ガジェットがいっぱい。

私が気になる「ガジェット」をチェック!オブジェクトの種類は問いません。気になる物は、手当たり次第にピックアップします。

70億人が幸せになる方法[その42]

2015-11-30 05:47:04 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その42]」です。

70億人が幸せになる方法と題して、書いてきたこのブログも、
そろそろ終わりにしたいと思います。

70億人が幸せになる為には、70億通りの生き方がある、という事を、
認識しないとダメだと私は考えています。

人はそれぞれ違った生き方をしています。それはみんな違っているのが当たり前で、
一人一人の進むべき道はみんな違っていいのです。

このブログでは70億分の1の私の生き方について書いてきました。
子供の頃から現在に至るまでの、本当に拙い文章でしたが、私の場合はこうだった、
というだけのものです。

執筆時点の現在、私は個人事業を開業したばかりで、まだ何の成果も出していません。
しかし、私には夢と希望があります。

年齢的にはあと17年ほどで、65歳になりますので、まぁ、70歳まで現役で働いて、
どれくらい収入を得られるかはわかりませんが、私の野望が達成した暁には、
多分、会社を経営しているだろうと思われます。

自分の進むべき道が大体見えてきたので、それに向かって一歩づつ進んでいこうと思います。

まずは資本を作ることから始めようと思います。
その為に、私の計画をコツコツと進めていきます。

その進捗状況は、随時「社長への道。」ブログで書いていきたいと思います。

このブログ「ガジェットがいっぱい。」は個人的に思ったことをつらつらと書いてきました。
今現在、2つのブログを書くのが結構大変になってきているので、
今後はメインを「社長への道。」にシフトしていきます。

このブログはしばらく残しておいて、もしかしたら私が老人となった頃に、
再開するかもしれません。

という訳で、今回で一旦終了と致します。

長い間お付き合い頂きまして、ありがとうございました。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その41]

2015-11-25 09:17:32 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その41]」です。

以下は2000年の初めにパソコンショップで、ホームページ作成の、
パソコン教室を開くにあたり、私がHTMLの使い方を覚える為に作った、
私個人のホームページの内容を抜粋しています。

当時、「君のこころはどう?」というタイトルで作ったホームページでした。
以下はその内容を一部書いています。

アダルトチルドレンについて

今まで、その言葉は聞いたことがある、という程度だった
「大人になり切れていない、子供のような大人のこと」ぐらいしか知らなかった

つい、最近私もその言葉の意味と、自分がそうであることを自覚した

アダルトチルドレンとは、元々の語源はアダルト・チャイルド・オブ・アルコーリックスという
大人になったアルコール中毒者の子供(子供たち)ということだった

また、その中でアダルトチルドレンは13の性格的な特徴を持つということだった
まさに、自分が、その13項目にドンぴしゃりと当てはまったのである

その13の特徴とは・・・(以下アダルトチルドレンをACと略します)

1.ACは何が正常かを推測する(「これでいい」との確信が持てない)
2.ACは物事を最初から最後までやり遂げることが困難である
3.ACは本当のことを言った方が楽なときでも嘘をつく
4.ACは情け容赦なく自分に批判を下す
5.ACは楽しむことがなかなかできない
6.ACはまじめすぎる
7.ACは親密な関係を持つことが難しい
8.ACは自分にコントロールできないと思われる変化に過剰に反応する
9.ACは他人からの肯定や受け入れを常に求める
10.ACは他人は自分と違うといつも考えている
11.ACは常に責任をとりすぎるか、責任をとらなすぎるかである
12.ACは過剰に忠実である。無価値なものとわかっていてもこだわり続ける
13.ACは衝動的である。他の行動が可能であると考えずにひとつのことに自らを閉じこめる

ジャネット・ウォイティッツ(ACOAの特徴)より

今まで、何となく感じていたこと、「生きづらさ」、中学生ぐらいの頃から、人(他人)に対する
物の見方が、変わらない「自分に対して、敵か味方か」(極端だねぇ)

自分というものに対して、自信というか、存在していてもいいのかな、と常に疑問に思うこと
死にたいとは思わないが、自分の「居場所」がここでいいのか、不安になる

他人から、否定的なことを何か言われるとへこんでしまう
(今でも、ちょっとした事ですごく落ち込んでしまうときがある)

周りの人たちから、「なんで、そんなことにこだわるのかわからない」とよく言われる

自分には、出来ない、難しいことでも、「出来ない、難しい」と言えない

何でだろう・・と常に思うのだが、「自分は、普通の人と違って変わってるから」と考えてしまう
などなど・・・・

自分が、アダルトチルドレンであることについて、まだどう向き合えばいいのか模索中である

以上が、2000年当時の私が書いたホームページの最初の文章でした。

今思うと、あの頃初めて自分自身が、アダルトチルドレンだという事を、
自覚したのでした。現時点でも模索中ですが、今後どう生きていくかは、
はっきりとした目標が見つかったので、それについてやってみようと決意したのです。

それは、自分が育った瀬戸内海の島に産業を起こす事です。

実は実家に土地があり、今は空き家で、本来なら長男の私が後を継ぐのですが、
色々あった為、今は叔母が管理しています。

今年から個人事業主として準備を始めたので、それを軌道に乗せて、
数年以内に島の実家の土地を買い戻そうと考えています。

そして、そこにアプリケーションの開発拠点やサーバーの製造拠点を、
作ろうとしています。

出来るかどうかはやってみないと分かりませんが、やってみたいと思います。

[その42]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その40]

2015-11-19 07:32:20 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その40]」です。

私はアダルトチルドレンです。これは一生付いて回る問題です。

まずはアダルトチルドレンについて、私が初めて知ったのは、パソコンショップで、
お客様にホームページを作るソフトの使い方を教える事になり、その為の調べ物を、
ネットでしていた時にたまたま見つけたホームページが、アダルトチルドレンの事を、
書いていたページを読んでみた時から、私自身がアダルトチルドレンであると、
自覚した事から、今まで自分自身がなんで、自分はこんな性格なんだろうと、
常日頃感じていた事が、すべて、このアダルトチルドレンという言葉で説明できる、
と感じました。

アダルトチルドレンとは、本来ACOAと呼ばれるアルコール依存症の親を持ち、
そこで育った子供たちが、生き延びる為に、子供なのに精神が大人にならざるを得なかった、
そんな人達の事です。実は私も機能不全家庭で育ちました。

私の場合9歳の時に、両親の離婚で、父の実家である瀬戸内海の島に移住した、
その頃からの生活が主な原因となったのです。

引っ越して、数ヶ月は父が、離婚の話し合いの為に私の生まれた大阪へ行っており、
当時借りていた市営住宅の引っ越し手続きなどに、父が一人で作業をしてました。
その間、私たち4人兄妹を面倒見てくれたのは祖母でした。

