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70億人が幸せになる方法[その31]

2015-09-30 07:23:38 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その31]」です。

パソコンショップに転職した私は、新しい私より年上の店長と一緒に、
私の町にあるパソコンショップでパソコン販売員として働く事になりました。

そこでは私は正社員で採用されて、その店は正社員が6人と、
アルバイトが4人いて、アルバイトは交代で2人づつ、サブとしてレジのスタッフや、
バックヤードの手伝いなどをしていました。

私は、そこで以前にいた時の仲間が1人いて、その仲間とは友人でした。
初めの1ヶ月は、私が販売員の勘を取り戻す為と、研修の為に、
徳島の本部へと出張していたのでした。

その時にもう1つの香川の店で、売上が落ちているので、様子を観察して、
社長に報告する役目を仰せつかったのです。
私は1ヶ月の研修が終わると、一旦その店舗へと配属されました。
そこでショップの販売員として働きながら、何故売上が落ちているのか、
実情を見る事にしました。

明らかに客数が少なく、1日の来店数は10数人でした。
これでは赤字レベルです。
そして、1週間ほど様子を観察していた私は、この店の異常さを目撃する事に、
なったのでした。

それは、まず従業員のモチベーションが非常に低く、店長が不在で、
店長代わりの正社員の人が、リーダーのように振舞っていました。
その店ではその人が、店舗を牛耳っており、普段は販売員としての仕事をしておらず、
何かパソコンで作業ばかりしていました。

そして、その人の友人らしい人たちが、バックヤードにたむろしていて、
普段関係者は出入りが禁止されているにもかかわらず、その人と友人らしい人達で、
何やら密談をしているのです。

私はその正社員とは、実は私が以前、個人事業を一緒にやろうと誘っていた人です。
その人(以後Sさん)は、店舗に自分で勝手にインターネット回線を契約して引いて、
パソコンでインターネットをずっと見ていたのでした。

これは、仕事をしていないな、と直感しました。その他にも変わった事が無いか、
観察していると、昼食休憩の時に、バックヤードであろうことか、持ち帰りのカレーを、
集団で食べていたのです。
店舗運営では、ありえません。匂いの強いそのカレーは、店内までカレーの匂いが、
流れていたのです。私は他にも変わったことは無いか、色々と密かに調べていました。

Sさんとそのスーツを着た友人たちは、バックヤードで雑談やら密談を繰り返して、
その人たちが店舗の主導権を握っていたのでした。
部外者が店舗運営に関わる事もあり得ません。

それ以外にも細かい事をあげれば、非常に沢山の異変が、その店ではあり、
私はそれらを社長に報告する為に、秘密のメモを取っていました。
そして2週間ほど経過した時に、徳島に出張し、社長へと報告しました。
社長はその内容を詳しく、報告書として提出するよう私に命じました。

私は報告書を作成し、社長に提出しました。
すると私は、本部でも、その店舗でも、社長のスパイ、と呼ばれるようになりました。
実は、そのSさんの友人らしい人達は暴力団の構成員である事が発覚するのです。

社長は私と、私が勤めたい店舗にいる正社員の2人で、店長代理と私が店長代理補佐
として、店舗の運営をするように命じました。

それから、数週間がたったある日、社長の指示で、反社会勢力とは付き合わない、
というお達しがあり、その暴力団の人から出張メンテナンスの依頼があり、
それを断ろうとした、もう1人の正社員の人が、脅されるという事があり、
すったもんだの末、出張メンテナンスに行く事になり、出張先で、かなり脅された、
と帰ってきて報告されました。

私と店長代理の2人は、暴力団対策の暴追センターに出向き、色々とレクチャーを、
受けてから、ステッカーなどを店舗に取り付けて、対策を練ったのでした。

ある日、その暴力団員のお客様から、クレームがあり、店舗にいかにもそれらしい、
服装で、その店舗に乗り込んできたのです。

[その32]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その30]

2015-09-26 07:26:32 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その30]」です。

パソコンショップに転職することになった私は、以前3ヶ月だけ勤めていた、
パソコンショップの店長に、社員募集の張り紙を見て、応募したい旨を伝えました。
店長は、受かるかどうかはわからないよ、と念を押して、
履歴書を受け取ってくれました。

実はこのパソコンショップ、私が一番長く働いたジーンズショップの次に、
転職した会社で、本社が徳島にあり、香川に2店舗目のショップを、
私の住んでいる町に、1996年4月にオープンすることになっていました。

私はジーンズショップを辞める時に、次の転職先として、家電量販店を、
受けたのですが、そこは合格し採用が決まっていたのですが、
パソコンショップオープンの看板を見つけた私はそこに書かれている、
社員募集中の広告を見て、パソコンショップを受けてみることにしました。

