古文書に親しむ

古文書の初歩の学習

第十章 地震津浪乃記・その四

2012年01月31日 08時59分34秒 | 古文書の初歩

 

 

 

 

地震津浪の記第一ページ(上の写真の五行目六行目)

解読    此辺よりハ強かりしト云。伊賀伊勢大和辺ハ甚だ徒よく

       大荒の所多く、死人怪我人等も有之。伊勢四日市伊賀

読み方  この辺よりは強かりしと云う。伊賀・伊勢・大和辺は甚だつよく

       大荒れの所多く、死人怪我人等もこれ有り。伊勢・四日市・伊賀

解説  「此辺」の「此」が少し読みにくいですが、文意でほぼ分かります。 「云」は「言う」。送り仮名は有りません。 「甚多゛」・・・甚だ。「多」は変体仮名「た」です。ひらかなの「こ」のように崩します。 「徒よく」・・・「徒」は変体仮名「つ」で、「強く」。 「大荒」・・・「荒」が少し読みにくいですが、流れで読めるでしょう。 「怪我人」の「我」の崩しが少し難しいですが、これも流れで読める字です。 「ホ」・・・ホのように見える字は「等」です。理屈抜きで形で覚える字では、一番覚えやすい。 この文書は漢字の崩しがそれほどひどくなく、初歩の古文書というテーマにぴったりです。変体仮名が多く、勉強には最適だと思います。


第十章 地震津浪乃記・その三

2012年01月30日 09時14分03秒 | 古文書の初歩

 

 

 

 

地震津浪の記第一ページ(上の写真の三行目四行目)

解読    驚きて外へにげ出す程の事也。されども当辺ハ家宅

       其外破損無し。皆無事なり。三輪崎、新宮辺より下モ筋ハ

読み方  驚きて外へ逃げ出す程の事なり。されども当辺は家宅

      其の外破損無し。皆無事なり。三輪崎、新宮辺『あたり』より下も筋は

解説  「驚き天」・・・「天」は変体仮名で「て」。 「尓げ出春」・・・「尓」は変体仮名の「に」、「春」は変体仮名の「す」。逃げ出す。 「事」の次は「也」の崩し字です。形で覚える。 「さ連ども」・・・「連」は「れ」の変体仮名。 「無事奈り」・・・「奈」は変体仮名の「な」。 三輪崎は新宮市の南に位置し、現在は新宮市三輪崎となっています。  「下モ筋」・・・京都へ向かう方角が上り、上ミ筋で、江戸方面は下りで、下モ筋と言います。古文書では送り仮名は附しませんが、「上」「下」など送り仮名で読み方が異なる場合はこの様に送り仮名を附けます。新宮から下も筋とは、現在の三重県方面を指します。 この文書の特徴は、変体仮名が特に多い事です。変体仮名の勉強に最適の教材と言えます。


第十章 地震・津浪乃記・その二

2012年01月29日 09時16分28秒 | 古文書の初歩

 

 

 

 

地震津浪乃記第一ページ(上の写真の一行目から二行目)

解読    地震津浪の略記

    嘉永七甲寅年六月十四日夜地震、能寐入たるものも

読み方   地震・津浪の略記

    嘉永七甲寅『きのえとら』年六月十四日夜地震、能く寝入りたるものも

解説  「津浪」の「津」の崩しが難しいです。 「略」の旁も難解ですが、文意で何とか読めます。 嘉永七年は一八五四年。この年の十一月に改元して、安政となります。現在では安政の大地震と呼んでいます。 「十四日夜」・・・「夜」が難しいです。形で覚える字です。 「能」・・・能く『よく』。 「寐入」・・・漢和辞典によると、ねいる・まどろむの時はこの「寐」を使い、床につく・やすむの時は「寝」を使うとあります。現在はほとんど区別なく「寝」を使っています。 「堂るも乃毛」・・・「堂」は「た」の変体仮名、「乃」は「の」の変体仮名、「毛」は「も」の変体仮名です。「たるものも」と読みます。 古文書も書く人によって、やさしいのも、難しいのも色々有る事がこの文書で分かります。

 

第十章 地震・津浪乃記・その一

2012年01月28日 11時02分51秒 | 古文書の初歩

 