引っ越しした初日はまるで夜逃げのように夜の最終便のフェリーで島へと渡り、
そのまま父の実家に連れて行かれました。

その夜は親戚の叔母がカレーライスを作ってくれていました。
当時の私たちにとってカレーライスはご馳走だったのです。

未だに私はカレーにはこだわりがあります。

翌日から私たち兄妹と祖母と祖父の生活が始まりました。

祖父は物静かな優しい人で、当時は岡山へ出稼ぎに出ていました。
祖母は、島の中にある国民宿舎で職員として働いていました。

祖母から、「ウチは働かざるもの食うべからず」と言われて、家事全般を子供が、
やる事になったのです。当時、9歳だった私がまず初めに家事を覚えさせられました。

食事の支度や、掃除のやり方、洗濯、風呂焚き(当時の実家は五右衛門風呂)、
など、一通りの家事をやらされました。当時は嫌々やっていましたが、
料理を作っていると段々と楽しくなってきました。

そんなこんなで、私が先頭になって、あとの兄妹へと私が家事を教える役目も、
行っていました。

そんな折に、父が大阪から帰ってきて、島に当時あった車海老の養殖場に、
勤める事になりました。父は初めの3ヶ月くらいは真面目に仕事をしていました。

しかし、年が明けて、春になった頃から、段々とお酒を飲むようになったのです。
元々、父は下戸でした。しかし、今思うと寂しさを紛らわす為に、お酒へと走っていったのです。

段々酒量も増え、しまいには朝からお酒を飲んでそのまま仕事に出るようになりました。
そのうち、私たち子供に、酒を買ってこい、と命令するようになりました。

それ以来、父はお酒が入ると、鬼のようになり、お酒が抜けると大人しくなる、
という事を繰り返していました。

段々、父から暴力を振るわれるようになったのも、この頃からでした。

酔っ払っては何度も包丁や灰皿を持ち出して、私たちに灰皿を投げつけたり、
包丁を突きつけたりするようになりました。

父はアルコール依存症へと突き進んでいったのでした。

その父の元で育った私たちはそれぞれ、父に捨てられないように、兄妹それぞれが、
それぞれの役目を自然と受け持つ事になりました。

私は長男として、とにかく下の兄妹を守る為に、父に対して「小さな親」を演じました。

弟は、「ピエロ」で道化を演じ、上の妹は「世話役」として下の妹を世話する役を、
一番下の妹は「マスコット」役を演じていました。

それでも当時の周りの大人たちは、特に祖母は「ふがわるい」が口癖で、
みっともない、という事で、家の事は隠す様にしていました。

しかし、そこは小さな島で、噂はたちまち島中に広まっていきました。
「あそこの家はオカンに逃げられた家や」とひそひそ話をされていました。

それでも時は過ぎていきます。状況が少しずつ変わっていきました。
私は相変わらず、「小さな親」を演じていました。

「ピエロ」だった弟は中学生になるとグレ出したのです。「スケープゴート」へと変わり、
祖母に反抗する様になりました。上の妹は「ロストワン」へと変わり、
変わらなかったのは一番下の妹だけでした。

父は一番下の妹だけは特に可愛がっていました。それでもお酒を飲むと人が変わり、
私たち兄妹は4人ともその犠牲になったのです。

私はこんな家から、早く逃げ出したいと強く思う様になりました。

その為に、手に職をつけて、自立したいと小学6年生で思う様になり、当時は家で、
料理をする事が多かった私は、調理師になろうとしていました。

しかし、小さい頃からの夢だったロボット開発者になりたかったのです。
その為に中学生になった頃には、工業の高等専門学校に行きたいと思う様になり、
学力不足から工業高校へ進学を決めました。

私はなんとかギリギリで工業高校へと合格する事が出来たのです。

それからは島を出る為の準備を少しづつ、自分の中でしていきました。

一つ心残りは、私が島を出て独り立ちした後、残された妹たちがどうなるのか、
だったのです。

グレた弟は中卒で私より1年先に名古屋へと就職していきました。

私が高校2年の春でした。

[その41]へ続きます。

70億人が幸せになる方法[その39]

2015-11-18 05:20:31 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その39]」です。

私は現在うつ病を患っています。私の場合、いわゆる単極性うつ病といいます。
うつ病には私のようにうつ状態が主な症状の単極性うつ病と、うつ状態と躁状態を、
繰り返す双極性うつ病の2つがあります。

それ以外にもうつ病の前段階であるうつ状態という気分の落ち込みや気力が出ない、
疲労が蓄積する、夜眠れない、などの症状が出る事などがあります。

症例は例えば100人患者さんがいると100通りの症状があると言われるくらい、
個々人をよく診ないと、正確な診断が下せません。

以降、私の場合をお話しします。

私の場合、基本的な性格が真面目で、物事を深く考え、1人で抱えてしまうという、
祖母から子どもの頃、よく「お前はクソ真面目でクソ理屈をこねる」と言われてました。

そのような性格から、なにか問題が出た時に、すぐに私のせいではないか、
と考え込んでしまい、自分1人で悩んでしまうという傾向がありました。

小学4年の秋に母の失踪で、私たち4人兄妹は父の実家である、瀬戸内海の島に、
引っ越してきて、学校を転校し、私は転校生として島の小学校に入ったのですが、
この弱い性格から、いじめの対象になってしまい、それ以来人間不信に陥ったのです。

本来なら、親に相談するべき事ですが、我が家の状況はそれを許さない雰囲気を、
作っていました。誰にも相談する事が出来なかったのです。

それらの状況が重なり、私は小4から中3までの6年間、いじめに耐えるという生活を、
送ってきました。

その上、父からも虐待を受けていました。父はアルコール依存症で、
アルコールが入ると、人格が変わりひどい父になるのです。

そのひどい父は私たち兄妹に、しつけと称して、言葉での虐待と、暴力を受けました。
そんな環境で育った私たちは、兄妹全員、なにか心の内に闇を抱えて育ちました。
私たち兄妹はアダルトチルドレンだったのです。

アダルトチルドレンについてはまた別に1つ記事が書けるくらいなので、次の機会で。

そんな、機能不全家庭で育った私は、人の顔色を伺う、考え方も大人のような、
そんな子供だったのです。それが今の私のベースを作ったと言って間違いないです。

さて、うつ病についてですが、私の場合単極性うつ病で、症状としては、不眠症、
気分の落ち込み、体調不良、疲労蓄積などがあり、その二次症状として、
体の痛みがあります。主には肩や腰、背中などが痛くなります。

そのために今使っている薬は抗鬱剤と精神安定剤、神経伝達緩和剤、睡眠剤の、
4種類の薬を毎日、朝と夜と寝る前に服用しています。

この薬が今は私に必要なのです。これがあるおかげで、通常生活は送れています。
私は自炊をしているので、家事はひととおり出来ます。そして家事の合間に、
自分の収入を得るための勉強や作業を行っています。

今年から、個人事業を開業し、これから、アプリケーションを開発販売する事業を、
始めようとしています。具体的な事は、現時点で発表できるものはありませんが、
発表できる時点でこのブログでも発表したいと思います。

