ガジェットがいっぱい。

私が気になる「ガジェット」をチェック!オブジェクトの種類は問いません。気になる物は、手当たり次第にピックアップします。

誕生日

2014-02-01 06:46:24 | memory
えー、お題の「誕生日」です。

今日で47歳の誕生日になります。

私は誕生日に、良い思い出がありません。

子供の頃から、誕生日だからといって、祝ってもらった記憶がありません。

私の家庭は、子供の頃から非常に貧しく、母親からは育児放棄をされていました。
いわゆる、おふくろの味ってものを知りません。

また、父親からは虐待を受けていました。
父親は、今で言う、アルコール依存症で、酒を飲まないとおとなしいのですが、
酒を飲むと、怒鳴ったり、暴力を振るうのです。

何度も殺されかけた事があります。

社会人になって、親から離れて自立しましたが、その後も友人は皆、
県外に勤めていて、合うのは年に1回ほどでした。

なので、誕生日には特に何もせず、過ごしてきました。

香川に帰って来て、職場で友人が出来ましたが、
自宅で鍋をつつく様な仲になりましたが、
それでも私の誕生日に何かした事はありません。

この歳になると、誕生日が来ても、特に何をするでもなく、
普通に過ごしています。

また、今までお付き合いした人がいますが、
何故か誕生日まで付き合いが続いた事がありません。

これは私に何かしら、男性としての魅力が、
欠落しているのでは無いかと感じています。

自分では、自分自身の事を、平均的な普通の人間だと思っています。

が、周りの人には、江戸時代の人みたいだ、と言われた事があります。

もしかしたら、私は、侍の様な生き方をしているのかも知れません。

特に気にした事も無かったのですが、改めて考えると、
やはり私は変わっているのでは、と思いました。

現代人のスピードについていけないのではないかと感じています。

そのくせ、新し物好きだったりします。

色んな事に興味を持って、気に入ったら思いっきりハマります。

以前、パソコンショップで働いた時に、性格診断テストの様なものを、
職場で受けた事があります。

その時の結果では、高得点を取ったのですが、本人は全然気にしませんでした。

私は、人から試される事が苦手なので、テストとか本当は嫌いなのです。

なので、多分、全然気にしなかったのだと思います。

自分が他人からどんな風に思われているか、少しは気になりますが、
基本的に、私は私の道を行く、という様な性格です。

これをなんと言うのでしょうか。よく解りません。

きっと、自分自身に、自信が無いんでしょうね。

こんな私でも相手してくれるパートナーが見つかるといいなと思っています。

本当に見つかるのか、見つかったらいいなぁ。

ではでは。

3人の友達[その3]

2013-02-17 05:52:06 | memory
えー、お題の「3人の友達[その3]」です。

3人目は自宅から自転車で約1時間行った集落にいる、Kくんです。

Kくんは、島の分校に通っていました。
島には、本校と分校の2つの小学校が当時ありました。

中学校はひとつだけなので、中学生になると、分校の生徒が中学校のある
集落まで、自転車でやってきます。

Kくんは、中学の時から知り合いになって、友達になりました。

Kくんの家は漁師をしていて、私の家より少しお金持ちの家庭で、
一人っ子ということもあり、色んなものを買ってもらっていました。

私と、Tくんは、そのおもちゃや、ゲーム目当てで、Kくんの家に
毎週日曜日に朝から遊びに行きました。

お昼ご飯をごちそうになって、夕方に帰って行くというパターンを
毎週の様にしていました。

Kくんも、Tくんと同じ職業訓練校に中学を卒業すると通っていました。

私と、Tくんは島からフェリーに乗ってそれぞれの学校に通っていました。

Kくんは、四国側の港の近くに、下宿して、職業訓練校に通っていました。

そのKくんが、卒業間際の3月の雪の降ったある日、交通事故に遭いました。

大けがをして、それから半年以上入院したのです。

退院して松葉杖で歩くまでの間、逢えませんでした。

現在何をしているのかは、全く知りません。

時間が取れる時に、Kくんの消息を知りたいと思います。

ではでは。


3人の友達[その2]