結果は合格で、私は、家電量販店の採用を辞退して、パソコンショップに、
正社員見習いとして、3ヶ月の試用期間に入ることになったのでした。
その後、パソコンショップのオープニングスタッフとして雇われた私は、
開店準備から立会い、オープン初日までの間、接客研修を受けて、
オープンの準備をしていました。

その新店舗では、新しく徳島本部で勤めていた、若い店長が店を管理することに、
なりました。また、私はそのショップでは、一番の年長者で、
みんなから「長老」と呼ばれる事に、なったのです。

ショップのオープニングスタッフになる経験なんて、そうそうあるもんでは無いです。
私は本当に忙しく、しかしとても楽しく仕事をする事が出来ました。
なぜならば、私の得意分野であり、趣味でもあるコンピューターの販売をする、
という経験は、以前ジーンズショップで社内システムエンジニアとして働いていて、
たまにジーンズショップのレジスタッフとしても手伝いをしていた私は、
販売員の仕事の楽しさを知っていたので、ファッションには疎かった私ですが、
得意分野のパソコンを、お客様にその楽しさと、活用方法を提案しながら、
販売できるこの仕事をずっと続けたいと思っていました。

しかし、3ヶ月を経過した頃、店内のPOPをリニューアルする作業に入った時に、
その時の若い店長から、「僕が社長に怒られるから作業をして」と、
口癖のように「僕が社長に怒られるから」と連呼していた事から、
私はそれは違うのでは無いか、お客様の事を第一に考えた仕事をしないと、
ダメなのでは、と店長に対して不信感を募らせていったのです。
仕事は「考えて」やるのであって、「自己保身の為」にやる事では無いと、
私は常々この店長に対して思っていて、店長としてあまり適任では無いな、
と思っていました。

そんなある日、社長から一通のFAXがショップに流されてきました。
そのFAXには、それまでに作ったPOPとは大幅に変わった内容に、
変更する事を指示して来たのです。

私を含めて、みんなで考えていた最初の案の方が、お客様にとっては、
解りやすいPOPである、と考えていたのがほとんどで、店長以外は、
みんな考えて仕事をしていたのです。

店長は自分では考える事は一切しないで、二言目には「めんどくさい」と言って、
私たちに社長の指示を丸投げにしていたのです。
こんな店長では誰も下に付いてこないです。
私は年長者として、店長のいい加減さに呆れていました。

あまりにも店の事情を何も考えないで仕事している、というか作業している、
店長に、業を煮やした私たちは、社長に相談する事にしたのです。
その対応を私がやる事になりました。

そして、徳島の本部に行く機会のあった私は、社長に店舗の状況と、
店長の仕事の仕方について説明し、相談したのでした。
すると社長は、「解った、それなら君が店長をやらないか」と提案して来たのです。
私は、「しばらく時間をください」とその場での即答はしないで、店へと帰ったのです。
これは一つのチャンスでもありました。

しかし、当時、私はパソコンショップの店長としての経験がほぼ無いので、
自分の実力では足手まといになる、と考えて、結局断ることにしたのです。
その事実を知った店長は、私と意見が対立するようになりました。
一つの店に二人のリーダーがいる事になってしまう事に、私は悩みました。
そして、一つの結論を出す事にしました。

それは、私がショップを辞める事、だったのです。
その方がお互いの為にもなるのではと考えたのでした。
私が辞めたい事を店長と社長に申し出ると、店長はただ一つ作業を淡々とこなす、
そんな感じの対応でした。

そして、私が辞める事から、簡単な送別会を兼ねた食事会を、
社長が開いてくれたのです。

その席で社長は「本当に残念だ、何かあったら相談に来なさい」と言ってくれました。
私は、有り難かったのと、仕方が無いか、と思ったのとで、複雑な心境でした。

その後に、その時の社長の言葉が、私をユースウェア会社から、
パソコンショップに転職する決意をする事になったのです。
結局、そのパソコンショップに再就職する事が決まりました。
社長の好意で私を採用してくれたのです。

その[31]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その29]

2015-09-20 06:37:36 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その29]」です。

社長から訓練を受けるように言われた私は、社長の「君をナンバー2としてみているから」という言葉と、
その訓練について、私は、出来るものならそのノウハウを吸収してやろうという、個人的な企みから、
その話を受けることにしました。

そして、1999年の2月のある日、私はその訓練を受けました。
社長からの命令によって、いわゆる「地獄の特訓」と言われる、経営幹部候補生向けの社員研修でした。
その訓練は、以前はDMP訓練と言われていた経営幹部候補生向けの、経営者養成訓練で、体力と精神力を鍛える訓練でした。
訓練の内容については、また別の機会に書きたいと思いますが、この訓練は、経営者としての心構えをある体験をする事によって、
得る事ができるというもので、それが得られるかどうかは参加者次第という、この訓練の向き、不向きが人によって違うので、
結果がどうなるかは、受けてみないとわからないというものでした。
結果、私の場合は訓練を受けた事によって、最終段階をクリアし、無事、訓練を修了する事が出来ました。