私の場合、年齢的なものと、定期的に平日通院し続けなければならない事から、
普通の会社には勤められません。なので、今までのシステムエンジニアの経験を、
活かして、AppleのAppStoreでMacやiPhone、iPadなどのアプリを開発して、
販売して利益を得ようとしています。

事業は継続していかなければなりません。私は将来的に、島に、会社を作って、
産業を興そうと考えています。現在、実家の島はいわゆる過疎地となっており、
そのままでいると限界集落になってしまうのです。

私は現在独身ですが、やはり、家族が欲しいので、そのためにも、この計画を、
成功させなければなりません。

無理せず、やってみて、続ける事が私に課せられた仕事なのです。

これを続けられると、独り立ちできると考えています。
できる範囲でできる事を最大限努力して、とにかくやる事が大事だと思っています。

[その40]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その38]

2015-11-17 05:19:10 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その38]」です。

私は現在、精神病を患っています。病名は「うつ病」です。私自身、この病気になって、
初めて知ることが色々ありました。

まず、はじめに精神病に対する私の最初のイメージは、昔の「気狂い病」という、
とてもネガティブなイメージしかありませんでした。

人が人で無くなる、人格が変わってしまう、という、病気になること自体、考えられない、
精神病にかかると隔離されて一生病院から出られない、などそんな一般的な考えです。

未だに、日本では精神病は語ること自体、タブーとされています。
これは精神病という病気自体を正しく理解し、啓発する活動が積極的に行われてない、
という日本の現状に問題があると考えています。

私自身、うつ病に罹ってから、自分の病気について色々と調べました。
インターネットや本などを何冊も買って、うつ病とはなんなのか、
精神病とは一体どういうものなのか、どうすれば治す事が出来るのか、などなど、
色々と調べ、学びました。

まずは、私が罹患した「うつ病」についてです。
うつ病には大きく分けて2種類のパターンがあります。いわゆる私が罹っている、
うつ病は気分障害の一つで、気分が落ち込む、やる気が出ない、体がだるい、
夜眠れない、という症状が1週間以上続く状態になると、うつ病と診断されます。

私の場合、仕事の激務から、体と心にプレッシャーがかかり、体が疲れて、
夜眠れなくなり、眠れないから翌朝も気分が落ち込み、その状態で仕事をして、
効率が落ち、また気分が落ち込み、帰ってきて寝ようとしても、色々と考えてしまい、
寝られなくなり、また疲れた状態で仕事を続けるという悪循環を続けた結果、
うつ状態が継続するという、負の連鎖を断ち切ることが自分自身では出来なくなる、
そんな病気なのです。現在は入院や通院で正しい生活リズムを取り戻し、
薬を使えば、症状を改善することが出来ます。

もう一つは双極性うつ病と呼ばれる、いわゆる躁鬱病というもので、私の中で、
子供の頃の精神病とはこの躁鬱病を、イメージしていました。

気分が落ち込んだり、その逆に高揚したりを繰り返し、最終的には人格が崩壊する、
というイメージがありました。
そうなるには治療を受けないで、そのまま放置しておくとそうなるかも知れませんが、
正しい治療を受ければ、これも薬でコントロールすることが出来ます。

それ以外にも色んな精神病がありますが、すべての精神病のうち、かなりの種類は、
現在、正しく診断し、正しい治療を受ければ、症状は良くなります。

もう、これは高血圧や糖尿病などのいわゆる持病の一つとして、上手に付き合う事で、
コントロールが可能なのです。ただし、無理が出来ません。なので、私は自分自身、
やれる事を出来る範囲でやる、という事を続けています。

もし、精神病で悩んでいる方は、なるべく早く、精神科の門を叩く事をお勧めします。
どんな病気でもそうですが早期発見、早期治療が重要です。

特に精神病は、自分自身がそれを認めないという事から、悪化させる事が多いのです。
精神科が苦手なら、まずは心療内科を訪れてみてはいかがでしょうか。

ただ、心療内科では、いわゆる身体症状をメインに診る所が多く、本当の治療の意味で、
心療内科では手に負えない事があります。診断も結構正確でない場合もあります。

最近は精神科の病院でも心療内科を設けている所もありますので、
最低でもそのような病院の診察を受けてください。精神保健指定医の認定を受けた、
病院なら、心療内科を掲げていても正しい治療を受ける事が出来ます。

科学の進歩した現代では、精神科は脳神経関連の異常が精神疾患を起こすと、
解明されています。精神は心ですが、医学的には脳神経が精神を形作っていると、
考えられており、心とは体験の記憶から作られた脳記憶の事だと私は考えます。

なので、精神科は脳みそ関連の病気という認識でいいと思っています。
自分自身では認識できない方が多いので、自分以外の第三者の意見も、
真摯に聞く事が重要です。まぁ、精神病に罹っている本人はその認識がないので、
家族や兄弟にまずは相談してみるのもいいかも知れません。

ただし、これも原因が家族や兄弟にある場合もあり得るので、やはり精神科を受診が、
正しい事だと考えます。

[その39]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その37]

2015-11-15 06:54:11 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その37]」です。

最後の会社を辞めて、その後、私は生活費を捻出するために、サラ金で借金をしました。
実は、社会保険事務所へ傷病手当の申請に行ったのですが、同じ病名だと、
2回目は認められない、ということになってしまい、苦し紛れに試しに近所の、
無人契約機で契約してみると、なんと50万円までの融資が受けられることが、
できたのでした。

それからは、生活費のために、借金をし、借金を返すために、また借金をするという、
今、冷静に考えると、ありえない状況に追い込まれて行ったのです。

そして、もう借りられなくなった私は、自家用車の最後のローンを払う為に、
気心の知れた車屋さんに、相談したのです。

すると、その車屋さんは、親身になって相談に乗ってくれました。
まずは、車の借金を返す為に、今乗っている車を売ってお金を作り、
それで車のローンを払い、残りのお金で借金の一部を返済し、
あとは役場で相談したほうがいい、とアドバイスをくれました。

私は、一連の顛末を役場へ相談すると、もう、自己破産するしかない、
と言われ、その手続きと並行して、生活保護を申請するということになりました。

結局、妹や親戚に相談して、生活保護を受けることを告白し、自己破産については、
私が長男で、島の実家の所有権の相続放棄をすることで、家が財産にならないように、
司法書士に頼んで、相続放棄の手続きをしました。

そして、生活保護の申請をして、申請が出るまでの間の40日間、私は3000円で、
生き抜くことになったのです。その時のことは未だによく覚えていません。

後から振り返って、こうだったな、という状態でした。

その後、なんとか生活保護の申請が受理されて、それまで住んでいた、
家賃が49000円のマンションを引き払い、家賃が27000円の同じ町内にある、
アパートへ引っ越しました。これは生活保護の住宅扶助の上限が決まっていたからで、
私は、できるだけ安いアパートで、持っている家財道具が保管できればいい、
という条件で、役場の紹介で教えてもらった不動産屋さんと契約することにしました。

