daisukeとhanakoの部屋

わが家の愛犬 daisuke(MD、13歳)とhanako(MD、6歳)の刺激的仙台生活

海辺の風景 (2011年12月1日の日記)

2019年03月11日 14時46分00秒 | 事故・火事

 

石巻のシンボル、日和山に登ってみる。

山から南側を見ると住宅地が丸ごと消えていた。

 

石巻市立病院など、コンクリートの建物だけが疎らに残る。

日和大橋は津波をかぶったがなんとか耐えたようだ。

津波とは単なる大波でなく、海底から海上までのすべての水の移動だと初めて知った。

 

今回の地震が放出したエネルギーは阪神大震災(M7.3)の1,450倍で、津波の遡上高は宮古市重茂姉吉地区で観測史上最大の40.4mに達した。

それにしてもなんという広さに波が来たことだろう。

 

 

山を降り、旧北上川の中瀬まで行く。

ここには岡田劇場、ハリストス正教会、石ノ森萬画館、料亭、マリーナなどがあり、石巻観光の中心だった。

地盤沈下で中瀬の大きさは一回り小さくなった。

 

 

 

160年の歴史があった岡田劇場は、基礎を残して跡形もなかった。

石ノ森章太郎が映画を観に中田町から自転車で通った劇場だった。

 

 

ハリストス正教会は明治13年に建てられた白亜の建物である。

外壁も内部も被害を受けたが、川の真中の木造の建物が倒壊しなかったのは奇跡といってよい。

萬画館は浸水したものの建物は無事だった。

現在は休館していて、中を見ることはできない。

全国から来た人たちの応援の書き込みがある。

 

川の東西をつなぐ内海橋は、押波と引波で上流下流から瓦礫がぶつかり、満身創痍となった。

震災直後は大量の漂流物と遺体が橋に引っ掛かっていた。

人々はそれを乗り越えて対岸に渡った。

河畔のプロムナードは柵が壊れ、川の水がベンチの下まで来ている。とてもくつろいで座ってはいられない。

 

南浜町は海も川も近い日当たりの良い住宅街だったが、1年経たずに草原に変わった。

240号線沿いには手作りの慰霊所があり、手を合わせる人が後を絶たない。 

 

海から強い風が吹いて来る。風が吹くと悲しくなくても涙が出る。


門脇(かどのわき)小学校は由緒ある学校だ。

海岸から700mの距離にある。

建物は残っているが窓は破れ、壁には焼けた跡がある。

 

地震後、近隣住民が車で避難してきた。

7mの津波が車を押し流し、校舎に衝突させた。

衝撃でガソリンが発火。100台余りが次々に燃え上がり、校舎に引火、全焼した。

学校には児童もいたが、教員が教壇で橋を作って3階から裏山へ避難させた。

プールには今でも大量の海水が貯まっている。

 

 

小学校隣りの墓地では墓石が遺骨ごと押し流された。

葬られても死者は安眠を許されなかった。永遠のことなどないと知れば無常感はつのる。

 

市立病院は旧北上川、太平洋の両方に面して建ち、思えば危険な立地であった。

ここが機能していれば、石巻赤十字病院の負担は半分になった。

新しい市立病院は海から2km離れた石巻駅前駐車場に再建されることが決まった。

 

日和大橋を越え、女川方面に向かう。

240号線の中央分離帯に巨大な鯨大和煮の缶詰が転がっていた。タクシーを降りて写真を撮っている人がいる。

ここはちょっとした観光名所(?)になっているようだ。 

 

 

この巨大缶詰は、「鯨の大和煮」からスタートした木の屋石巻水産のシンボルマークだった。

巨大缶詰には20t以上の魚油が入っていたが、元の場所から300mも北に流された。


缶詰はちょうど中央分離帯の真中で止まったため、交通の邪魔にならず撤去を免れた。

岸壁にあった同社は跡形もなくなったが、金華鯖の缶詰が工場跡の泥の中で見つかった。

その缶詰は掘り出されて、避難所の人たちの貴重な食料になったという。

 

女川街道を万石浦まで来た。

この辺りは万石浦の緩衝作用で津波被害は小さかった。

しかし地盤が80cm沈下したため海面が上昇し、道路と同じくらいの高さに見える。

場所によっては海岸線が数10mも後退した。海岸では浸水防止用の土嚢積みが黙々と行なわれている。

かつては防波堤の下に砂浜があり、潮干狩りもできた。震災後はアサリ採取用の造成干潟も砂州も干出しなくなり、岩礁から貝類が消えた。

満潮になるとマンホールや側溝から海水が逆流し、地区のほとんどが膝下まで浸水する。

台風と大潮が重なった場合、大洪水が懸念される。

 

沿道に「おさかな市場」が復活していた。

かつては女川港のマリンパルにあったが、津波で壊滅した。廃

業したドライブインを買い取ってここに再興したそうだ。

ホヤ、ナメタ鰈、鮭、カワハギ、金華鯖が安い。ヤリイカ5杯を800円で売っていた。 

 

 

万石浦沿岸を走るJR石巻線は小牛田~石巻~女川を結んでいたが、現在石巻~女川間は運行されていない。

線路にはロープが張られて立ち入れない。

 

