daisukeとhanakoの部屋

わが家の愛犬 daisuke(MD、13歳)とhanako(MD、6歳)の刺激的仙台生活

豊烈神社の打毬2012-12

2012年11月07日 07時54分16秒 | 山形の風景

 


会津藩は23万石の大藩だったから、廃藩置県で福島県は「会津県」になってもよかった。


しかし新政府は朝敵の名を使わせず、わざと5万石の小藩・福島藩に県庁を置いた。


地の利から言えば県中央に位置する郡山を県庁とするべきだったが、わざと北外れの小藩、福島を選んだことに、この地の発展を阻害せんとする邪悪な意図が感じられる。


さらに長州は、会津人が新政府に登用されることを徹底して妨害した。


西南戦争で、西郷隆盛の反乱軍を切り崩すきっかけを作った新政府軍部隊は刀を使った侍であり、これに会津出身者が多くいた。

郷土を焼かれ、肉親を辱められた恨みを、薩摩に対してはここで晴らしたが、長州に対してはその機会がないままである。

宮城県も本来なら「仙台県」となって当然だったが、薩長閥が朝敵の名を忌んだのであろう。

仙台西部の郡名であった宮城郡から宮城県とされた。

今でも宮城県は仙台ほど名前が浸透しておらず、ときどき東京から「岩手県仙台市~」と書いた郵便物が届く。


やはり賊軍だった盛岡藩も「盛岡県」を名乗れず、岩手山からとった岩手県とされた。


青森に至っては、廃藩置県後、5つの県(斗南県、八戸県、七戸県、黒石県、弘前県)が置かれた。


結局はいっぱひとからげにされ、当初「弘前県」とされた。2ヶ月後、港を持ち交通の便が良いことから青森に県庁が移され、青森県となった。


元南部藩だった八戸と、元津軽藩だった弘前は今でも仲が良くない。

戦国時代末、津軽為信が秀吉に取り入って南部藩から独立して以来、南部氏と津軽氏は幕末の野辺地戦争まで憎み合っていた。

全国高校野球に八戸の学校が出場すると、弘前の人は相手チーム(他県)を応援し、弘前の学校が出れば八戸の人は試合を見ないのだそうだ。

山形が本沢県とか、谷地県にされなかったのは水野三郎右衛門の功績と言える。明治以後、東北はインフラの整備が遅れ(妨害され)、「白河以北一山百文」の時代が長く続いた。

 

 

 


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