契約後、引越し業者を相見積もりで、3社取り、一番安いサカイ引越しセンターに、
引越しを依頼し、それに立ち会ってから、精神科への入院の準備をしました。

その時に、うつ病の治療の為の、入院施設のある病院への転院手続きも、
行ったのです。私は心身ともに疲弊し、当時は自殺願望もあったのでした。
なので、緊急入院することになったのです。

その頃の事は、まるで夢でも見ているような感覚で、次から次へと私の環境が、
すごいスピードで変わって行ったのでした。一部の記憶が前後している事もあります。

今、これを書いてる時に、当時のメモなどを見直して、書いていますが、
本当に筆跡も別人のようでした。それくらい最低な状況だったのです。

[その38]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その36]

2015-11-07 07:57:59 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その36]」です。

機械製造会社にシステムエンジニアとして再就職した私は、そこで社内用の、
アプリケーションを作る事になりました。

元々、その会社で製造工程で職人として働いていた、いわゆる社内のパソコンに、
詳しい人という立場から、システム開発も手がけていた私の上司は、
プロではないので、プロの立場でアプリケーションの開発に当たって欲しいと言われ、
私は、まずは現状Windows2000で動いていたアプリケーションを、
丁度Windows XPにバージョンアップするタイミングで社内顧客管理システムを、
新機能を追加したものにバージョンアップしようとしていました。

そのシステムはDelphiという開発言語で作られており、私はDelphi 2から使用しており、
仕事でDelphi 3をメインでアプリケーションを複数本作った事がありました。

Delphiは基本的にデータベース機能を初めから搭載しており、私は当時のBDEで、
開発していました。

その会社ではWindows ServerとSQL Serverを使っており、ミドルウェアを使う事で、
Delphiからデータベースに簡単にアクセスする事が出来るのでした。
なので、私は、社内の顧客管理アプリケーションシステムを開発し始めました。

しかし、SQL Serverについては、Webエンジニア科で少し触った程度で、
データベース自体は色々と使ってきたのですが、本格的なクライアントサーバーの、
SQL Serverでの開発は初めてだったのです。

そこで、SQL Serverを使う事に慣れるまで数ヶ月掛かってしまいました。
社長からは早く作ってくれ、と依頼されていたのですが、なかなか上手くいきません。

上司からも、使い方を覚えて、早くアプリケーションを開発する事を依頼されました。

私は、この会社で、実質1年間ほど勤める事になるのですが、感覚的に3年ほど、
勤めた感じがしました。それほどまでにこの会社の活動スピードは早かったのです。

当時は、会社が作られてから25年ほど経過しており、業績も順調で、
とにかく社長の口癖が「スピード感を持って仕事するように」と言われ、
私にも上司にもプレッシャーがかかったのでした。

私はその年の年末まで、休みが取れない状況になり、うつ病を悪化させる事になったのです。
正月休みが終わる頃出社しようとしたら、朝起きられなくなってしまったのです。
身体中が痛くて、動けませんでした。仕方がないので会社を休みました。

それから1週間続けて休んだあと、とにかく起きられるようになった時に出社して、
会社の上司にうつ病を抱えている事を話しました。

結局それから3月いっぱいで、その会社を辞める事になったのです。
その時に社長からお金を個人的に借りました。給料の前借りをお願いしたのですが、
それは出来ないので、社長が個人的に貸してくれるということになったのでした。

まずは体を治して、返せるようになったら返せばいいと言ってくれて、
私はその言葉に甘えました。

丁度その頃、色々と借金を抱えてしまったのです。
何をどうやって借金したかは、あまり覚えていません。とにかく自己破産への道へと、
突き進んでいったのでした。

[その37]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その35]

2015-11-01 05:17:44 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その35]」です。

パソコンショップを退職した私は、社会保険事務所から、傷病手当を受けて、
生活をしていました。給料の6割ほどの金額が支給されます。

当時、自家用車を持っていた私は、月に一度申請のために、高松へと通って、
書類を提出していました。
体調が良い時は車の運転は出来ていました。しかし、体調が悪い時は、
全く動けない時もありました。差が激しいのです。

やる気の問題というよりも、物理的に、体が固まって動かないのです。
私は、うつ病の症状をほぼ一通り体験しました。

当時、うつ病に対してのイメージは、双極性うつ病のイメージが強く、
良い時はハイテンションになって、なんでも出来るけれど、悪い時は、
最悪の場合、死にたいと思う様な、そんな異常な状態を繰り返すものだと、
思っていました。

しかし、私の場合、いわゆる普通のうつ病で、うつ状態が続くというものでした。
症状は夜眠れない、朝起きると体が重い、動けない時もある、やる気が出ない、
という3つの症状が主なものでした。

そのために私はパキシル、デパス、アモバンという3種類の薬が手放せない、
そんな状態になっていたのです。

そんな時に名古屋のいとこが結婚する事になりました。私は結婚式に招待され、
ぜひ出席してください、と言われていたので、出席をする事にしましたが、
体調があまり良くなく、それでもそれを押して、名古屋へと向かったのです。

もちろん、新幹線で行きました。乗り物に乗らないと移動出来なかったのです。
名古屋のいとこの家に着いた時には、ほぼ一日中、横になっていました。
当然、薬も手放せません。結婚式までの間の3日間は、どこにも出かけず、
祖母よりも元気がなかったのです。叔父さんや叔母さんも心配していました。

結婚式当日は、なんとか動けるという状態で、立っているのがやっと、という、
体がきつい状態でしたが、結婚式と披露宴にはなんとか参加することが出来ました。
結婚式でいとこの幸せな姿を見た私は、少し元気をもらったのです。

体はだるかったですが、帰りの新幹線で、なんとか1人で、帰ることが出来たのです。
それから、1年ほど、自宅療養を続けました。本当に徐々に良くなっていたのですが、
相変わらず、薬が必要でした。担当の先生からは薬は飲み続けないと、日常生活を、
送ることができない、と言われました。

私は先生の言いつけを守って薬を飲み続けたのです。
1年半ほどすると、日常生活には支障がないほどに回復しました。薬は必要でしたが。
それに、そろそろ、傷病手当の支給期間が終わりに近づいていました。

私は再就職について担当医に相談しました。すると必ず通院して、薬を飲み続ける事、
という条件でまずは職業訓練を受けた方がいいとアドバイスを受けました。
ちょうど雇用保険を一時停止していたおかげで、雇用保険を受給しながら、
職業訓練を受ける事ができたのです。

私は、システムエンジニアとしての経験を生かして、Webエンジニアの訓練を、
受ける事にしました。JAVAやPerl、HTMLの基礎知識や、サーバーの構築など、
多岐に渡った学習を3ヶ月間受ける事にしたのです。
Webエンジニアの基礎の基礎を覚える事が出来たのです。

そして、それに関連する仕事を探していたのですが、求人は即戦力になるレベルを、
求めており、また、仕事として初心者として通用するのは20代の求人しか、
ありませんでした。

