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70億人が幸せになる方法[その19]

2015-08-30 06:26:39 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その19]」です。

名古屋ではじめての社会人としての一歩を歩んだ私は、繊維問屋に就職しました。

その会社には社員寮があり、私はそこに住む事になりました。
しかし、当時、高校時代とは違って、人見知りが激しかった私は、寮生活に馴染めませんでした。
特に、本来なら同期と友達になれれば良かったのですが、自分がコネ入社である事から、
少し自分に負い目を感じており、その上、言葉も方言が出せないので、なれない標準語で話す事が、
少し苦痛で、同期も商業高校出身者がほとんどだった為、話が合わなかったのでした。

その上、寮生活は2年上までの先輩達と一緒に生活するという事もあり、体育会系のノリで、
かなり厳しい縦社会になれていなかったので、寮生活が苦痛で仕方ありませんでした。
特に、一つ上のある先輩に目をつけられた私は、その先輩からお金を貸せと言われ、
少ない給料からほぼ毎月1万円ほど取り上げられていたのでした。

相談できる相手も当時は社内にいなかった事もあり、私は叔母に相談しようと考えていました。
しかし、その叔母はとんでもない人である事が解ったのです。

私には名古屋に叔母が2人おり、父の姉である会社の部長でもある叔父の奥さんと、
父の妹であるもう一人のやさしい叔母がいて、やさしい叔母の方は私が姉のように慕っていました。

厳しい叔母の方は、私が名古屋に来てから、初日に叔母の家に泊まる事になったのですが、
その泊まった夜は、叔母の得意の手料理を頂き、その時は楽しい時間を過ごすことが出来ました。
翌朝、朝食を作ってくれて、私は名古屋の赤だしの味噌汁の味が美味しかったのを今でも覚えています。
この叔母さんの事を、私は親しみを込めて名古屋のおばさんと呼んでいました。

そして、寮に帰った私は、これから同期を手始めに友人を作り、仕事に頑張ろうと考えていました。
入社式を緊張しながら終えた私は、翌日の夜に会社主催の新人歓迎会に参加することになりました。

当時18歳だった私は、その歓迎会の乾杯でビールが配られたのですが、私一人だけ、ジュースを選んでしまい、
みんなから顰蹙を買ったのです。それから、私は会社で「変わった奴」という印象が付いてしまったのでした。
それ以来私は寮でも会社でも少し浮いた状態となり、人間関係を築くことが難しくなりました。

寮生活は体育会系だったので、社会人としての会社での立場とか、色々と覚えられたのですが、
縦社会に馴染めなかった私は、この会社に入ったことを後悔し始めていたのです。

それから一週間が経過した次の休みの日に、部長の叔父の家に泊まりに行くことになりました。
叔父は大変重要なポストに付いており、非常に忙しい人で、全国を飛び回っていました。
叔父の家では叔母と従兄弟の二人の中に私がお邪魔するという構図が出来上がっていたのです。

叔父のいない時の名古屋のおばさんは、優しかった叔母とは違って、私に非常に厳しく、
従兄弟と私の対応に、全く違った対応をしていました。
もちろん、自分の息子が可愛いということはわかりましたが、私を精神的に少しずつ追い詰めてきたのです。
私は、会社で有ったことなどを食事の時に叔母に話すと、思いっきり叔母から馬鹿にされました。
叔母の口癖は「そんなこともしらんのかね」と、何かにつけ私を馬鹿にするのです。
その上私に色々と干渉してくるのでした。

私はあの母のように慕っていた叔母がこんな人だったなんて、名古屋で住むまで知らなかったのです。
私は、それ以来もう一人の叔母の家に頻繁に遊びに行くこととなりました。
私が姉のように慕っていたもう一人の叔母は、とても優しく、その旦那さんである叔父さんも、
とてもいい人で、その家にほぼ毎週のように休みになると遊びに行っていました。
そこでは男の子と女の子の兄妹がいました。私はその子たちの格好の遊び相手となりました。

その子たちと遊んでいる時も楽しかったのですが、姉ちゃんと呼んでいたその叔母と、
叔父さんと呼んでいた、二人を名古屋の両親と思って、色んな話を聞いてもらっていました。
そこで、寮での愚痴とか、叔母から馬鹿にされたことなんか、本当に腹を割って話せる家族でした。
今でも私の理想の家族です。
叔父さんと叔母さんは本当に親身になって私の話を聞いてくれ、アドバイスをしてくれました。
この叔父さんと叔母さんがいなかったら、私は名古屋で3年間耐えられなかったと思います。

