昭和40年代まではこの通りを霊道小路と呼んでいました。その後区画整理が進むとともに行政主導で(?)「花笠通り」と呼ばれるようになりました。
昔は福島家などの武家屋敷、金澤屋旅館など由緒ある建物があって、うまく残せば駅前の観光スポットになりえたのに、今はただの飲み屋街に成り果てました。飲み屋街に「霊」に字は合わなかったのでしょうか。
また城南陸橋を渡って、西に100mほど行ったところに霊石という地名がありました。この地名も今は城南町になってしまいました。
その霊石という地名の由来はこんな風です。
「江戸時代、この地に花師(紅花の仲買人)が住んでおり、毎年京へ出ては商いをしていた。花師は京の宿屋の娘と恋仲になり結婚の約束まで交わしたが、娘は病に罹り花師に知らせる間も無く死んでしまう。宿屋の奉公人がこの事を伝えるため山形へやって来ると、なんと死んだはずの娘が花師の妻になって子供も生まれていた。驚く奉公人の前から娘は突然消えてしまった。以来、夜になり母のふところを慕って子供が泣き出すと、カラコロと下駄の音がして、いつの間にか枕元に飴湯が置かれていた。
死んだ娘を弔おうと建てられたのが石塚(夜泣き石)で霊石とも呼ばれ、娘が通った道を『霊道小路』と言うようになった。」
あ、これは「山形夢横丁」に書くんだった!
昔は福島家などの武家屋敷、金澤屋旅館など由緒ある建物があって、うまく残せば駅前の観光スポットになりえたのに、今はただの飲み屋街に成り果てました。飲み屋街に「霊」に字は合わなかったのでしょうか。
また城南陸橋を渡って、西に100mほど行ったところに霊石という地名がありました。この地名も今は城南町になってしまいました。
その霊石という地名の由来はこんな風です。
「江戸時代、この地に花師(紅花の仲買人)が住んでおり、毎年京へ出ては商いをしていた。花師は京の宿屋の娘と恋仲になり結婚の約束まで交わしたが、娘は病に罹り花師に知らせる間も無く死んでしまう。宿屋の奉公人がこの事を伝えるため山形へやって来ると、なんと死んだはずの娘が花師の妻になって子供も生まれていた。驚く奉公人の前から娘は突然消えてしまった。以来、夜になり母のふところを慕って子供が泣き出すと、カラコロと下駄の音がして、いつの間にか枕元に飴湯が置かれていた。
死んだ娘を弔おうと建てられたのが石塚(夜泣き石)で霊石とも呼ばれ、娘が通った道を『霊道小路』と言うようになった。」
あ、これは「山形夢横丁」に書くんだった!