前回は、ある人の「会社辞めたい」とのツイートに対して、毎日「大丈夫」と返してくれる男性がお父さんだったと知り、その愛の深さに涙した記事を紹介した。
僕が30代始めのころ、サラリーマンを辞め、親しい友人と共同で飲食店を開いた。開店してからは、意見の相違でよく喧嘩をした。ある日、大喧嘩をして店を休んだ。やりきれない気持ちで無意識に母に電話していた。喧嘩のことは伏せ、「別に用事があったわけじゃないけど、ちょっと電話してみただけだよ」と短い会話で電話を切った。その日、部屋でふて寝をしていると、窓をたたく人がいる。開けてみるとそこに居たのは母だった。【父母の恩は山よりも高く、海よりも深し】というが、その母が他界してからすでに20年が経っている。
僕が30代始めのころ、サラリーマンを辞め、親しい友人と共同で飲食店を開いた。開店してからは、意見の相違でよく喧嘩をした。ある日、大喧嘩をして店を休んだ。やりきれない気持ちで無意識に母に電話していた。喧嘩のことは伏せ、「別に用事があったわけじゃないけど、ちょっと電話してみただけだよ」と短い会話で電話を切った。その日、部屋でふて寝をしていると、窓をたたく人がいる。開けてみるとそこに居たのは母だった。【父母の恩は山よりも高く、海よりも深し】というが、その母が他界してからすでに20年が経っている。
SOS状態の時の覚えが無い。
どっちかと言うと暇を持て余した時が多かったような気がする。
生まれつきノー天気だったのかな。
母は私にに対してはどうだったか・・・。
私が家を出て地方で勤めをしていた頃は、今のように携帯電話はありませんでしたし
電話も寮にはいってましたから、電話は交換を通して通話記録をつけなくてはならないタイプでした。
いつの時代?って言われそうですがその頃の給料を考えると実家への電話は高いものでした。
だからほとんどかけた記憶はなくて・・・。
なんだか懐かしい時代に生きてきたんだって思います。
声の調子、何も言わずとも親は感じ取っています。
詳しいことは言いたくありませんが、母にはお見通しだと思ったことがありました。
あの時も嬉しくて涙が出ました。
悩みを打ち明けたい時に母親はもういませんでした。
思い出として、
遠足に作ってくれた お稲荷さん
中身が皆は白米で、私の中身は五目種でした。
手先の器用だった母は
何時も私たち、三姉妹にお手製の洋服を着せてました
特に手編みのセーターは、
よく担任の先生に誉められました。
おひつじさんにとってSOSを出すような
不幸な出来事はなかったのでしょうね。
僕は何度も母にSOSを送って
その都度助けられています。
◆支え(ブルーメさん)
言葉には出さずとも小さな変化を見逃さず
手を差し伸べてくれる人がいることは
幸せなことでもありますね。
親、兄弟、友人、その人たちの支えは
どれほど勇気づけてくれるでしょう♪
◆電話(バジルさん)
僕の時代も電話が全ての家庭にあるとは言えませんでした。
母は電話の短い言葉に何かを感じ取ったのでしょうね。
僕を含め兄弟のすべてが
母に叱られて記憶がないと言います。
母の愛は深いです。
◆母の愛(吾亦紅さん)
母の臨終に駆けつけたとき
脈拍もほとんどなく、血圧もほぼゼロ
人工呼吸で息をしている状態でした。
僕が母の耳元で「祐二だよ、祐二が来たよ」と声をかけると
母の眼から一筋の涙が流れました。
それを見たのは僕だけでした。
◆思い出(コスモスさん)
お母さんの思い出は幾つになっても懐かしいですね。
コスモスさんがお料理が上手なのも、手先が器用なのも
お母さん譲りだったのですね♪