ある日、名古屋のおばさんの家に泊まりに行く事になっていた日に、ある事件が起こるのです。

[その20]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その18]

2015-08-28 06:15:20 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その18]」です。

工業高校を卒業した私は、叔父の勤める名古屋の会社に入社することになりました。
初めての社会人としての仕事がここからスタートしたのです。

会社の主な業務は繊維製品の卸売り業で、メインは高級和服の売買でした。
和服以外にも洋服や寝具、毛皮などの高級商品の取り扱いも行っていました。
規模は年間売り上げが100億円ほどで、従業員はグループ企業も入れて500人を超えるという、
名古屋では結構大きな会社でした。

私はその会社のコンピュータ室に配属されました。
基本的にこの部署は経理や経営に関する資料の作成が主な仕事で、売上や仕入、回収や支払の為の帳票作成、
給与計算、決算関連書類の作成、経営分析資料の作成などを自社開発のアプリを汎用機で作っていました。

その設計から開発、運営、データ入力、各種計算処理が主な仕事でした。
私はそこで、まずは汎用コンピュータのオペレーターとしてコンピュータの操作をすることを覚えました。

会社で使われているコンピュータはIBMのシステム/38という当時としては最先端のリレーショナルデータベースによる、
オペレーティングシステムを搭載しており、使用言語はRPG/IIIというこれまたデータベースアプリを作成するのに、
非常に強力な言語となっており、私はここで、業務用コンピュータの使い方と、データベースの基礎、
プログラミングの基礎を習得することができました。

仕事自体は大変面白く、勉強になったのですが、人間関係が少し複雑で、私は1年で辞めたくなりました。
当時、私の上司であるコンピュータ室の室長が私の叔父と社内で対立関係にあり、元々私が入社する予定がなかったところ、
無理やり、叔父が私をコンピュータ室にねじ込んだらしいのです。

それを良くないと思っている室長の今でいうパワハラが私に行われていました。
しかし、これも仕事のうちと思って私は内心、修行期間だから頑張ろうと思って、日々の仕事をこなすことに必死になっていました。

室長以外の先輩や同僚との人間関係は良好でした。これが救いになりました。
特に先輩には非常に良くしてもらって、この先輩がいるから、結局3年間なんとか勤めることが出来たのです。

しかし、本当は私が辞めたいと強く思った原因は、他にありました。それは叔母の存在でした。

[その19]へと続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その17]

2015-08-26 04:43:25 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その17]」です。

工業高校に通っていた私は、進路について色々と考えていました。
高校2年生の時に自分がなりたいことを発表する会が授業の一環で行われました。

私はその時「システムエンジニアになる」という夢を発表しました。
その発表会では私のいた設備工業科以外にも電気科や電子科、建築科など各種の専門科の生徒の前で、
発表することになっていました。

私の通った設備工業科は基本的に給排水設備工事を設計したり実施したりする科でした。
しかし当時、学習指導要領が変更になり、在校生はすべての科の実習を横断的に行うことになっていました。
そのため私は機械、設備、電気、電子、化学、土木、建築の7つの工業科の実習を一通り、
さわりだけですが行いました。就職に役立つと思われていたからです。

発表した時に他の科の生徒が、設備なのにシステムエンジニアになれるはずも無い、と笑われました。
その時はまた恥ずかしくなって顔を真っ赤にしていましたが、同じ科の友人たちは、
頑張れと応援してくれました。持つべきものは友ですね。

私はその時から具体的にどのようなスキルを積めば、設備科でもシステムエンジニアになれるか、
色々と考えていました。とにかく学校を卒業したら早く社会人として独立したかったのです。

当時、一番手っ取り早い方法は、ソフトウェアハウスと呼ばれていた開発会社に入社して、
プログラマーになることが近道でした。
けれども、私のいる設備科には、それらの求人はありません。
なので、まずは工場の生産工程を行う会社に就職しようと考えていました。