2013-02-12 07:27:35 | memory
えー、お題の「3人の友達[その2]」です。

2人目は、小5の頃に友達になった、祭りの太鼓を一緒に叩いたTくんです。

Tくんとは、太鼓の事や、YMOの事などで話をしたりしてました。

でも、それ以外は割と無口な子供でした。

大人になってから分かった事なんですが、Tくんは、自閉症だったみたいです。

自分の興味のある事には、結構なこだわりを持ちますが、興味が無いと
まったく、見向きもしません。

私は当時、「こういう性格なんだなあ」ぐらいの気持ちで付き合っていました。
基本、あんまり人を区別しない性格なので、そんなに気にならなかったです。

Tくんとも、中学3年まで一緒でした。

中学から一緒になったもう1人の友達の家にもよく行きました。

2人で自転車で約7キロ離れたもう1人の友達の家に行って、TVゲームをしたり
してました。

Tくんは釣りが大好きで、よく釣った魚で「猫釣り」をしていました。

いわゆる、雑魚っていうやつをそのまま餌にして、猫めがけて釣り竿を投げるのです。

そうしているうちに猫がその魚をくわえて、釣り竿に引っかかるのです。
「猫がつれた!」といって笑いながら釣っていたのを思い出します。

そのTくんは、多分今は中卒で職業訓練学校に通い、溶接工として働いていると思います。

Tくんとも暫く会っていません。

今頃何してるんだろうかとか思ったりしました。

また、島に帰る時に時間があれば消息を知りたいです。

ではでは。


3人の友達[その1]

2013-02-10 05:55:03 | memory
えー、お題の「3人の友達[その1]」についてです。

小4の頃からいじめられていた私は、いじめが始まった頃には
友達と呼べる人はいませんでした。

自分が招いたせいで、クラスメートから相手にされなくなって、
暫くの間、無視が始まりました。

そんな中、一人目の友達が出来ました。

その友達は私の家から約5キロほどはなれた集落に住んでいて、
その家は商店を営んでいました。

島の近所の小学生と一緒に遊んでいた私は、自転車を年下の子から借りて、
自転車の練習をしていました。

その自転車は子供用のもので、後輪にコマが2つ付いていて、自転車が乗れなくても
乗れる様な仕様になっていました。

そのコマのうち、片側のコマを外す事が出来、自転車の練習が出来る様になっていました。

で、その自転車で数週間練習して初めて小4で自転車に乗る事が出来ました。

でもって、自転車に乗れる様になってから、家にある自転車に乗って、その5キロ離れた
友達の家に遊びに行ったのです。

その友達は普通に接してくれました。
その友達(けいちゃん)はよくお店のお菓子をくれました。

貧乏だった私は、半分お菓子目当てで、そのけいちゃんと遊んでいました。

けいちゃんの家の近所のお寺にいって、境内で色々話したり、鐘をついて遊んだりも
しました。

けいちゃん家では、猫が住み着いていて、子猫を産んでいたので、その子猫と
遊んだりもしました。

立ちションもした仲です。

けいちゃんは頭が良くて、体も大きくて、なのに、すごくやさしい子でした。
小4から中3までの間ずっと仲良くしてくれました。

幼なじみってやつですね。

お互い高校生になってからは、けいちゃんが進学校に通った事もあり、ほとんど
疎遠になりました。

今、どこでどうしているかは分かりません。

年に一度くらい、島の実家に帰りますが、けいちゃんの家にはなかなか立ち寄る事が
ありませんでした。

今度実家に帰って時間がある時には、けいちゃんの家に寄ってみようと思います。

ではでは。

紙飛行機と宇宙戦艦ヤマト

2013-02-09 08:30:03 | memory
えー、お題の「紙飛行機と宇宙戦艦ヤマト」です。

私が島へ来た小4の秋に、いじめが始まりました。
その時に同級生の友達を失いました。
全て自分のせいだと考えた私は、ただ耐えるだけしか出来ませんでした。

そんな時に、家の近所の同級生の女の子が、放課後にこれまた近所の子供達と
一緒に遊んでくれたのです。

子供同士7、8人で近くの神社の境内で、皆で遊べる遊びを色々教えてくれたのです。
その女の子は、私がいじめられている事など知らなかったのです。
小6まで、よく遊びました。

で、その子のお兄さんとも、よく遊んでいました。

そのお兄さんは、絵を描くのがとても上手で、特に戦艦の絵が
とてもカッコよかったのを覚えています。

その中でも、事あるごとに「宇宙戦艦ヤマト」を描いて貰っていました。

実は私が島へ来る前、大阪に住んでいたのですが、その頃に父親と一緒に
宇宙戦艦ヤマトを良く見ていました。
その頃から、ヤマトを作りたいと思っていたのです。

まぁ、小学生の夢ですから、今考えるととても無謀な夢だったのですが、
その頃から機械を触るのが好きでした。

でもって、その女の子のお兄さんとは、紙飛行機を作っては飛ばす遊びをよくしていました。
高く、遠くへ飛ばす競争をしていましたが、そのお兄さんには、中々勝つ事が出来ませんでした。
そうなんです、紙飛行機を作るのも、大変上手だったのです。

私には、本当の兄の様に思えて、慕っていました。
そのお兄さんと女の子が、小学校を卒業する時に、転校していったのです。

何か心にぽっかりと穴が空いた様になりました。

今でも、宇宙戦艦ヤマトは私の夢です。
いつか、自分に子供が出来たら、宇宙戦艦ヤマトを作って欲しいと思います。

祭りと太鼓とYMO[その2]