そこで、私は経営幹部としての社内での自分のあり方を、再確認する事になりました。本来なら、この訓練は、
まずはトップとなるべき人材が受講して、そのイズムを社内に反映させるという、重要な役割を担う事が求められます。
そして、その後に続く経営幹部候補生が、トップのイズムを実現する為に、全力でその任務を全うするという、
会社組織の運営に必要な、経営手法を身につけるというものです。

人間の本質をついたその訓練は、会社組織のような縦社会を作るのに、非常に有効な訓練となっており、
訓練の結果を生かすも殺すも、参加者次第なのです。結局は「覚悟」の問題です。

経営者の責任は、重大です。その企業が継続できるかどうかは、まずはトップの覚悟と責任にかかってきます。
正しい判断を求められる場面に直面した時に、経営者が判断を間違えると、最悪の場合、
倒産というとんでもない事が起こるのです。それを回避する為には、覚悟と正しい判断が求められます。
そのような気構えを鍛える為の訓練なのでした。

私は当時、社長からナンバー2として、この訓練を受けました。そして実際に受けてみて、社内の矛盾に気づいてしまう事になったのです。
それは今までうまくいっていた社長との役割分担が、社員が増える事によって、社長がトップとしての覚悟を持って、
経営にあたらなければならないのに、社長は営業に専念するという名の下に、「夜の営業」を続けていて、
社内の本当の姿が見えていなかったという、ある意味、経営に黄色信号が、灯ることになってしまった、という現実が、
私には見えてしまったのでした。

私は、深く考えました。これからどうすれば会社にとって良いのか、どうすれば良くなるのか、それを実行するためには自分自身、
何をすればいいのか、考えに考えを深めた結果、ある結論に至りました。それは、私がこの会社を去ることだったのです。

一度トップに不信感を抱いた私は、もう社長の片腕として協力することは、自分の信念から出来ないと痛感したのです。
そこで、私は社長に「仕事が出来なくなった」と嘘をついて、会社を辞めたい旨を、社長に伝えたのです。
社長はもちろん驚きました。社長に本音をぶつける訳にはいかなかったのです。社長は内心ムッとしていました。
しかし、私は、私が会社を去ることによって、社長に考えて欲しかったのです。

結局、私は辞めることを社長から渋々ながら了承され、その代わりに減俸を、辞めるまでの間言い渡されました。
私は、しかたないな、と覚悟をしていたので、それを了解しました。次の仕事を探さなくてはいけなくなった私は、
自分が自分であるために、これから何をすれば良いのか、深く考えました。その結果、私は以前3ヶ月だけ働いた、
パソコンショップで販売員として働いて、営業経験を積むことにしようと決めました。

その段階では入社できるかどうかはわかりませんでしたが、何故か私は、パソコンショップに、
どうしても入社したいと強く思い、そこを受ける事になったのです。
そして私は、社長に今の会社を辞めて、パソコンショップに勤める事を、話して、退職を認めてもらう事が出来たのです。

[その30]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その28]

2015-09-18 05:47:17 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その28]」です。

パソコンショップを辞めた私は、そこで出来た友人と2人で、出張パソコンサポートサービスの、
個人事業を始める事にしました。基本的な準備は私が1人で行い、人手が足り無い時に、友人にお願いする、
という事で、始めようとしていました。しかし、友人が奥さんに反対された為、結局、私一人で、
スタートする事にしたのです。

屋号を考えて、法務局へ商号登記をし、税務署へ開業届を出しました。
私はチラシと名刺をパソコンで自作し、チラシを辞めたパソコンショップに置いてもらう事にしました。
チラシは20枚作って、反応は1人のお客様が、頼もうか検討中という、そんな状況でした。
私は、これは市場があるな、と思いました。
実際には、私の以前勤めていた、ジーンズショップの社長さんから、メンテナンスの依頼を受けただけでした。
結局、売上はこの1件だけになりました。

私は、このままでは続けても赤字が続くと判断して、再就職をすることにしました。
再就職先はハローワークで紹介された、私の住む町内にあるユースウェアの会社でした。
ユースウェアとはハードウェア販売とソフトウェア開発とサポートサービスを行う会社です。
パソコンを使えるようにするまでと、使いだしてからのサポートを事業として行っていました。

これはシステムエンジニアとプログラマー、パソコンメンテナンスサポートの仕事を一つにしたものです。
私は、面接で、個人事業を開業して、辞めたことなどの顛末を話しました。
すると社長さんは、面白いと言ってくれて、結局採用が決まりました。