しかし、高校3年生の時に、叔父が勤めている名古屋の繊維問屋の会社で、
コンピューター室の部署があるからこないか、と誘いを受け、私はそこに就職することになったのです。
いわゆる、コネ入社でした。

叔父は奥さんが私の父の姉で、当時はもう一人のお母さんのような気持ちを抱いていた人でした。
しかし、この叔母が、後でとんでもない人だということが分かったのです。

ともあれ、私は高校3年の秋には、進路が決定したのです。
ここから、私がコンピューターを仕事にするという後々の基礎が始まったのです。

[その18]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その16]

2015-08-24 09:38:45 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その16]」です。

中3になった私は、高校受験を迎えました。
当初の目標よりも下でしたが、私の当時の学力で入れそうな工業高校に進路を決めました。

その時に自分に対する「にんじん」を目的に、父が酔った時に証文を書かせました。
当時私が一番欲しかったものはシンセサイザーでした。YMOの影響が非常に大きかったのですが、
シンセサイザーはとても高価で、ウチの経済状況からはとても買えるものではありません。
そこで、太鼓が好きだった私は、ドラムを覚えようとドラムセットを買ってもらう事を父に提案しました。

父は、「合格したら買ってやる」と言質をとったので、それを紙に書いてもらったのです。
母印も押してもらいました。

私は、内心、本当に買ってくれるか解らないけれども、自分の「にんじん」が出来たので、
それを目的に、受験勉強を頑張りました。

最終の模擬テストでは、合格するかギリギリのラインでした。
2月に受験し、3月の中旬に合格発表がありました。
結果は合格でした。

私はすごく嬉しかったのでした。これで、島から出られるという事が一番大きかったですが、
「にんじん」が貰えるかもと期待が膨らみました。
父に結果を知らせると、なんと買ってくれると言いました。

私は天にも昇る気持ちでした。
そして、カタログとかを取り寄せてみたのですが、当時の値段で15万円もしたのです。
ちょっと無理かなとかも考えました。
しかし、このドラムセットがパーソナルコンピューターに変わる事態が起こるのです。

高校の合格後の春休みに、従兄弟のいる名古屋へ遊びにいきました。
その時に当時はマイコンと呼ばれていたパソコンを見学する事になったのです。
従兄弟の家から少し離れた家電量販店にパソコンが展示されていました。それを見に行ったのです。

その前に近くの書店でマイコンの雑誌を2冊ほど購入して、プログラムリストを入手しました。
当時の私はマイコンの使い方なんて全然知らなかったのですが、なんとかなるだろうとタカをくくってました。

展示されたマイコンを触る事が出来たので、プログラムを入力してみました。しかし、うまくいきません。
そりゃそうです。プログラムリストの入力方法自体、知らなかったのですから。

そこで私は店員さんに聞いてみました。すると店員さんは、まるで「そんな事も知らないで触るのか」とでも言うように、
鼻で笑われたのでした。
私は顔を真っ赤にして急いでその場から従兄弟と逃げ出しました。従兄弟は大笑いです。

後で従兄弟の家に帰った時に叔母に「知ったかぶりするからよ」と怒られました。
私はそのことがショックで、悔しくて、「よし、それならマイコンを使えるようになろう」と決意したのです。

従兄弟の家から島に帰ってきた私は、父にドラムセットはいいからマイコンを買ってくれと交渉しました。
値段的にドラムセットと同じくらいだったので、父は「わかった、やってみろ」と言ってくれました。

当時、そのマイコンはプログラミングで音楽やゲームが作れました。私はそのゲームや音楽をやりたくて、
高校に入学してから、マイコンの入門書を買い、必死でプログラミングを勉強しました。

当時はユーザーがプログラミングをしないと、ソフトウェアを動かすことが出来なかったのです。
必死でBASIC言語を覚えました。そのおかげで、高1の夏休みにはデモンストレーションプログラムが、
数分で入力できるようになったのです。

乱数で四角形と色を変化させて、ある数に達すると画面がクリアされて再度描画するプログラムを自力で書くことができました。
それから、私は学校でFORTRAN言語を習い、学校のコンピューター室で実習をしたり、
高松のコンピューター学習センターでプログラミング実習をしたりしたのです。
そこで、コンピューターの基礎を叩き込まれました。