結局私は、機械製造会社の社内システムエンジニアとして、再就職が出来たのです。
時は2003年の3月でした。

[その36]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その34]

2015-10-19 06:25:35 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その34]」です。

不眠症になりながら、仕事を続けてきたのですが、段々と疲労が蓄積して来ました。

そのうち、移転の話が本決まりになり、その準備のための仕事が付加されて、
私は徐々に色んな物事に対して興味がなくなってきました。
今まで一番好きだった、趣味と仕事を兼ねたパソコンについて、
何故だか、興味が湧かなくなってきたのです。

今思うとこの頃から、鬱状態になっていたのだと思います。
そして、移転先の改築工事が始まり、私はパソコン教室の担当になりました。
教室のレイアウトや、備品の準備、パソコン教室の内容の検討、などなど、
通常の店舗での販売員の仕事にプラスされて、仕事がかなりタイトになって、
私は段々と疲れてきてしまったのです。

楽しみながらやってれば疲れも気になりませんが、渋々ながらやっている仕事では、
かなり気疲れをして、私のやる気と体力はどんどん下がっていったのです。

そして、オープン日が近くなり、ますます多忙になりました。
私はネットワークに詳しかった事もあり、その仕事も追加されて、
電話やネットの準備や、実際にケーブルを敷設する作業もしていました。
少しでも経費を抑えるために社員でやれる事はとことん社員でやるのが、
この会社の方針でした。

確かに実際にそういう仕事をやる事によってスキルは上がりますが、
効率としては外部に委託し、分担できる事は分担したほうが、
開店準備に注力する事が出来ると考えていました。

そして、オープン日の3日前に前店舗を閉めて、備品や商品など、店内にあるもの、
全てを従業員だけで梱包し、いわゆる赤帽という運送業社に運送だけ依頼するという、
本当に経費をケチるやり方で、社員に負担がかかる方法で移転作業を行ったのです。

みんな、本当にクタクタでした。それでも文句を言わないのは、パソコンが好きだから、
というそれだけが共通の原動力となっていたからなのでした。

オープン日の朝まで掛かって、なんとか店内のネットワークや電話の敷設準備を、
終える事ができましたが、その足で開店準備をして、みんなフラフラでした。

そして、オープン当日はなんとか運営する事が出来たのですが、
まだ、パソコン教室の準備が終了していない状態で、責任者の私が、
なんと社長に、全員の前で叱責されてしまったのです。

私はとても疲れていたのと、辛かったので、何かのスイッチが切れた感覚になりました。
翌日、オープン2日目を迎えたのですが、開店2時間後に、めまいを起こしてしまい、
バックヤードで倒れこんでしまったのです。1時間ほど休み、昼から早退して、
病院へと向かいました。

それから数日、検査のために私は仕事を休む事になりました。

その店舗がある町で一番大きな総合病院に私は訪れ、精密検査を受ける事に、
なりました。血液検査から内視鏡検査、CT検査など、ありとあらゆる検査を受け、
その結果、体はどこも悪くない、という結果になりました。

そして、もしかすると自律神経の不全の疑いがある、という事で、メンタルヘルス科で、
診察を受ける事になりました。

そこで、出た結果が、過労からくるうつ病、という診断が下されたのです。

私は目の前が真っ暗になりました。自分がうつ病という精神病に羅患した事が、
大変ショックでした。当時の私は精神病に対して、とてもネガティブなイメージしか、
持っていなく、それに自分がなってしまった事が、まるでガンにでもなった様に、
思い込んでしまったのでした。

まさに、人生が終わった、ぐらいのショックを受けてしまったのです。
私は翌日、店に出向き、店長に報告しました。大の大人が泣きながら、
打ち明けたのです。

店長は、これからどうするか、ゆっくり考えたらいいから、まずは治療をうけたら、
とアドバイスしてくれました。

病院からは治療のために暫くは休職して、睡眠剤と抗鬱剤の服用で、
自宅療養するほうがいい、と指導されました。その事も含めて、店長に話しました。
すると、店長は長期に休む事は多分、社長が認めないと言われ、結局私は、
会社を辞める事になったのです。

私がうつ病と診断された日は、家に帰ってテレビを見ていると、
夜のニュースステーションで、ニューヨークに飛行機が墜落したという一報を、
知る事になったのです。なんの因果か、あの9.11のその日だったのでした。
なので、今でもその時の事はよく覚えています。

[その35]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その33]

2015-10-13 07:49:01 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その33]」です。

1999年の8月に家の近くの店舗に異動した私は、それから2年以上、
その店でパソコン販売員として働きました。

メインの仕事はパソコンについて知りたいお客様に、パソコンに関して説明をしたり、
店舗でパソコン教室をやっていたので、その案内をしたり、周辺機器の販売や、
パッケージソフトウェアの販売、パソコン用品の販売、などをメインの仕事に、
修理受付や、取り寄せ商品の手配、メンテナンスと呼ばれるパソコンの困りごとを、
解決する仕事をしていました。

特に店舗でのパソコン販売以外に、メンテナンスとパソコン教室が、
売上の3本柱となっていました。

メンテナンスは基本的にお客様が店にパソコンや周辺機器を持ち込んで、
トラブルシューティングをしていました。

それとは別に、出張メンテナンスというお客様のお宅へ訪問して、
パソコンのトラブルに対応していました。もちろん基本的に全て有料です。
ただし、当店でお買い上げのパソコン本体や周辺機器を持ち込みで、
トラブルシューティングする時は、基本料を値引きしていました。

このメンテナンス作業とパソコン、周辺機器、パッケージソフトウェアの販売が、
私の主な仕事となっていました。

また、社内業務として、レジ業務や、電話での問い合わせ対応なども行っていました。
この、電話での問い合わせ対応が、結構評判で、かなり詳しく電話で無償で、
(電話料金はお客様負担)やっていました。

これは、見込み客を増やすために大変有効なサービスのひとつとなっていました。
私は日中はほぼレジに立っていて、お客様とのやりとりや電話でのやりとりが、
楽しくて仕方ありませんでした。自分がお客様の役に立っているという、
やりがいがとてもあったのでした。仕事は毎日楽しかったです。

今まで働いていて一番楽しかったのはパソコンショップで店員をしていた時でした。
将来、私が会社を作ったら、是非、パソコンショップを作りたいと思っています。

私が再就職して、2年が経った頃、お客様が結構多くなってきて、
店が手狭になってきました。おかげさまで売上、来店客数ともに伸びていったのです。

その頃から店舗の拡大を社内で検討する事になりました。
そこで、基本的にこのショップは徳島に本部があり、全ての決定事項は、
社長が決定していました。いわゆるワンマン経営というやつです。
この時点では、これが一番、店の繁栄に合っていました。