私はその会社で3年ほどお世話になることになりました。
社長さんが営業を担当し、お客さんを取ってきて、私が技術開発を担当し、アプリケーションの開発や、
サポートを担当しました。

1年目はうまくいっていました。役割分担がうまく出来ていました。
2年目になると2人仲間が増えました。1人はこれからプログラミングを覚えるという若い人で、
もう1人は、アプリケーションの開発の経験がある人でした。
この4人と社長の奥さんを合わせた、5人体制で会社を運営していました。
私たちは2年目まではうまくいっていました。
3年目になると、私は社長に対して少し不信感が出てきたのです。それは、社長は営業という名目で、
夜の接待を頻繁に行っていました。いわゆる飲み会でお客さんを取っていたのです。

確かに役割分担としてはそれが妥当だったのですが、社長がほぼ夕方には出かけて、夜中まで接待をして、
朝は10時過ぎに出社するという、社内に目が届かない状況になっていました。
それが、しばらく続くと、私はスランプに陥ったのです。システム開発が思うようにいかなくなりました。
開発の効率が下がってしまい、スケジュールは伸ばし伸ばしになってしまったのです。

これには社長もなんとかしないといけないと考えていました。
そこで、新しいお客さんを私に紹介しました。私はお客さんの元へ伺いました。
そこでは、社内のシステム全般を私たちの会社に任せるという話でした。
ただ、一つだけ条件がありました。それは、社長がある訓練を受けることだったのです。
しかし、社長はその訓練を受けたがらないのでした。そこで、私にその役目が回ってきたのです。

[その29]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その27]

2015-09-15 05:43:50 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その27]」です。

ある日、有給消化の為、ジーンズショップを辞めた私は、いつもよく行く書店へと、
本の立ち読みに行きました。すると、その隣の土地にある看板が出ていました。
その看板は1996年4月にパソコンショップがオープンするというもので、
私は、その看板を見て連絡先をメモに取り、気が付いたら面接の問い合わせをしていました。

家電量販店の就職が決まっていた私ですが、自分の好きで得意なパソコンのショップが出来ると知って、
いてもたってもいられなかったのです。

面接を受けに徳島へ行きました。そこでは社長が面接してくれました。
そのショップの雰囲気がなんとなく気に入りました。
そこで、ショップのオープニングスタッフとして面接を受けました。
結果は1週間後に電話で連絡してくれることになっていました。

1週間後、結果が出ました。合格でした。

私は、家電量販店の採用を辞退して、パソコンショップに、
正社員見習いとして、3ヶ月の試用期間に入ることになったのでした。

その後、パソコンショップのオープニングスタッフとして雇われた私は、
開店準備から立会い、オープン初日までの間、接客研修を受けて、
オープンの準備をしていました。

その新店舗では、新しく徳島本部で勤めていた、若い店長が店を管理することに、
なりました。また、私はそのショップでは、一番の年長者で、
みんなから「長老」と呼ばれる事に、なったのです。

ショップのオープニングスタッフになる経験なんて、そうそうあるもんでは無いです。
私は本当に忙しく、しかしとても楽しく仕事をする事が出来ました。
なぜならば、私の得意分野であり、趣味でもあるコンピューターの販売をする、
という経験は、以前ジーンズショップで社内システムエンジニアとして働いていて、
たまにジーンズショップのレジスタッフとしても手伝いをしていた私は、
販売員の仕事の楽しさを知っていたので、ファッションには疎かった私ですが、
得意分野のパソコンを、お客様にその楽しさと、活用方法を提案しながら、
販売できるこの仕事をずっと続けたいと思っていました。

しかし、3ヶ月を経過した頃、店内のPOPをリニューアルする作業に入った時に、
その時の若い店長から、「僕が社長に怒られるから作業をして」と、
口癖のように「僕が社長に怒られるから」と連呼していた事から、
私はそれは違うのでは無いか、お客様の事を第一に考えた仕事をしないと、
ダメなのでは、と店長に対して不信感を募らせていったのです。

仕事は「考えて」やるのであって、「自己保身の為」にやる事では無いと、
私は常々この店長に対して思っていて、店長としてあまり適任では無いな、
と思っていました。

そんなある日、社長から一通のFAXがショップに流されてきました。
そのFAXには、それまでに作ったPOPとは大幅に変わった内容に、
変更する事を指示して来たのです。

私を含めて、みんなで考えていた最初の案の方が、お客様にとっては、
解りやすいPOPである、と考えていたのがほとんどで、店長以外は、
みんな考えて仕事をしていたのです。