それ以来、私はコンピューターの虜になったのでした。それが今の仕事につながるとは夢にも思いませんでした。

[その17]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その15]

2015-08-20 10:07:15 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その15]」です。

学校でも、家でも居場所のなかった私は、空想の世界に居場所を見つけました。
自分が大人になったらやりたいことや、島を出て早く独立したいと強く思うようになったのです。

小6の時に初めて聞いたYMOのライディーンでカルチャーショックを受けた私は、
もしかしたら、これが私のやるべきことなのでは、と思いました。

当時はさとしくんと一緒にYMOの真似事をしていましたが、もちろんシンセサイザーも無ければ、
コンピューターもありません。

私は家にあった小学校からいらなくなってもらった壊れた電気オルガンをキーボード代わりにして、
いくつかの出ない音をとばして、耳コピしたライディーンの曲を弾き、さとしくんはボウルにチラシをくくりつけた、
簡易ドラムでリズムを取っていました。

即席のセッションをしていたのです。これがとても楽しくて、嫌なことを忘れさせてくれました。

小6の時の夢は、ロボットを作ることでした。
これは人が乗って動かすロボットで、当時はマジンガーZをモデルに考えていました。
その夢を叶えるためには、まずは電子工学について勉強して、コンピューターの勉強もしなければなりません。

おぼろげな知識で、私は中学を卒業したら、高等専門学校の電子工学科に入りたいと強く思い描いていました。
しかし、実際には中学の時に学力が不足していて、工業高校に入れるかどうかのギリギリの成績でした。

中学生になった私は、いじめが肉体的ないじめから精神的ないじめへと変わっていきました。
感情を表に出すことを禁じられたのです。

クラスで面白いことがあっても笑うと「笑うな」と言われたり、何かを話そうとすると「しゃべるな」と言われたり、
この時は本当に生きる屍でした。

私は中学の時から、ただ嵐が過ぎ去るのを待つようなそんな日々を過ごしていたのです。

中3の時に工業高校の受験を決めました。もし、そこで落ちたら、職業訓練学校の溶接科に入って、
とにかく手に職をつけて自立する事を一番に考えていました。

それが運命の分かれ道になったのです。

[その16]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その14]

2015-08-16 08:25:33 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その14]」です。

もう一人の女の子の友達の「たかちゃん」です。
私は当時から、異性の友達はどうも苦手でした。意識しすぎるところがあったのです。

初めはたかちゃんもそうでした。でもたかちゃんと少しずつ遊ぶうちに、たかちゃんのお兄さんとも遊ぶようになりました。
たかちゃんのお兄さんは、絵が上手で、その上非常に物知りでした。

特に戦艦の絵を描くのが上手くて、乗り物好きだった私は、何度もせがんで絵を描いてもらいました。
それと、紙飛行機も作るのが上手くて、飛ばし合いをするのですが、中々勝てません。
お兄さんの紙飛行機は独特の形をしていました。
かなり、工夫をしていて、機体の抵抗を下げて、長距離を飛ぶ形にしていました。

私は、そのコツが知りたくて、何度も聞くのですが教えてくれません。
多分、自分で創意工夫することを教えたかったのだと思います。

それ以来、私はお兄さんの紙飛行機をまねて、色々と工夫してはお兄さんと競争していました。
私には兄がいませんでしたが、本当の兄のようでした。

たかちゃんとは、家の近所の「おいべっさん」でこれまた近所の子たちと一緒に遊んでいました。
たかちゃんは、みんなでできる、いろんな遊びを知っていました。
たかちゃんは初めは人見知りでしたが、慣れると男勝りで、私なんかよくお尻を蹴られたのを覚えています。
まぁ、私がお尻を蹴られるようなことをしたからなのですが。

たかちゃんとも仲良くなりました。たかちゃんはうちの集落のリーダーだったのです。
学校ではすごくおとなしい子で、あまり発言もしませんでした。

でも帰ってきてからみんなと遊ぶ時は楽しそうにしていました。
私もとても楽しかったのを今でも覚えています。

たかちゃんとお兄さんとは、たかちゃんが小学校を卒業する時に、家庭の事情で引っ越して行きました。
それ以来会っていませんでした。

その後、私が19歳になった時に再開するのですがその話は後ほどに。

[その15]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その13]

2015-08-09 07:11:55 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その13]」です。

