新政府軍は会津戦争の戦死者を「賊徒」として埋葬を許さなかった。
このため長期間放置された死体は風雨に晒され、鳥獣に食い散らかされる悲惨な状況となった。
戊辰戦争の中でも、特に会津にあっては遺体への残忍な恥辱、見せしめが多く観られた。
横たわる死体にはカラスが群がった。首のないもの、袴、褌が脱がされたもの、裸にされ性器を切り取られ口に押し込まれているものなども見受けられたという。
見かねた庄屋の吉田伊惣冶が数人の遺体を埋葬すると、新政府は彼を投獄した。
そして、「今回だけは許すが、今後このようなことがあれば直ちに首を刎ねる。そう村人に知らしめよ」と釈放された。
飯盛山には吉田を顕彰する碑が立てられている。
戦争終結から半年経った頃、遺体取り片付けの誓願書が多く寄せられ、「疫病の要因になる」という理由でようやく死体処理が許可された。
しかし藩士や村人が処理に当たることを許さず、被差別民(記録では763人)を使い、しかも墓ではなく、罪人塚という形で認められたのである。
処理人は大きな穴を掘り、遺体を風呂桶、莚にぎゅうぎゅうに詰め、ごみ同然に投げ入れた。
戦後処理のため残された会津藩士20人は皆、涙ながらに立ちすくんだという。
藩士の中に、ごみ同然に捨てられている遺体を丁重に埋葬しようと、身分を捨てて民になった伴百悦もいた。
同時期に偽札、偽金が横行。長州閥、軍務筆頭監察局・久保村文四郎によって54人の町民が取調べすら行われず、家族の前で公開処刑された。
伴百悦は後に、久保村を殺害することになる。