店長は自分では考える事は一切しないで、二言目には「めんどくさい」と言って、
私たちに社長の指示を丸投げにしていたのです。
こんな店長では誰も下に付いてこないです。

私は年長者として、店長のいい加減さに呆れていました。
あまりにも店の事情を何も考えないで仕事している、というか作業している、
店長に、業を煮やした私たちは、社長に相談する事にしたのです。
その対応を私がやる事になりました。

そして、徳島の本部に行く機会のあった私は、社長に店舗の状況と、
店長の仕事の仕方について説明し、相談したのでした。

すると社長は、「解った、それなら君が店長をやらないか」と提案して来たのです。
私は、「しばらく時間をください」とその場での即答はしないで、店へと帰ったのです。
これは一つのチャンスでもありました。

しかし、当時、私はパソコンショップの店長としての経験がほぼ無いので、
自分の実力では足手まといになる、と考えて、結局断ることにしたのです。

その事実を知った店長は、私と意見が対立するようになりました。
一つの店に二人のリーダーがいる事になってしまう事に、私は悩みました。
そして、一つの結論を出す事にしました。

それは、私がショップを辞める事、だったのです。
その方がお互いの為にもなるのではと考えたのでした。

私が辞めたい事を店長と社長に申し出ると、店長はただ一つ作業を淡々とこなす、
そんな感じの対応でした。

そして、私が辞める事から、簡単な送別会を兼ねた食事会を、
社長が開いてくれたのです。
その席で社長は「本当に残念だ、何かあったら相談に来なさい」と言ってくれました。
私は、有り難かったのと、仕方が無いか、と思ったのとで、複雑な心境でした。

[その28]に続きます。

70億人が幸せになる方法[その26]

2015-09-13 05:45:19 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その26]」です。

人身事故を起こして、相手から恐喝まがいの事を受け、結局、工場を辞める事になりました。
刑事処分は、結果、相手から脅された事もあり、また解決金を払った事もあり、不起訴になりました。

私は、仕事も辞めた事で、次の仕事を探しました。
職業安定所で隣の市のジーンズショップのオフコンのプログラマーとして募集のあった求人を、
私は受ける事にしました。面接を受けて、合格しました。時は昭和の終わりでした。

年明けの1月8日から出社する事になっていたのですが、なんと、その時は昭和から平成へ変わった日の翌日だったのです。
元々このジーンズショップでは、社内の販売管理システムをオフコンで構築しており、それを作った人が辞めるという事で、
求人を出していたそうです。私はその人の後任となっていました。

引き継ぎのために1ヶ月、色々教わりながら、コンピューターに関する色々な仕事をする事になりました。
その会社では、ジーンズショップを数店舗運営しており、店舗ではパソコンをレジ代わりにして、POSデータを取っていました。
そして、データを電話回線でコンピュータ室のある、レディスショップの2階でデータを集めて、オフコンで集計するという、
自社開発のPOSシステムを昭和の終わりに独自構築していたのです。

私はパソコンとオフコンの両方を同時に面倒をみる事になりました。これが結局その後の私の仕事である、
システムエンジニアにつながっていくのです。

とにかく、コンピューターの事に関してはなんでもやりました。社長が私の直属の上司です。
初めは私と、先輩と社長の3人でPOSシステムを運営していました。先輩が結局3ヶ月私に付いて、仕事を教えてくれ、
なんとか引き継ぎを終わらせる事が出来ました。

私と社長だけの部署になったのです。そのうち、プログラマーから、自然と社長のやりたい事を実現するための、
相談相手として、当時の最先端の技術をその会社で学ぶ事が出来ました。
LANの出始めの頃の構築や、パソコンの機種の統一、BASICで書かれたシステムをC言語にバージョンアップしたり、
オフコンのリプレースで、私の以前の衣料品問屋の汎用機の流れを汲む、IBMのAS/400へのリプレースなども、
提案して、実現しました。最終的にはWindows95のパソコンにMicrosoftのAccessを導入して、POSシステムの、
データベース処理を、パソコンで行う事になりました。
これで一区切りがつく頃には私は30歳を迎えようとしていました。
この会社が今までで一番長く勤めた会社となったのです。

私が28歳の時にある大きな出来事が起こりました。それは阪神淡路大震災でした。
その震災のショックから、私は今後どう生きるか、色々と考え始める事になったのです。
数年後には30歳になるので、その時に何をしていたいかを考えた時、私は高校からの夢だった、
システムエンジニアとして、自立したいと思う様になりました。その為のスキルアップに、
ソフトウェア開発専門の会社に転職したいと考えていました。しかし、私には営業のスキルがありません。