さとしくんと仲良くなった私は、さとしくんのお兄さんとも仲良くなったのです。
初めは太鼓の上手な憧れのお兄さんでした。その上、漫画を描くのが上手で、
手作りの漫画ノートを読ませてもらったりしました。

それ以来、さとしくんの家にほぼ毎日遊びに行くようになりました。
さとしくんのお兄さんは頼れる兄貴って感じの人でした。お兄さんには色んなことを教えてもらいました。
さとしくんと遊ぶというよりも、お兄さんと色んなことを話すことの方が多かったと思います。

私とさとしくんとお兄さんの3人で漫画クラブを作って、私は下手くそながら、漫画の真似事をしていました。
一番上手いのはお兄さんで、次はイラストがメインのさとしくんでした。
さとしくんには絵の才能がありました。
学校の図工の時間に絵を描くと、それは彩り豊かで、まるで画家のようでした。
絵を描くのが早くて、しかもすごく上手だったのです。

さとしくんのお兄さんの発案で、一冊の漫画雑誌を3人で作ろうということになりました。
そこで、私は自分の描く漫画のストーリーを考えたりしたのですが、結局、さとしくんのイラストと、
お兄さんの漫画だけの漫画雑誌になってしまいました。それでも楽しかったのを今でも覚えています。

私が小6の時に、さとしくんのお兄さんから、あるレコードを聴かせてもらいました。
それはイエローマジックオーケストラ(以下YMO)のライディーンという曲を聴かせてもらったのです。

私は衝撃を受けました。こんな曲があるなんて、しかもお兄さんの話によれば、
この曲はコンピューターで作られたというではありませんか。
お兄さんも興奮しながら、すごいやろ、と言って、私にダビングしたテープをくれました。
コンピューターで音楽が作れることに私はカルチャーショックを受けたのです。

大阪時代の私は、ロボットを作りたいという夢がありました。
その制御にコンピューターを使うということを、図鑑で知り、私はロボットとコンピューターに憧れを持っていたのです。
その夢は小6の時に、はっきりとした形になりました。
ロボットを作るのにも音楽を作るのにもコンピューターが欠かせない、その事実を知り、
私はコンピューターの虜になっていったのです。でもその夢は密かな夢でした。
何故なら、当時のコンピューターはものすごく高価で、操作するのがとても難しかったからです。
まだ、プログラミングのプの字も知らなかった私は、その後それが私の現在の仕事になろうとは夢にも思いませんでした。

[その14]に続きます。

70億人が幸せになる方法[その12]

2015-08-07 06:21:37 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その12]」です。

初めての友達のけいちゃんは、頭が良くて真面目で、学級委員をやっていたような優等生でした。
そんな子が裏切り事件があったのに、話しかけてくれて、友達にまでなってくれたのにすごく感謝しています。

他のクラスメートは私が何かするたびに、例えば授業で発言したり、笑ったりする度に、
「裏切り者」と陰でこそこそ耳打ちするのです。
私は、本当に針の筵に座らされているようで、自分が撒いた種とは言え、それに耐えるのが精一杯でした。

唯一、けいちゃんだけは、「遊びにこん?」といって、私を自宅に招いてくれました。
けいちゃんの実家は島でも数少ない商店をやっていて、お店の駄菓子なんかをおやつにくれたりしました。

当時、貧乏でお小遣いも貰えなかった私は、初めは駄菓子目当てで毎週のようにけいちゃんの家に遊びに行っていました。
けいちゃんは、自分の集落の色んな所を案内してくれて、そこで色々と遊んだり、喋ったりしていました。
すごく楽しかったのを今でもはっきりと覚えています。

私が小5になった時、もう一人の友達、さとしくんが出来ました。さとしくんは今思うと多分自閉症だったと記憶しています。
その時にさとしくんの集落で秋祭りが開かれるのですが、その山車に乗る太鼓の叩き手になんと私が選ばれました。
さとしくんは太鼓の叩き手の先輩でした。ものすごく太鼓が上手で、それもそのはずで、さとしくんのお父さんが、
代々、子供達に太鼓の叩き方を教えていたのです。