2013-02-08 07:03:01 | memory
えー、お題の「祭りと太鼓とYMO[その2]」です。

友達と太鼓の事で仲良くなった私は、その友達のお兄さんとも仲良くなりました。

今だから分かる事として、その友達のお兄さんは弟思いで、
多分私が、普通に友達として付き合いしてる事が嬉しかったんだと思いました。

で、その友達のお兄さんが、色々ハマってる事を私に教えてくれました。

一つは、マンガを書く事。

そのお兄さんはマンガが凄く上手で、特に同級生をモデルにしたギャグマンガを見せてくれました。
腹抱えて笑ったのを思い出します。

もう一つは、ブルース・リーの映画を観る事でした。

当時、ヌンチャクをそのお兄さんは通販で買って、練習してました。

そして私にカルチャーショックを与えた、YMOの音楽です。

そのお兄さんは、これまたYMOの大ファンで、アルバムを何枚も持っていました。
それをカセットテープにダビングして私に聴かせてくれたのです。

初めて聴いた曲は「ライディーン」でした。

なんだ、この音楽は!カッコいい!しびれるぅ!と心の底で思いました。

それからは毎日の様にYMOの曲を貪る様に聴きまくりました。

その、ドラムのビートが、あまりにも凄くて、(今思えば、当たり前ですが)
高橋幸宏さんのドラムに憧れました。

私にとって高橋幸宏さんは今でも「神」です。

それからというもの、家にドラムが無いので、料理に使うボウルに紙を貼って、
輪ゴムで止めたものをドラム代わりに箸をスティック代わりにして
リズムを取って叩きまくりました。

学校では、自分の足の太ももをドラム代わりに手で叩いていたのを思い出します。

で、そのYMOが作る音楽がシンセサイザーというコンピュータ制御で動く楽器で
作られている事を知り、シンセサイザーが欲しくて欲しくてたまりませんでした。

また、当時インベーダーゲームが流行り始めた頃で、私はゲームにハマっていったのです。

コンピュータと私の出会いは、また後ほどの書き込みで紹介したいと思います。

ではでは。

祭りと太鼓とYMO[その1]