 

今日から新しい講座に入ります。前回はあまりにも難しく、古文書の初歩というテーマにふさわしくなかったので、この度は古文書の中でも比較的読み易い文書を選びました。これは、和歌山県東牟婁郡串本町有田に於ける、安政の大地震の記録です。(一八五四年)

解読    安政改元甲寅同二乙卯年

       地震津浪乃記

              有田浦   庄屋許

読み方  安政改め元甲寅『きのえ・とら』、同二乙卯『きのと・う』年

       地震津浪の記

              有田浦   庄屋許『しょうやもと』

解説  紀州串本の有田浦に残る、安政の大地震の貴重な記録です。この文書は保存も良く、文字も楷書に近く読みやすいので、古文書のテキストにはピッタリだと思います。 「安政改元」・・・安政という年号に改めてからの元年。 「甲寅」・・・きのえとら。音読みでは、こういん。 「同二乙卯」・・・安政二年、きのとう。音読みでは、いつぼう。 「津浪」・・・ここではこの「津」という字がもっとも難しいです。今までたくさん難しい古文書を読んできた皆さんにとっては、たやすいかも知れません。 「乃」・・・この「の」は初めてでました。「之」と同じ使い方です。 「記」・・・記録。 「庄屋許」・・・庄屋の手許に残す文書。  


第九章 将軍家茂公の串本上陸・その四十四

2012年01月27日 09時46分25秒 | 古文書の初歩

将軍家茂の串本上陸 Ⅱ

この時、小舟で串本の濱に上陸し、徒歩か駕籠で無量寺へ向かったわけですが、将軍様が通った通りの事を、串本の人は「公方(くぼう)通り」と呼びました。この通りの名前は終戦後までその名で呼ばれましたが、いつしかその名は忘れられ、現在知っている人はほとんど居なくなりました 。尚、無量寺には、将軍宿泊に関する資料は残っていないようです。無量寺の前身は串本の袋地区に有り、宝永四年(1707年)の東海・東南海・南海三連動地震の際の大津波で流失し、その後現在地に再建されました。更にその後の再々建当時の住職愚海和尚と、京都円山派の画家、円山応挙とは親交があり、応挙は名代として高弟の長沢芦雪を無量寺に派遣し、芦雪は師匠の襖絵を携えてはるばるこの南端の寺を訪ねて逗留し、自身も沢山の絵を描いて残しています。

実は 幕府の軍艦奉行「勝麟太郎」が、将軍が来られる前の文久三年一月に串本の「神田佐七」家に宿泊しており、勝はこの際近所の無量寺へも立ち寄ったと推測され、将軍が海路上洛する際、『串本には無量寺という大きな寺が有り、円山応挙等の襖絵もあるので、御一泊なされば・・・』などと進言したのではないかと、私は密かに推測しています。

京都に於ける将軍は、二条城を本拠として滞在し、朝廷との折衝は次の最後の将軍となる「一橋慶喜」が、後見職として当たっていました。家茂はこの年五月に江戸へ帰りますが、その後慶応二年・第二次長州征伐の時、三度目の上洛をし、大阪城に於いて戦争の總指揮を取り、同年七月重い病気の為二十一才の若さで亡くなります。

「幕末激動のただ中に将軍にかつぎ出され、在位わずか八年、苦衷のうちに世を去った悲劇の人であった。」と串本町史に書いています。

今回読んだ古文書は、古座組大庄屋文書であり、古座組に属する、大嶋浦庄屋の文書も含まれています。大嶋浦庄屋は自身の新造手船を献上したいと申し出ていますが、将軍宿泊に関する一切の費用は、幕府から支払われる事になっており、その為の請求書となる費用明細は、日付・人足数・賃銀・支給飯米・動員船数・宿泊者役職氏名など一つ一つについて金額、説明が附されています。一行総勢は五百人程度であったと言うことです。将軍の上陸は、名も無き田舎の大嶋浦にとっては、驚天動地の出来事であり、青天の霹靂とも言うべき大事件でした。

串本地方の古文書は、旧古座町に大量の文書が残っておりますが、旧串本町には公にはほとんど残っていないようです。串本町内の旧田並村にも、「田並上村文書」というものが残っています。