かく言う私も、さとしくんと一緒にさとしくんのお父さんから太鼓の叩き方を教わっていました。
私は初めのうちは目立つ事をする事が嫌で、少し嫌々練習に参加していたのですが、
さとしくんのお兄さんが、面白い人で、太鼓も上手く、自作の漫画を読ませてくれたりしました。
このお兄さんが後々私の今の仕事を始めるきっかけになるのですが、その時は同級生のお兄さんとして、
ちょっと憧れていました。

この集落では祭りに参加するして山車を引っ張ると、なんとお小遣いが貰えるのです。
秋祭りの時、島では「さしましょ」とか「せんだいろく」と呼ばれる山車を小4から中3までの子供たちだけで、
引っ張ったり、山車に乗り込んで太鼓を叩いたりすると、「お花」と呼ばれるお金を子供たちだけで分け合って、
お小遣いにできるのです。

その額は当時の子供たちには、お正月のお年玉以上の金額が臨時に貰えるという、なんとも素晴らしいシステムでした。
「お花」は所謂、神様への奉納金です。それと同時に祭りの運営資金にも充てられていました。
私は現金なもので、お金がもらえると分かった時から、太鼓の練習に励みました。
その甲斐あって、なんと私は、さとしくんと一緒に祭りの山車に乗って太鼓をたたく役目を仰せつかったのです。

私は失敗しないように手にマメを作るまで一生懸命練習しました。
祭りが開かれて祭りは大成功を収めました。練習の成果があったのです。
祭りが終わって子供たちだけでそのお花を分配する時に年齢と役割によって金額の加算が行われました。

なんと私は、当時のお金で5千円も貰うことが出来たのです。さとしくんも5千円です。
私はこの祭りで努力すれば報われることを学びました。

それ以来、さとしくんとは仲良くなっていったのでした。

[その13]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その11]

2015-08-05 06:01:00 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その11]」です。

家でも学校でも居場所のなかった私は、まずは小学校で初めての友達が出来ました。
あの、私の裏切り事件で殴られたクラスメートのうちの一人が、なんと私に声をかけてくれたのです。

私は、驚いたのと嬉しかったのを今でもはっきりと覚えています。
初めての島での友達は「けいちゃん」といいます。

けいちゃんは、私の住む集落より、4キロほど西に離れた漁港のある集落に住んでいました。
初めの頃は毎朝、挨拶をする程度だったのですが、二人目の友達が出来てから、その友達と一緒に、
けいちゃんの家に遊びに行ってから仲良くなりました。

二人目の友達は、私の住む集落より、1キロほど東に500メートル離れたこれも漁港のある集落に住んでいました。
朝、集団登校で私の住む集落で、4人と、その東側の集落から来た3人の7人で通学していたのですが、
そのうちのクラスメートだった2人のうちの男の子の方に私から挨拶を始めて少しずつ話すようになりました。
その男の子は「さとしくん」といいます。さとしくんは、当時から少し変わった子でした。
口数が少なく、かなりの人見知りで、実は私も人見知りだったのですが、さとしくんと毎日一言二言しゃべるうちに、
少しずつ仲良くなっていったのでした。

もう1人の女の子のクラスメートとも、朝の挨拶を始めるようになってから、私の住む集落で年少の子たちと一緒に、
帰宅後近くの「おいべっさん」と呼ばれる神社の境内で遊ぶようになりました。
その女の子は「たかちゃん」といいます。
たかちゃんも、当時人見知りでやはりさとしくんと同じように挨拶を交わすようになって、一緒に通学するうちに、
少しずつ仲良くなっていきました。

私はけいちゃん以外のクラスメートには、すべて苗字で相手の名前を呼んでいました。
そんなに深い付き合いを私からも取らないようにしていたのです。

学校のクラスであの事件があってから、もう友達はできないと思っていた私にも、少しずつでしたが、友達ができていきました。
小学校時代に仲良くなったクラスメートは、その3人だけでしたが、本音でぶつかった事はありませんでした。

いつも私は少し斜に構えて、自分の心を閉ざしていたのです。
でも、一緒に遊ぶうちに、私の心の扉も少しずつその3人のクラスメートにだけは開かれていきました。
けれども、家の中での事については話せませんでした。
なので、当たり障りのない範囲での付き合いしかできませんでした。

島での友達は、その3人が幼馴染といえるでしょう。
初めての島での人間関係は、こうやって少しずつ構築されていきました。

[その12]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その10]

