・・・その屍たるや通路に満ち、沙湾に横たわり、その酸鼻言うべからず。
晩暮の帰潮にしたがって湾上に上がるもの数十日。
親の屍にとりついで悲しむ者あり、子の骸を抱きて慟する者あり。
多くは死体変化して父子だもなお、その容貌を弁ずに能わざるに至る。
頭、足その所を異にするにいたりては惨の最も惨たるものなり・・・
これは岩手県気仙郡綾里村村誌に書かれた明治三陸津波の記録である。
この津波は、明治29年6月15日、午後8時7分に襲来した。
地震自体は震度2~3と軽度であったことが逆に油断を招いた。
「入浴中の19歳の女性が風呂桶ごと流されたが助かった」と新聞は伝えた。
死者・行方不明者の合計は21,959人。
沿岸部の住宅地は壊滅した。
当時にあっても民家を高台へ移動することは不可能ではなかったが、三々五々、元の敷地に家屋が再建され、ついには津波前と同じ集落が形成されてしまった。
そして昭和8年の昭和三陸津波で再び大被害を被った。
それは3月3日午前3時に襲来した。
この辺りでは、「津波は夜来ない」と口伝されていた。
深夜であったため、人々は津波の来襲に気づかず、逃げる方向も何も分からなかった。
生存者は「寝ていたら、いきなり唐紙を破って水の塊が入ってきた」と口々に言った。
震度は5で、地震被害は軽度だったが、津波の被害は甚大だった。
死者・行方不明者合計は3,064人に達した。
このとき壊滅した集落もまたぞろ同じ場所に修復され、昨年の震災を迎えた。
人々が同じ場所に家を再建した理由は、先祖から継承した土地への愛着であり、浜に近いことが漁業に便利であったからであり、津波は天の定めとする諦観のせいであった。
東日本大震災では死者・行方不明者は、19,185人である。
今度こそ高台移転は叶うだろうか。
被災の記憶は一世代と持たないのである。
海を選んだ友は亡くなり、陸(おか)に住んだ自分は助かった。
友に「死ぬべき理由」はなかったし、自分に「生かされる理由」もなかった。
女川原発が無事だったのは単なる幸運だった。
女川原発と仙台駅の直線距離は56km、女川原発と石巻駅のそれは僅か17kmである。
波の来方によっては、仙台は「センダイ」に、石巻は「イシノマキ」なっていたかも知れなかった。
あの日の朝、空は澄んで、微風は心地よく春の気配を運んでいた。
早春の一日は平穏に過ぎて行くはずだった。
その午後に自分が津波で死ぬと思った人はいなかっただろう。
生と死は偶然の結果であるが、両極ではない。
生と死はいつも薄紙を挟んで隣り合っている。
あの年の桜は慟哭を吸い上げて咲いた。
桜梅桃梨よ、春が来るたび海辺で繚乱せよ。
死者を眠らせ、荒ぶる海を鎮めよ。