そこで、店舗の拡大について社長と店長が相談して、店の規模を拡大する計画が、
本格的に始動したのです。

まずは、物件探しを取引先の不動産屋にお願いして、何ヶ所か候補を探していました。
私たち店員は、その時点での店舗の2倍から3倍程度の広さの物件を考えていました。

しかし、社長はどうせやるなら、大型店舗化したほうがいいと、今の店の6倍ほどの、
規模の店舗を、安く借りられるからという理由で決めてしまったのです。

その場所は、以前地元のスーパーマーケットがテナントとして入っていた、
当時としてはかなり広い店舗でした。ただ、場所が私が考えていた場所より、
わかりにくい場所で、その時の店舗から隣の町に変わるという、
マーケティングの立場からは、内心賛成できないと考えていました。

しかし、そこはワンマン社長の鶴の一声で、その場所に決まってしまったのです。
その移転計画に伴って、なんと私がパソコン教室の責任者に抜擢されたのです。

私は内心、今まで通りメインはパソコン販売員として仕事を続けたかったのですが、
社長から、パソコン教室の責任者として、トレーナーの資格を取るように命じられ、
その前提条件として、当時のMOUS検定の上級を取るように言われました。

合格したら費用は会社が負担してくれますが、不合格なら自己負担です。
私は、正直悩みました。何故ならば、私に人を教えることは向いていないと、
考えていたからです。

実は、私は本来、人前では緊張するタイプで、販売員など向いていないと、
思っていたのですが、実際に販売員をやっていくにつれ、その楽しさから、
接客もそこそこ出来るようになってきたのです。人に慣れてきたみたいでした。

しかし、人にものを教える、先生と呼ばれる立場は、間違いが許されない、
かなりプレッシャーのかかる仕事で、トレーナーには向いていないと思いました。

パソコン教室の責任者になることに、体が拒否反応を示したのです。
私はずっと悩んでしました。そして、トレーナーになりたくないと店長に相談しました。
そうしているうちに、どんどんと移転の計画が進んできて、私にストレスがかかって、

憂鬱な精神状態になっていったのでした。
その頃から、夜眠れなくなってきたのです。不眠症になったようでした。

[その34]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その32]

2015-10-06 08:49:34 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その32]」です。

その店舗に乗り込んできた暴力団員のお客様は、店に入るなり、
「店長を出せ!」とクレームの一言目を、店内に響くくらい大声で、言いました。
私を含む店員はもちろん、他のお客様も数名いらっしゃったのですが、
その場が一瞬、水を打ったように静まり返りました。

対応には店長代理があたりました。まずは相手の言い分を聞くという、
最初の対応です。

店長代理は「いかがいたしましたか?」とそのお客様に聞くと、お客様はさらに大声で、
「お前のところの対応はどうなってるんだ!」と怒鳴りました。

店長代理のSさんは、「どのようなことでしょうか?」と質問しました。
するとお客様は、「なんで出張メンテナンスを断った!」とさらに大声で怒鳴りました。
Sさんは、「本部からの指示で反社会的な方のお客様にはお断りをしております。」と、
あらかじめ決めておいた対応通りに答えました。

すると、お客様は「お前では話にならん!店長を出せ!」とまた、怒鳴りました。
Sさんは「私が店長代理でございます。お話をお伺いしますのでこちらへお越し下さい」と、
バックヤードへとそのお客様を案内しました。

それから暫くは、バックヤードでのSさんとお客様の長い遣り取りが始まりました。

30分経っても、出てこなかったので、私は様子を見に、バックヤードへ行きました。
すると、相変わらず、「お前では話にならん!社長を出せ!」と怒鳴り、
Sさんは「店の運営は全て本部の指導の元、行っております」と言って、
さらに脅してくるのでした。

私は、以前から打ち合わせていた通り、30分経っても、埒が開かないと、
警察に、営業妨害として、通報することになっていました。

そこで、私はアルバイトのレジスタッフに、110番するように言いましたが、
結局、誰も電話をしないので、私が110番して、警察に来てもらうように言いました。
それから15分ほどしてパトカーが来て、数人の警察官が店のバックヤードへと、
入って行きました。

5分ほど、すったもんだの遣り取りがあり、結局そのお客様は、
警察へと連行されたのです。お客様は、出店の際、私に向かって、
「お前の名前は覚えた、この街で見かけたらどうなるか覚えとけ!」と捨て台詞を言い、
パトカーに乗り込んだのです。

連行の決め手は、バックヤードで暴力団の名刺を出して、Sさんを脅したことでした。
当時、暴対法が出来た後の事で、暴力団とわかる証拠を提示して脅す事は、
暴対法の取り締まりの対象になったからでした。

Sさんは、全ての遣り取りをボイスレコーダーで録音しており、警察と、社長に、
その音声ファイルを提出したのでした。

それ以来、暴力団員はその店に来なくなりました。

その後、私は店長代理補佐として、とにかく店の雰囲気を変えて、
お客様が入りやすい店づくりをして、売上の向上に全力をあげたのです。
私は頑張って売上を上げるために、お客様の対応をしました。

すると、ある日、一人のお客様から、あなたからパソコンを3台買いたい、
と言われて、本当に3台もお買い上げ頂いたのです。
私は販売員をしていて良かったと思いました。

数週間が経った頃、社長から、「君はその店から離れたほうがいい」と言われ、
家の近所の店舗に異動になりました。

時は1999年7の月を超えていました。ノストラダムスの予言は外れたのです。

[その33]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その31]

2015-09-30 07:23:38 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その31]」です。

パソコンショップに転職した私は、新しい私より年上の店長と一緒に、
私の町にあるパソコンショップでパソコン販売員として働く事になりました。

そこでは私は正社員で採用されて、その店は正社員が6人と、
アルバイトが4人いて、アルバイトは交代で2人づつ、サブとしてレジのスタッフや、
バックヤードの手伝いなどをしていました。

私は、そこで以前にいた時の仲間が1人いて、その仲間とは友人でした。
初めの1ヶ月は、私が販売員の勘を取り戻す為と、研修の為に、
徳島の本部へと出張していたのでした。

その時にもう1つの香川の店で、売上が落ちているので、様子を観察して、
社長に報告する役目を仰せつかったのです。
私は1ヶ月の研修が終わると、一旦その店舗へと配属されました。
そこでショップの販売員として働きながら、何故売上が落ちているのか、
実情を見る事にしました。

明らかに客数が少なく、1日の来店数は10数人でした。
これでは赤字レベルです。
そして、1週間ほど様子を観察していた私は、この店の異常さを目撃する事に、
なったのでした。

それは、まず従業員のモチベーションが非常に低く、店長が不在で、
店長代わりの正社員の人が、リーダーのように振舞っていました。
その店ではその人が、店舗を牛耳っており、普段は販売員としての仕事をしておらず、
何かパソコンで作業ばかりしていました。

そして、その人の友人らしい人たちが、バックヤードにたむろしていて、
普段関係者は出入りが禁止されているにもかかわらず、その人と友人らしい人達で、
何やら密談をしているのです。

私はその正社員とは、実は私が以前、個人事業を一緒にやろうと誘っていた人です。
その人(以後Sさん)は、店舗に自分で勝手にインターネット回線を契約して引いて、
パソコンでインターネットをずっと見ていたのでした。