2015-08-02 07:02:03 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その10]」です。

家でも、学校でも居場所のなかった私は、今思うと当時、人間不信に陥っていました。

大阪時代は特に何も考えないでお気楽に過ごしていたのですが、
香川に来た頃から、私は色んな体験をする中で、常に周りの顔色を伺い、何かあると嵐が過ぎ去るのを待つ様な、
子供らしさを無くした生活を送っていました。

ちょうど、いじめが始まった頃から、私と弟はおねしょをする様になったのです。
小学校に入ってから、小4になるまでおねしょなんてした事がなかったのに、
島に来てから急に数日に一回はおねしょをする様になってしまったのでした。

今思うと、多分母親がいなくなり、生活環境が変わった事によるストレスから、
おねしょをする様になったのだと思います。

当時はおねしょがあまりにひどいので、祖母が無理やり私たち兄弟を鍼灸所へ連れて行き、
お灸治療を無理やり受けさせられました。

私たちはその治療が苦痛で仕方ありませんでした。だって、お腹とお尻と足の親指にもぐさを据えられて、
その熱さに耐えなければならなかったのですから。

結局、おねしょは私が小学6年になるまで2年以上続いたのです。
本来なら小児精神科で治療を受けなければならなかったと思います。

その上、家では基本的に祖母から「タダ飯喰らいはさせん」と言われて、やった事もない家事を小4でさせられていたのです。

当時、島の家ではお風呂は五右衛門風呂で、風呂焚きから教え込まれ、洗濯、食事、掃除などの家事全般を、
子供達にさせていたのでした。

今思うと、それは辛かったのですが、独り立ちするには良い経験となりました。今では感謝しています。

母親がいないという事はそういう事だと、心の奥に刻みつけられたのでした。

家ではこき使われ、学校ではいじめられて居場所がなく、本当に私は精神的に追い込まれていました。
こんな生き地獄の様な環境から、どうにかして抜け出したいと強く願う様になったのです。

そこで私は自分に手に職をつけて島を出て働きたいと考えました。とにかく環境を変えたかったのです。
そのために私は自分がやりたい事で仕事をして独立したいと思う様になりました。

当時の私の夢は、第一希望は技術者、第二希望は料理人、第三希望は漫画家になることでした。
それぞれ自分が好きな事で、なりたい順番を付けるとこういう風になったのです。

技術者は小さい頃からの夢で、人が乗れるロボットをつくりたいと思っていました。
料理人は家で家事をやるうちに料理作りに目覚めたからで、初めは苦痛でしたが段々好きになったのです。
漫画家は当時私は、絵を描くのが好きで、暇があったら空想を膨らませて、色んな絵を描いていました。

こんな私でも、夢があったから、なんとかその当時のひどい環境を耐える事が出来たのです。

もちろん、それだけではありません。私の環境も少しづつ変わっていったのです。

[その11]に続きます。

I have a dream

2015-08-01 08:44:24 | diary
えー、お題の「I have a dream」です。

私には夢があります。
それは、新しい国を作る事です。

新しい国といっても、世界にあるどこかの島を個人で所有し、そこに国を作るとかではありません。
私は日本人です。
かといって、日本の価値観を押し付けるつもりもありません。

多分、私が日本人だからでしょうか、今までこのブログを書いて、私の思いや意見を書いてきました。
基本的に日本語で書いています。

私は英語を勉強中です。
初めは日本人のだいたいが英語が苦手です。
そういう私も苦手でした。
私が中学で習い始めた英語は、最初の1学期だけは楽しかったのですが、2学期以降はまったくついていけませんでした。
それ以来英語に対して、苦手意識がついたままの生活を送ってきました。

ある時私は胃潰瘍と十二指腸潰瘍にかかり、入院することになりました。
期間は3ヶ月でした。
その時にたまたま入院患者で外国の方とお話をする事になりました。

その方はガラス職人として来日していましたが、英語圏の方ではなく英語がわからない方でした。
私が入院した病院には父も肝臓を患って入院していました。お酒の飲み過ぎです。
先に入院していた父と同じ部屋になったのですが、その時に外国人の方が入院していることがわかり、
父は英会話の本を片手にかたことの英語でコミュニケーションをとろうとしていました。

