第十三章の あとがき
網代黒山松一件御通詞控終了の件
この文書は、昨27日のその五十九で終わっています。もともと文化六年(1809年)当時のものを、56年後の慶応元年(1865年)に至り、何かの必要があって転写したものが本書です。この古文書で学ぶ「網代『あじろ』」とは、漁業権を有する漁場とそれに付帯する臨海山林の事とはじめに説明しましたが、辞書を調べてみても「漁業権」のことに触れているものは只今のところ見あたりません。インターネット百科事典ウィキペディアによると、①「網の代わり」が語源であると言うこと。②定置網の漁場、またいつも魚が集まって来る場所。その他色々書いていますが、本書の場合は、「定置網の漁場」と言う意味に捉えてよいのではないかと思います。実際に樫野崎の北側付近には、ブリの定置網漁場が有るからです。但し現在は、古座地区との関係は無いようです。
「魚付き保安林」・・・海岸近くの林が茂っている下の海には、魚が集まると言う言い伝えが有り、魚付き保安林として保護されています。これは、樹木が繁茂して海面が暗いところに、魚が集まる習性が有ることから、國や県によって保護されることになったものです。この文書を見ても、台風で数百本の網代の松の木が倒れ、その跡へ再び松の苗木を急いで植えつけする様、代官所から指示されていることが判ります。
吹き折れた松の木を競売して、その代金を当初、樫野地区に半額、古座・高川原地区に合わせて半額と分配したものが、代官によってくつがえされ、各地区三分の一づつに再配分したことが分かります。村・浦の庄屋・肝煎り(村役人)から、その組の大庄屋に訴え出て、そこで解決しなければ代官所に裁定して貰うという仕組みであったことも読み取れます。紀伊半島南端部の紀州藩南部地域は現田辺市付近が安藤家、現新宮市付近が水野家の管轄で、その間は周参見代官所の管轄地でした。この地域を「口熊野」とも呼びます。周参見組・江田組・古座組・三尾川組・四番組の五つの組が有り、その下に162の村・浦がありました。尚、世界遺産「熊野古道」の「大辺路街道『おおへちかいどう』」は田辺から那智勝浦までの海岸沿い或いは近くの山中の峠道としてこの地域を通っています。
この文書で出た言葉で重要なもの。①口偏に愛と書いて「扱う」と読ませる字。滅多にお目にかかれない珍しい文字です(九ページ最終行)。②境目・・・『さいめ』と読みます。③飛脚ちん・・・通信手段や交通の便の無い当時、この地方にも飛脚が有ったことが分かります。④古座組大庄屋の名前が二人出て来ますが、ちょうどこの文書の時代、文化6年に植松茂右衛門から岩橋市右衛門に交替しています。⑤雑用・・・『ぞよう』と読み「費用」のこと。 下図参照