2013-02-06 07:04:22 | memory
えー、お題の「祭りと太鼓とYMO[その1]」です。

小5の頃に島の秋祭りで、私が太鼓台に載って太鼓を叩く事になりました。
その頃の私といえば、いじめられるは、虐待を受けるはで散々な目にあっていました。

で、太鼓を叩く為に、同級生のお父さんと、お兄さんに太鼓の叩き方を教えてもらっていました。

その縁もあって、その同級生とは、少しずつ仲が良くなっていきました。

初めての島での友達です。
私は、太鼓を叩く事が唯一の楽しみとなりました。

でもって、秋祭りまでの間は毎日の様に家で太鼓の練習を友達としていました。

音楽が好きだった私は、祭りのシュチュエーション毎に変わるリズムを覚えるのが楽しくて、
太鼓を叩く練習に夢中になりました。

その友達はお父さんとお兄さんが太鼓を叩くのが上手で、その友達もリズム感があって、
非常に上手かったのを覚えています。

「ここは、こう叩くんや」とか「この時はこうするんや」とか、色々と教えてくれたのを
感謝しています。

後から分かったのですが、その友達は自閉症だったのです。
でも、私はそんなことはまったくお構い無しで、とにかく友達と一緒に同じ事を
一生懸命やる事が楽しみでした。

小5の頃に初めて祭りに参加して、一番の楽しみは、太鼓台に乗って太鼓を叩く事で、
お金をもらえる事でした。

実は、祭りの時に、「花(はな)」と呼ばれる、集落に伝わる祭りの寄付金のようなものがあり、
それを太鼓台を引く子供達が集落の家を一軒づつ回って、集金をするのです。

で、その集まったお金を、子供の参加者で、大人達への酒代を差し引いた分を、
年功序列と役割によって、子供達の内の年長者がリーダーとなり、みんなで分けるのです。

そうです、臨時のお小遣いが貰えるのです。

当時のお金で私は5,000円も貰う事が出来たのです。好きな太鼓を叩いてこんなに
お金が貰えるなんてなんてうれしいんだろうと思いました。

それが年に一度の楽しみとなったのは言うまでもありません。

その集落の祭りの決まり事として、子供の参加者は小4から中3までの6年間参加出来るのです。

私は中学3年までの間、その年に一度の祭りが、とりあえずの希望となりました。

その2に続きます。

ではでは。

山田共和国

2013-02-05 07:35:14 | memory
えー、お題の「山田共和国」についてです。

この、山田共和国とは、あるTV番組の中でやられていたコントの題名です。

昔のお笑い番組で、山田共和国というコントがありました。

それは、ある一軒の家族のお話です。

その一家の名前は山田さんといいます。

その家(サザエさんの家みたいな自宅)が、
一国として独立するというもので、家族が国民という設定です。

山田共和国は国ですから、国旗があり、国歌もあります。

毎回、始めに旗竿に国旗を揚げて、国歌を歌う所から始まります。
確か、国歌は「やーまーだ、きょうわこく」と歌ってたと記憶してます。

その家族が繰り広げる、ご近所という他国との軋轢とか、
色々面白かったのを記憶しています。

私は、国の最小単位って「家族」だと思っています。
良い家族の周りには、良い近所が出来て、良い近所が集まると
良い街になると思います。

そして、良い街が集まると良い国が出来ると思います。

今、国が、街が、近所が、家族が、崩壊の危機に瀕しています。
その危機を脱する方法として、まずは家族を再生させる必要が
あります。

今、NHKで、朝の連ドラの「純と愛」というのが放送されています。

そのドラマでは、家族の絆が描かれています。

現時点での家族の絆はバラバラですが、これが今後どうなるか、
楽しみにして観ています。

家族を良くする為には個人がまずは良くならないといけないと
私は考えます。

私の考える良い個人とは、お天道様に恥ずかしく無い生き方をしている人の事だと考えます。
では、お天道様に恥ずかしく無い生き方とは、どんな生き方なのでしょうか。

それは、「真、善、美を追求する生き方」だと私は考えます。

自分自身が、今、何をすれば良いのか常に考えて行動する事が
求められていると思います。

良い国の始まりは、一人一人の心がけで良くなると思います。

自分自身が、常に良い事をしているのか、それに気をつけて
生活していこうと思います。

ではでは。

誕生日

2009-02-02 07:17:19 | memory
えー、お題の「誕生日」ですが、実は、昨日、私の誕生日でした。

特に、何をするでもなく過ごしていましたが、県外に住んでいる、
妹から、電話で誕生日の「おめでとうコール」をもらいました。

で、もうそんなお祝いとかするような歳でもないので、本人は、
あんまり、何にもしていないのですが、自分が生まれてきた意味を、
少し考える日にしようと思いました。

私は、現在、家族がおりません。

いわゆる、ひとりやもめ、ってやつです。

で、今朝、目覚めた時、きょうだいが、バラバラな事を、何とかまとめようと、
一生懸命努力するのですが、みんな、勝手に行動してしまい、
私が泣いて訴える、という夢を見ました。

実際、子供の頃、確かにきょうだいは、いや家族は、みんなバラバラでした。

今考えると、家族らしいイベントとか、ほとんどありませんでした。

が、唯一、誕生日だけは、父が色々料理を手作りして、それらしいことを
してくれていました。

当時は、ただ、こっぱずかしいのと、なんとなく、いやだったので、反発して
誕生日なんか、何にもしなくてもいい、とか強がってました。

でも、今よくよく思い出してみると、父も、色々、苦労したんだなぁと、
今更ながら、思いました。

私に、家族が出来たらいいなぁ。

ではでは。

マイコン

2009-01-21 09:59:18 | memory
えー、お題の「マイコン」ですが、私が、コンピュータを始めるきっかけは、
高校合格の祝いの品に、マイコンを買ってもらったことだったのです。

なぜに「マイコン」であったかというと、話せば長いですが、当時私は、
シンセサイザーとドラムセットが欲しくて、高校受験の時に、合格したら
ドラムセットを買ってもらう約束を父としました。

人参です、ドラムセットは。

中学の頃、家庭の事情もあり、まあ、はっきり言って家は、筋金入りの
「ビンボー」だったこともあり、そんな、シンセサイザーや、ドラムを
買う様な余裕は、当然ありません。

で、私は、考えました。

当時、父は酒に酔うと、気が大きくなり、何でも約束するという、
まあ、よくある話です。それを利用しました。

当然、父にも予算があるのですが、ドラムセットのみならということで
証文をとって、きょうだいにも証人になってもらいました。

父は、私がズボラである事から、たかをくくっていました。

しかし、父の予想に反して、私は、高校受験に合格したのです。

しめたものです。で、ドラムセットを買ってもらう事になったのですが、
当時、インベーダーゲームが流行った事も手伝って、マイコンというものがあり、
それがあると、音楽も作れて、ゲームもできるということを知り、
マイコンが欲しいと強く願うようになりました。

でもって、結局PC-6001という、当時マイコンと呼ばれていた
パーソナルコンピュータを買ってもらう事になったのです。

価格的には、ドラムセットを買うのと大して、差がありませんでした。

私は、高校1年生にして、マイコンを手に入れたのです。

それからの、私は、学校生活自体の楽しさも手伝って、
マイコンにハマるようになりました。

次回、私がプログラミングをやることになるきっかけを、暫くお待ちください。

ではでは。