浦宿駅のホームは基礎の鉄筋がむき出しになった。その下を潮が満ちて行く。潮は刻々と急流になる。見ている間に線路が水没した。

未明、住民は潮が満ちる音で目を覚ますという。

昔、浦宿浜で漁師をしている友人を訪ね、この駅で降りたことがあった。友人の消息はここには書かない。

 

JRは石巻線の浦宿駅~女川駅間2.5kmのルートを山側に移転する予定だ。

ここは廃駅になる。鉄筋が錆びようが、レールが水没しようが、そのまま朽ちて行くしかないのだ。

 

       

万石浦を過ぎ、女川第一小学校脇の高台に出ると景色は一変した。

そこは土色の無人の荒野だった。

女川の中心部だった場所に車を停める。

 

木造の建物は一軒も残っていなかった。

破壊された鉄筋のビルが何棟か打ち捨てられている。海中に倒れたままのビルもある。

生涯教育センターは窓から車が入り込んだままになっている。

 

4階建ての商工会館は一時屋上まで水没した。

4人の職員が屋上に逃げた。4人はさらに給水塔に昇り、胸まで水に浸かりながら九死に一生を得た。


カーナビが「女川駅」と教える場所には何もない。駅舎もホームも、レールさえも、一切が何処かへ流失して瓦礫になった。


鷲神浜はSさんの実家があった場所である。

浜は広い更地になっていた。Sさんの母親の遺体は、実家から300mも離れた路上で発見された。



 

マリンパルは津波で建物全体が水没した。

敷地は水が引かず、そのまま海とつながった。沈み行くヴェネツィアのようである。

違うのは、あたりに人影がまったくないことだ。高さ 6mの防波堤は何の役にも立たなかった。

 

遠くの高台に女川町立病院が見える。町立病院は海抜18mに位置するが、驚くことに津波は病院1階の1.9mの高さにまで来た。


女川の津波は地震の僅か30分後に襲来した。

その高さは海抜20.3mに達し、16mにあった病院駐車場を飲みこんだ。

駐車場には多くの供花がある。はるか下に海を見降ろす場所である。

ここまで波が来たことも、ここで海を見ていた4人が亡くなったことも、とても想像が及ばない。


病院の掲示には、内科・外科の診療は月~金の午前中だけ、整形・小児科・眼科・皮膚科は週1回、半日だけ、とある。

 

福島第一原発は5.7mの津波を想定し、海抜10mに建てられた。そこに14mの津波が来て炉心溶融に至った。


女川原発は震源に最も近い原発だった。

想定した津波は9.1mだったが、安全を見込んでそれより5.7m高い海抜14.8mの場所に建設された。

大地は地震で1m地盤沈下し、原発は海抜13.8mに下がった。そこに押し寄せた津波は13m

差引き僅か80cmの差で、女川はオナガワと呼ばれることを免れた。


女川原発と仙台駅の直線距離は56km、女川原発と石巻駅のそれは僅か17kmである。

波の来方によっては、仙台はセンダイに、石巻はイシノマキになっていた。

 

「その屍たるや通路に満ち、沙湾に横たわり、その酸鼻言うべからず。晩暮の帰潮にしたがって湾上に上がるもの数十日。親の屍にとりついで悲しむ者あり、子の骸を抱きて慟する者あり、多くは死体変化して父子だもなお、その容貌を弁ずに能わざるに至る。頭、足その所を異にするにいたりては惨の最も惨たるものなり」

 

これは岩手県気仙郡綾里村村誌に書かれた明治三陸津波の記録である。この津波は、明治29615日、午後87分に襲来した。地震自体は震度2~3と軽度であったことで逆に避難が遅れた。

「入浴中の19歳の女性が風呂桶ごと流されたが助かった」と新聞は伝えた。

死者・行方不明者の合計は21,959人。沿岸部の住宅地は壊滅した。

当時にあっても民家を高台へ移動することは不可能ではなかったが、三々五々、元の敷地に家屋が再建され、ついには津波前と同じ集落が形成されてしまった。

 

そして昭和8年、昭和三陸津波で再び大きな被害を被ることになる。

それは33日午前3時に襲来した。深夜であったため、人々は津波の来襲に気づかず、逃げる方向も何も分からなかった。

生存者は「寝ていたら、いきなり唐紙を破って水の塊が入ってきた」と口々に言った。

震度は5で、地震被害は軽度だったが、津波の被害は甚大だった。死者・行方不明者合計は3,064人に達した。

このとき壊滅した集落もまたぞろ同じ場所に修復され、今回の震災を迎えた。

 

人々が同じ場所に家を再建した理由は、先祖から継承した土地への愛着であり、浜に近いことが漁業に便利であったからであり、津波は天の定めとする諦観のせいであった。

 

東日本大震災の死者・行方不明者は、19,185人である。

今度こそ高台移転は叶うだろうか。

被災の記憶は一世代と持たないのである。

 

海を住まいとした先輩は亡くなり、陸(おか)を住まいとしたした自分は助かった。

先輩に「死ぬべき理由」はなかったし、自分に「生かされる理由」もなかった。

 

 

あの日の朝、空は澄んで、微風は春の気配を運んでいた。

早春の一日は平穏に過ぎて行くはずだった。

牲者の中で、何時間か後、自分が津波で死ぬと思った人は一人もいなかっただろう。

 

生と死は偶然の結果であるが、両極ではない。生と死はいつも薄紙を挟んで隣り合っている。





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