ジーンズショップで店員のお手伝いをした時に、接客の楽しさを知り、商品知識の無さを痛感していました。
私は、自分の好きな家電の量販店へ転職を希望しました。そして、その旨を社長に相談したところ、
夢があるのならなってみたらいい、何かあったら相談に来て、と言われ、私はシステムの開発が、
一段落した頃に、会社を辞める決心をしたのでした。

そして、当時私が住んでいた市の隣の市の家電量販店を職安で紹介してもらって面接を受けました。
結果は合格でした。私は4月からその家電量販店に勤める予定で、それまでの間、少しの休みをもらう事になりました。
有給休暇の消化です。

その時にある一つの出会いがあったのです。

[その27]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その25]

2015-09-11 07:08:38 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その25]」です。

人身事故を起こしてから1週間後、1本の電話がかかってきました。
相手は事故の被害者のおじさんで、口頭一番に、「お前は何をしとんじゃ!」と怒鳴ってきたのです。
私は、何事かと思いました。すると続けて、「1週間も挨拶にもこんのはどういう事や!」とまた怒鳴るのです。
私は怖くなって、「どういう事でしょうか」と聴くのが精一杯でした。

すると、そのおじさんは「お前は責任についてどう考えとんのじゃ!」と立て続けに怒鳴るのです。
私は「責任ですか」と答えて、どうしたらいいか色々と考えを巡らしていたのです。
すると、おじさんは「道義的責任をどう考えとんじゃ!」と私を脅すように怒鳴るのでした。
私は、交渉は直接やらないようにと保険屋さんから言われていたので、その旨を伝えました。
するとおじさんはさらに怒って、「お前んとこの保険屋はあれから1度もこんぞ、どうなっとるんじゃ!」と、
さらに怒りはヒートアップしていくのでした。私は、「保険屋さんに聴いてみます」と答えるので、
精一杯でした。そして、その場は電話を切りました。

そして、私の担当している保険屋さんに電話をすると、かかってきた電話の内容を説明して、
相手がすごく怒っていると伝えました。すると保険屋さんは、
「これから3回コールして電話を1回切って、またかけるのが合図で電話するからそれ以外の電話は取らないように」と、
私に言ってきました。どうやら、これは相手と連絡を取らないようにさせるための指示でした。
私はそれに従って、その保険屋さん以外の電話を取らないようにしていました。

それから1週間が経った頃、今度はそのおじさんが、実家の島の祖母に電話をしてきたのです。
どこで番号を調べたのかわかりませんでしたが、祖母にも脅すような事を言ってきて、
祖母からは「ヤクザに係わっとるんか」と言われました。わたしは、すぐに保険屋さんに連絡をとりましたが、
中々捕まりません。実はこの保険屋さん個人で代表をしている代理店の代表者でした。保険会社は富士火災保険で、
当時は保険会社は代理店に交渉の全てを任せていたのでした。
なので、この保険屋さんの対応ひとつで、解決までの全てが決まるのです。
後から聞いた話では、この保険屋さんは、相手を焦らして、保険を使わせない為にワザとそうしていたようです。

それからもおじさんの電話攻撃は職場にもかかってきたのです。
職場へは「お前んとこの従業員はどうやって選んどんじゃ!」と怒鳴り込んできたのです。
それを知らされた私は、段々とストレスから食事が食べられなくなってきました。
食べても吐いてしまうのです。
そんな状態が1ヶ月も続くと、2交代の工場の仕事にも支障をきたしたのです。

ある日、胃が痛くなって、当時父が入院していた病院で診てもらう事になりました。
胃のバリウム検査をしたら、胃が蜂の巣のようになっていて、先生から、このままだと死ぬよ、と言われました。
私はその病院に入院することになったのです。精密検査で人生初めての胃カメラを飲みました。苦しかったです。
検査の結果は胃と十二指腸に潰瘍が出来ていたのでした。その為に3ヶ月入院する事になりました。

すると、なんと、その病院にも例のおじさんから電話が私宛にかかってきました。本当にしつこかったです。
開口一番、おじさんは「逃げとるんじゃない!」と怒鳴ってきました。私は「保険屋さんが交渉はしないでと言っているので」と言っても、
全く聞く耳を持ちません。それどころかさらにエスカレートして「いつまでかかっとるんじゃ!痛い料だせ!」と恐喝してくるのです。
父が電話を変わり、父とそのおじさんとでバトルが繰り広げられました。電話を切った父は、相手はヤクザか、と聞いてきました。

朝日新聞の新聞販売代理店の代表者をしていて、そのおじさんが怪我で休んだ分の休業補償と慰謝料と治療費を要求していると、
伝えました。すると父は、そんなの払う必要ない、何の為の保険屋なんや、と言っていました。
確かに保険屋の対応としては最悪の対応です。結局私は3ヶ月入院して、退院してからすぐに保険屋さんから10万円準備して、
と言われて、10万円を持って、相手の家に行って、保険屋さん立ち会いのもと、支払いを済ませると、
おじさんは何事もなかったように、「まあ、若いんやから、頑張って」と言って、その場を後にしたのです。
問題は解決しました。でもこんな保険屋は私は2度と使いたくないと思って、更新時に別の大手の保険屋に変えました。

