古文書に親しむ

古文書の初歩の学習

第二十一章 苫草場争い 其の五十七

2014年05月27日 09時09分38秒 | 古文書の初歩

「苫草場争い」のまとめ、その三

⑦ 私ども、田並上村は、農業だけが生業の村で、最近は凶作続きで、苫草と木材仕事の他には稼ぎ仕事も無く、その上猪や鹿の被害も多く、作物の稼ぎのみでは御年貢も納付出来ないので、苫草と木材仕事で諸税も納めている様な状況の中で、下村から苫を引きに来る様な勝手気ままな仕方でございますから、上村は稼ぎ場所も無く、その上に山林60ヶ所及び植林した杉なども百姓どもが田並浦へ売り渡したので、稼ぐ山も無くなり、窮乏の現実がひしひしと迫り、生活も出来ず難儀していると言う事実が有ります。

⑧ 上村から見れば、下村は「いさば」・「漁船」・「灰方」をはじめ、諸職人・諸商売人が多く、稼ぎの手段にも差し支えの無い村で在りながら、他に何の稼ぎの手段の無い上村へ苫草を引きに入り込むのは誠に不届きな事に存じ奉ります。

ここで出た難解語としては、「最早」・・・『もはや』。 「犇と」・・・この文字を読むのは至難です。『ひしと』。ひしひしと。 「難立行」・・・立ち行き難く。 「いさぱ」・・・小型の廻船。海上運送業。 「灰方」・・・サンゴの一種、菊目石を焼いて砕いて粉にし、漆喰を製造した業種。 「難在」・・・在り難く。有り難く。等が有ります。

ここでは、当文書の作成者(陳情者)と相手方・田並浦の立地上の差から生じる村落の違いが判り、田並と言う在の昔の実体が明確に書かれています。もう一度確認しますと、田並上村は、農業・山仕事・苫草の産地など、純農村であったのに対し、田並浦は農・山村とは異なり、一種の都会的な生業が主体の村であった事が述べられています。実際、江戸時代には、田並は現串本町串本よりも人口も多く、栄えていた証拠に、紀州の殿様が藩内巡見に際し、串本や大庄屋の居る江田には泊まらず、この田並に二度も泊まっている事でも、その重要度は推察出来ます。

明治維新後、警察制度の創設に当たり、田辺市に警察署が出来て、その分署が田並に出来たことも、田並の繁栄ぶりを表しています。然し、江戸時代後期から串本は立地上の利点から繁栄を始め、人口も急激に増え、明治31年には警察署の分署が串本へ移転し、田並は部長派出所に降格、田並では一大反対運動を起こしましたが、時代の大勢には勝てませんでした。その後、大正から昭和にかけて、串本警察署に昇格し、田並は遂に駐在所に降格されました。それでも近所の集落からは、次々に駐在所が引き揚げて行く時代に、未だ駐在所が有るだけ良いとしなければなりません。苫草場争い終わり。