥で、霞ヶ谷の口」とややこしく書く必要は無く、「有田領・霞ヶ谷の口」と書き入れる筈だと、恐れながら存じ奉ります。

 

右に申し上げた通り、奥地ヶ谷の滝を両村の境界として、つまり滝の肩の幸右衛門山からが当村領分(田並)で、先年から支配してきたのでございます。この旨恐れながらお聞き入れ為されて、裁決の上御許可なされて下さいます様願い上げ奉ります。

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