時は1988年の12月になろうとしていました。

[その26]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その24]

2015-09-09 05:01:58 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その24]」です。

半導体製造工場に勤めていた私は、3ヶ月が経ったある日、夜勤明けに帰宅時に人身事故をおこしたのです。
それは、会社を出てすぐの道路で、県道の入り口にあたる交差点での出来事でした。
当時の私は18歳で免許を取ったのですが、名古屋でいた3年間に運転したのは3回ほどで、
香川に帰ってきてから通勤や移動の為の車を購入し、初心者マークをつけて乗っていました。
実際には当時のアパートから会社への通勤と、買い物の為の移動が主な用途でした。

香川では自動車がないと長距離を移動する手段が無いのです。公共交通機関が発達してませんでした。
私は、出来るだけ安全運転をするように心がけていましたが、その日は勤務から3ヶ月が経った事から、
もしかしたら少し油断していたのかもしれません。

その交差点は県道へと出る三叉路で、左側が建物に覆われており、左側の歩道側の見通しが悪かったのでした。
そこに、最低速で左右確認しながら県道へと出た瞬間、どん、と歩道を走っていたバイクと接触し、
ブレーキをかけましたが、1メートルほど県道にはみ出てしまい、バイクを少し引きずるようになり、
車は止まりました。私は、まずはバイクの運転手の状態を見る為に、あわてて座席から車外へと飛び出し、
バイクの運転者が生きているかどうか確認しました。

幸いな事に、その相手は、大声で「痛い痛い、救急車を呼んでくれ」と言って、私も救急車を呼ぶ為に、
電話を探していました。なんとか近所の家の電話を借りる事ができ、救急車を呼ぶ事が出来たのです。
その後、警察にも電話しました。

救急車でそこから一番近くの病院へとその人は運ばれていきました。私は、怪我の程度が心配で、
警察から事情聴取と実況見分をされている間も気が気ではなかったのでした。
それから、すぐに自動車保険の代理店に電話し、事故を起こした事を伝えると、夜勤明けだったので、
一度、アパートに帰って休んでから病院へ来てくださいと言われ、私はその指示に従いました。

幸いな事に車には前方のバンパーに少し傷がついたくらいで、私は恐る恐る、車を運転して、
なんとかアパートへたどり着きました。
そして、数時間、仮眠を取り、保険屋さんと一緒に病院へ向かいました。
これからどうなるんだろう、相手の人は大丈夫かどうか、など色々な事が頭に浮かびました。

病院に着いて、最初に相手の人の顔をはっきり見たのはそれが初めてでした。
ヘルメットをかぶっていたので、顔をはっきりと見ている余裕はなかったのです。
相手の人は入院し、ベッドに座っていました。打撲と擦り傷で済んだのです。
私は死ななくて良かった、と内心思いました。が、その瞬間、相手のおじさんが、
大声で、「お前ら、何しとったんじゃ!」と私たちを恫喝しました。
私は、これは大変な人に関わってしまった、と感じました。その後も、来るのが遅いとか、
何時間もほっとかれた、とか言われて、私は、大変な事をしてしまった、という事と初期対応に失敗した、
という思いから、「申し訳ありませんでした」と言うのが精一杯でした。

この相手のおじさんが、後々、色んな事を起こすのです。
その場では30分ほど怒られ続けましたが、保険屋さんの取り成しで、なんとかその場は収まりました。
最後には、握手までされました。私は、内心、ホッとしました。話せば分かる人だった、とこの時は思っていました。
それからアパートに帰って今後の事を保険屋さんと相談しました。
保険屋さんは相手と直接会ったり、交渉はしないでくれ、と言って何かあったら必ず私を間に入れて話すように、
と指示されました。
私はその保険屋さんを信頼していました。しかし、その保険屋さんも、これまた大変な人である事が、
後々判明するのです。
ともあれ、私は保険屋さんの指示通り、直接交渉はしない様にしました。
それから1週間経ったある日、1本の電話が私の元へかかってくるのです。

[その25]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その23]

2015-09-07 06:26:39 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その23]」です。

社会人になって、2年が経過しようとしている頃に私は退職の決断をしました。
そこで、退職の1ヶ月前に退職届を出して、退職する旨を会社と、寮の管理人さんに伝えました。
上司にも相談と報告をしていましたので、会社は退職届を受理してくれたのです。
上司に対しては名古屋の叔母さんの事が主な原因であるという事で、了解もしてくれました。
パワハラを受けていた上司ですが、私と上司の関係は良好でした。月に一度は食事に誘ってくれたり、
名古屋の叔母さんの事で相談にも乗ってくれるほどでした。