でも、うまくできません。それはそうです。その人は英語がわからないのです。
そこで私は、父の通訳がわりにその人と父の間でなんとかコミュニケーションをとろうと試行錯誤していました。

基本的に私も英語が得意ではありませんが、父よりはボキャブラリーが多かったため、
身振り手振りを交えて、単語レベルで簡単な会話をしました。

するとその職人さんは、なんとなく私の言ってることがわかったみたいで、
コミュニケーションをとることができました。

そこで、私はその職人さんと友達になりました。
その職人さんは仕事中の怪我で入院していたのですが、2週間ほどで退院していきました。
退院の時に、その職人さんは仲良くなった人に自分の作品をプレゼントしてくれたのです。

かくいう私と父もガラスのオブジェを頂きました。
たった2週間の付き合いでしたが、外国人の方とコミュニケーションする楽しさを覚えたのでした。
しかし、それ以来英語とは懸け離れた生活を送っていました。
でも、私の仕事は基本的にコンピューターのプログラマーとして仕事をする関係上、
コンピューター用語が英語をカタカナ訳した用語だったので、ボキャブラリーが増えていきました。

たまたま出会った外国人の方が温厚な方だったので、私は外国人に対してのアレルギーはありません。

今、英語の勉強をしていますが、基礎の基礎からやり直しています。
以前にも書いた「やさしい中学英語」の本と、Duo Selectの音源をヒヤリングしています。
でも、言語とはコミュニケーションするためにあるものなので、相手がいないと身につきません。

私は去年の夏までパソコンを使ってSecond Lifeで英語の勉強をしていました。
しかし、その頃から仕事の計画を立てて、その準備を始めると勉強の時間が取れなくなってしまい、
しばらくSecond Lifeから遠ざかっていました。

そろそろ英語の勉強を再開しようと思っています。
多分週に1回ぐらいしか時間が取れないとは思いますが、英語の環境に慣れるためにはこれが一番の近道です。

ここで、話を夢の話に戻します。
私は新しい国をつくりたいといいました。

それは今の地球上の人類共通の国を作る事です。
例えて言うなら「地球国」とでも名付けましょう。

そこでは人種や言葉の壁を越えて、世界に住み人々が戦いのない平和な国をつくりたいのです。
その為の種を蒔こうと思っています。

共通の言葉があって、コミュニケーションすれば、きっと人は分かり合えると思っています。
英語を学び出して、そのシンプルさに現時点での共通語としての英語の役割が重要だと痛感しました。

しかし、世界中には色々な言語があり、多種多様な文化があります。
その文化をひとつにまとめるのには、感情を伴う細かいニュアンスを伝える必要があります。

私がたまたま日本人だからでしょうか、日本語と日本という国は現時点では東洋と西洋の中間的な立場で、
文化や表現をうまくミックスして、自国の文化として開花しています。
世界からも日本のカルチャーが本当に少しづつですが、認められつつあります。

日本語の特徴として、漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベット、数字という文字種が多いという事で、
人の心の中の複雑さを表現できていると個人的に感じています。

また、日本のサブカルチャーは、今、世界中から愛され始めています。

私は国の最小単位は家族だと考えています。
そこで、私の家族から、日本を変えていこうと考えています。

私は現在、一人暮らしをしています。
きょうだいはいますが、みんな家庭を持っています。

私がこれから作る自分の家族を手始めに、新しい家庭を創りたいと思っています。
もしかしたら、これが私の生まれてきた意味であり、使命ではないかと感じています。

人は体験からしか学ぶ事は出来ません。
私の様々な体験が、今の私の人格を作ったと言ってもいいと思います。

でも、体験というのは人の数だけありますので、今の世界の人口の70億人分の体験が、
それぞれの人の考え方を形づくっていると言ってもいいでしょう。

70億人が分かり合えるようになるには、みんなが共通の体験を追体験する事だと私は考えます。
追体験するには、共通の言語でそれぞれの体験を話し合う事が必要です。

その手始めにまずは英語を私の家族の第2言語として使う事を考えています。
自分の子や孫の世代には、多種多様な言語を理解し、追体験できる人材を増やしていこうと思っています。

この考えに共鳴してくれる方がいれば、その方と友達になりたいです。

友達70億人できるかな。

ではでは。