これは、仕事をしていないな、と直感しました。その他にも変わった事が無いか、
観察していると、昼食休憩の時に、バックヤードであろうことか、持ち帰りのカレーを、
集団で食べていたのです。
店舗運営では、ありえません。匂いの強いそのカレーは、店内までカレーの匂いが、
流れていたのです。私は他にも変わったことは無いか、色々と密かに調べていました。

Sさんとそのスーツを着た友人たちは、バックヤードで雑談やら密談を繰り返して、
その人たちが店舗の主導権を握っていたのでした。
部外者が店舗運営に関わる事もあり得ません。

それ以外にも細かい事をあげれば、非常に沢山の異変が、その店ではあり、
私はそれらを社長に報告する為に、秘密のメモを取っていました。
そして2週間ほど経過した時に、徳島に出張し、社長へと報告しました。
社長はその内容を詳しく、報告書として提出するよう私に命じました。

私は報告書を作成し、社長に提出しました。
すると私は、本部でも、その店舗でも、社長のスパイ、と呼ばれるようになりました。
実は、そのSさんの友人らしい人達は暴力団の構成員である事が発覚するのです。

社長は私と、私が勤めたい店舗にいる正社員の2人で、店長代理と私が店長代理補佐
として、店舗の運営をするように命じました。

それから、数週間がたったある日、社長の指示で、反社会勢力とは付き合わない、
というお達しがあり、その暴力団の人から出張メンテナンスの依頼があり、
それを断ろうとした、もう1人の正社員の人が、脅されるという事があり、
すったもんだの末、出張メンテナンスに行く事になり、出張先で、かなり脅された、
と帰ってきて報告されました。

私と店長代理の2人は、暴力団対策の暴追センターに出向き、色々とレクチャーを、
受けてから、ステッカーなどを店舗に取り付けて、対策を練ったのでした。

ある日、その暴力団員のお客様から、クレームがあり、店舗にいかにもそれらしい、
服装で、その店舗に乗り込んできたのです。

[その32]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その30]

2015-09-26 07:26:32 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その30]」です。

パソコンショップに転職することになった私は、以前3ヶ月だけ勤めていた、
パソコンショップの店長に、社員募集の張り紙を見て、応募したい旨を伝えました。
店長は、受かるかどうかはわからないよ、と念を押して、
履歴書を受け取ってくれました。

実はこのパソコンショップ、私が一番長く働いたジーンズショップの次に、
転職した会社で、本社が徳島にあり、香川に2店舗目のショップを、
私の住んでいる町に、1996年4月にオープンすることになっていました。

私はジーンズショップを辞める時に、次の転職先として、家電量販店を、
受けたのですが、そこは合格し採用が決まっていたのですが、
パソコンショップオープンの看板を見つけた私はそこに書かれている、
社員募集中の広告を見て、パソコンショップを受けてみることにしました。

結果は合格で、私は、家電量販店の採用を辞退して、パソコンショップに、
正社員見習いとして、3ヶ月の試用期間に入ることになったのでした。
その後、パソコンショップのオープニングスタッフとして雇われた私は、
開店準備から立会い、オープン初日までの間、接客研修を受けて、
オープンの準備をしていました。

その新店舗では、新しく徳島本部で勤めていた、若い店長が店を管理することに、
なりました。また、私はそのショップでは、一番の年長者で、
みんなから「長老」と呼ばれる事に、なったのです。

ショップのオープニングスタッフになる経験なんて、そうそうあるもんでは無いです。
私は本当に忙しく、しかしとても楽しく仕事をする事が出来ました。
なぜならば、私の得意分野であり、趣味でもあるコンピューターの販売をする、
という経験は、以前ジーンズショップで社内システムエンジニアとして働いていて、
たまにジーンズショップのレジスタッフとしても手伝いをしていた私は、
販売員の仕事の楽しさを知っていたので、ファッションには疎かった私ですが、
得意分野のパソコンを、お客様にその楽しさと、活用方法を提案しながら、
販売できるこの仕事をずっと続けたいと思っていました。

しかし、3ヶ月を経過した頃、店内のPOPをリニューアルする作業に入った時に、
その時の若い店長から、「僕が社長に怒られるから作業をして」と、
口癖のように「僕が社長に怒られるから」と連呼していた事から、
私はそれは違うのでは無いか、お客様の事を第一に考えた仕事をしないと、
ダメなのでは、と店長に対して不信感を募らせていったのです。
仕事は「考えて」やるのであって、「自己保身の為」にやる事では無いと、
私は常々この店長に対して思っていて、店長としてあまり適任では無いな、
と思っていました。

そんなある日、社長から一通のFAXがショップに流されてきました。
そのFAXには、それまでに作ったPOPとは大幅に変わった内容に、
変更する事を指示して来たのです。

私を含めて、みんなで考えていた最初の案の方が、お客様にとっては、
解りやすいPOPである、と考えていたのがほとんどで、店長以外は、
みんな考えて仕事をしていたのです。

店長は自分では考える事は一切しないで、二言目には「めんどくさい」と言って、
私たちに社長の指示を丸投げにしていたのです。
こんな店長では誰も下に付いてこないです。
私は年長者として、店長のいい加減さに呆れていました。

あまりにも店の事情を何も考えないで仕事している、というか作業している、
店長に、業を煮やした私たちは、社長に相談する事にしたのです。
その対応を私がやる事になりました。

そして、徳島の本部に行く機会のあった私は、社長に店舗の状況と、
店長の仕事の仕方について説明し、相談したのでした。
すると社長は、「解った、それなら君が店長をやらないか」と提案して来たのです。
私は、「しばらく時間をください」とその場での即答はしないで、店へと帰ったのです。
これは一つのチャンスでもありました。

しかし、当時、私はパソコンショップの店長としての経験がほぼ無いので、
自分の実力では足手まといになる、と考えて、結局断ることにしたのです。
その事実を知った店長は、私と意見が対立するようになりました。
一つの店に二人のリーダーがいる事になってしまう事に、私は悩みました。
そして、一つの結論を出す事にしました。

それは、私がショップを辞める事、だったのです。
その方がお互いの為にもなるのではと考えたのでした。
私が辞めたい事を店長と社長に申し出ると、店長はただ一つ作業を淡々とこなす、
そんな感じの対応でした。

そして、私が辞める事から、簡単な送別会を兼ねた食事会を、
社長が開いてくれたのです。

その席で社長は「本当に残念だ、何かあったら相談に来なさい」と言ってくれました。
私は、有り難かったのと、仕方が無いか、と思ったのとで、複雑な心境でした。

その後に、その時の社長の言葉が、私をユースウェア会社から、
パソコンショップに転職する決意をする事になったのです。
結局、そのパソコンショップに再就職する事が決まりました。
社長の好意で私を採用してくれたのです。

その[31]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その29]

2015-09-20 06:37:36 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その29]」です。

社長から訓練を受けるように言われた私は、社長の「君をナンバー2としてみているから」という言葉と、
その訓練について、私は、出来るものならそのノウハウを吸収してやろうという、個人的な企みから、
その話を受けることにしました。

そして、1999年の2月のある日、私はその訓練を受けました。
社長からの命令によって、いわゆる「地獄の特訓」と言われる、経営幹部候補生向けの社員研修でした。
その訓練は、以前はDMP訓練と言われていた経営幹部候補生向けの、経営者養成訓練で、体力と精神力を鍛える訓練でした。
訓練の内容については、また別の機会に書きたいと思いますが、この訓練は、経営者としての心構えをある体験をする事によって、
得る事ができるというもので、それが得られるかどうかは参加者次第という、この訓練の向き、不向きが人によって違うので、
結果がどうなるかは、受けてみないとわからないというものでした。
結果、私の場合は訓練を受けた事によって、最終段階をクリアし、無事、訓練を修了する事が出来ました。

そこで、私は経営幹部としての社内での自分のあり方を、再確認する事になりました。本来なら、この訓練は、
まずはトップとなるべき人材が受講して、そのイズムを社内に反映させるという、重要な役割を担う事が求められます。
そして、その後に続く経営幹部候補生が、トップのイズムを実現する為に、全力でその任務を全うするという、
会社組織の運営に必要な、経営手法を身につけるというものです。

人間の本質をついたその訓練は、会社組織のような縦社会を作るのに、非常に有効な訓練となっており、
訓練の結果を生かすも殺すも、参加者次第なのです。結局は「覚悟」の問題です。

経営者の責任は、重大です。その企業が継続できるかどうかは、まずはトップの覚悟と責任にかかってきます。
正しい判断を求められる場面に直面した時に、経営者が判断を間違えると、最悪の場合、
倒産というとんでもない事が起こるのです。それを回避する為には、覚悟と正しい判断が求められます。
そのような気構えを鍛える為の訓練なのでした。

私は当時、社長からナンバー2として、この訓練を受けました。そして実際に受けてみて、社内の矛盾に気づいてしまう事になったのです。
それは今までうまくいっていた社長との役割分担が、社員が増える事によって、社長がトップとしての覚悟を持って、
経営にあたらなければならないのに、社長は営業に専念するという名の下に、「夜の営業」を続けていて、
社内の本当の姿が見えていなかったという、ある意味、経営に黄色信号が、灯ることになってしまった、という現実が、
私には見えてしまったのでした。

私は、深く考えました。これからどうすれば会社にとって良いのか、どうすれば良くなるのか、それを実行するためには自分自身、
何をすればいいのか、考えに考えを深めた結果、ある結論に至りました。それは、私がこの会社を去ることだったのです。

一度トップに不信感を抱いた私は、もう社長の片腕として協力することは、自分の信念から出来ないと痛感したのです。
そこで、私は社長に「仕事が出来なくなった」と嘘をついて、会社を辞めたい旨を、社長に伝えたのです。
社長はもちろん驚きました。社長に本音をぶつける訳にはいかなかったのです。社長は内心ムッとしていました。
しかし、私は、私が会社を去ることによって、社長に考えて欲しかったのです。

結局、私は辞めることを社長から渋々ながら了承され、その代わりに減俸を、辞めるまでの間言い渡されました。
私は、しかたないな、と覚悟をしていたので、それを了解しました。次の仕事を探さなくてはいけなくなった私は、
自分が自分であるために、これから何をすれば良いのか、深く考えました。その結果、私は以前3ヶ月だけ働いた、
パソコンショップで販売員として働いて、営業経験を積むことにしようと決めました。

その段階では入社できるかどうかはわかりませんでしたが、何故か私は、パソコンショップに、
どうしても入社したいと強く思い、そこを受ける事になったのです。
そして私は、社長に今の会社を辞めて、パソコンショップに勤める事を、話して、退職を認めてもらう事が出来たのです。

[その30]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その28]

2015-09-18 05:47:17 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その28]」です。

パソコンショップを辞めた私は、そこで出来た友人と2人で、出張パソコンサポートサービスの、
個人事業を始める事にしました。基本的な準備は私が1人で行い、人手が足り無い時に、友人にお願いする、
という事で、始めようとしていました。しかし、友人が奥さんに反対された為、結局、私一人で、
スタートする事にしたのです。

屋号を考えて、法務局へ商号登記をし、税務署へ開業届を出しました。
私はチラシと名刺をパソコンで自作し、チラシを辞めたパソコンショップに置いてもらう事にしました。
チラシは20枚作って、反応は1人のお客様が、頼もうか検討中という、そんな状況でした。
私は、これは市場があるな、と思いました。
実際には、私の以前勤めていた、ジーンズショップの社長さんから、メンテナンスの依頼を受けただけでした。
結局、売上はこの1件だけになりました。

私は、このままでは続けても赤字が続くと判断して、再就職をすることにしました。
再就職先はハローワークで紹介された、私の住む町内にあるユースウェアの会社でした。
ユースウェアとはハードウェア販売とソフトウェア開発とサポートサービスを行う会社です。
パソコンを使えるようにするまでと、使いだしてからのサポートを事業として行っていました。

これはシステムエンジニアとプログラマー、パソコンメンテナンスサポートの仕事を一つにしたものです。
私は、面接で、個人事業を開業して、辞めたことなどの顛末を話しました。
すると社長さんは、面白いと言ってくれて、結局採用が決まりました。

私はその会社で3年ほどお世話になることになりました。
社長さんが営業を担当し、お客さんを取ってきて、私が技術開発を担当し、アプリケーションの開発や、
サポートを担当しました。

1年目はうまくいっていました。役割分担がうまく出来ていました。
2年目になると2人仲間が増えました。1人はこれからプログラミングを覚えるという若い人で、
もう1人は、アプリケーションの開発の経験がある人でした。
この4人と社長の奥さんを合わせた、5人体制で会社を運営していました。
私たちは2年目まではうまくいっていました。
3年目になると、私は社長に対して少し不信感が出てきたのです。それは、社長は営業という名目で、
夜の接待を頻繁に行っていました。いわゆる飲み会でお客さんを取っていたのです。

確かに役割分担としてはそれが妥当だったのですが、社長がほぼ夕方には出かけて、夜中まで接待をして、
朝は10時過ぎに出社するという、社内に目が届かない状況になっていました。
それが、しばらく続くと、私はスランプに陥ったのです。システム開発が思うようにいかなくなりました。
開発の効率が下がってしまい、スケジュールは伸ばし伸ばしになってしまったのです。

これには社長もなんとかしないといけないと考えていました。
そこで、新しいお客さんを私に紹介しました。私はお客さんの元へ伺いました。
そこでは、社内のシステム全般を私たちの会社に任せるという話でした。
ただ、一つだけ条件がありました。それは、社長がある訓練を受けることだったのです。
しかし、社長はその訓練を受けたがらないのでした。そこで、私にその役目が回ってきたのです。

[その29]へ続きます。

ではでは。