元々、私が就職についたのが名古屋の叔父さんである、会社の部長が私をねじ込んでくれたのですが、
名古屋の叔父さんと部長の関係は良くなく、無理やり採用した私に強く当たっていました。
パワハラをしていたのです。しかし、2年目になると私の仕事ぶりを認めてくれたのでした。
それからは、私がシステムエンジニアになる為の仕事を任せてくれたり、経験を積むという事では、
大変お世話になったのです。
その上、月に一度は昼ごはんを一緒にする事があり、私の愚痴を聞いてくれたりもしました。
いつの間にか、上司は私の良き理解者となってくれたのでした。
その場で私は会社に無理やり入った事や、名古屋の叔母さんから嫌がらせを受けている事や、
ねえちゃんと呼んでいる父の妹の叔母さんに世話になっている事なども話していました。
今思うと私の社会人経験には無くてはならない重要な方だったと痛感しています。

その上司にも会社を辞めたいと言った時、驚かれましたが、名古屋の叔母さんが主な原因で、
もう部長の世話にはなりたくないという事を正直に話すと、残念だ、と言われましたが、
なんとか私が退職する事を了承してくれたのでした。

そして、寮では私のささやかな送別会が開かれて、退職の準備をしていた時に、
部長の叔父から、副社長がNOと言っているから、辞める事はまかりならん、と言われ、
もう1年、続ける事になったのです。
私は、この会社はおかしい、と強く思うようになりました。
実はこの会社、社長が代表責任者でしたが、実質的に経営をしていたのは副社長だったのです。
部長の叔父は副社長には逆らえなかったのでした。なので、私は送別会も開いてもらったのに、
また1年続ける事になってしまって、会社や寮ではうわさのお騒がせ社員として、
1年間過ごす事になったのです。この1年は本当に会社では針の筵でした。

結局私は3年勤める事になり、この会社でプログラマーとしての基礎と社会人の基礎を、
学ぶ事ができたのでした。
そして、3年が経った時に、会社を辞めて実家のある香川へと帰る事になったのです。
香川へ帰った私は、次の就職先をハローワークで探しました。
やっぱり、ものづくりに関わりたいと思い、高松の半導体工場を受ける事になったのです。
この工場には私の高校時代の友人がいました。3年も経ってるので、私の上司になります。
面接を受けた結果は合格でした。

それからは、12時間の2交代の工場勤務が始まりました。体が慣れるまで1ヶ月はかかりましたが、
当時は若さでなんとか、昼の勤務と夜の勤務をこなす事が出来たのです。
そして、3ヶ月が経過した夜勤明けのある日、またまたある事件が起きるのです。

[その24]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その22]

2015-09-05 06:42:23 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その22]」です。

そうこうしているうちに、2年目の春に、実家のある島の祖父が入院する事になりました。
病名は肝臓ガンでした。多分お酒の飲みすぎでしょう。
そして、1ヶ月が経った頃、突然危篤状態になったと連絡が会社にありました。
もしかしたら駄目かもしれないので、仕事が終わったら、名古屋の叔母さんの家に私と、
当時1年先に名古屋に中卒で働き始めた弟と従兄妹の3人で待機する事になりました。
翌朝、祖父は亡くなりました。

その後、私たちは島の実家に通夜と葬儀の為に、島に帰る事になりました。
島に帰って、通夜と葬儀を済ませると、私は会社が決算で繁忙期になっていたので、名古屋へと戻ったのです。

社会人として、2年目に突入した私は、上司からのパワハラと、名古屋の叔母さんからの、
執拗な干渉から、何とか逃れられないかと、色々悩み、会社を辞めたいと思う様になりました。

それ依頼、ねえちゃんと叔父さんに相談していましたが、もう暫く頑張ってみたら、という説得で、
もう1年会社を続けることにしました。しかし、私の環境は変わる事なく、むしろ悪化していきました。
私は精神的にも追いやられていましたが、ねえちゃんの家に遊びに行って、年少の従兄妹たちと遊んだり、
叔父さんに話を聞いてもらったりする事で、何とか耐えられていました。

しかし、その年のお盆に島に帰省した時に、父が仕事を長期に休んでいる事を知り、あんな父でも、
やっぱり心配になりました。父は今でいうアルコール依存症になっており、祖父が亡くなってから、
会社に行かなくなっていたのです。

親戚からは、もう、父の事は深く関わらない様にする、という状況になっていたのでした。
その当時、下の2人の妹達がまだ高校生で、あと数年は学費がかかるという状態で、
私は、当時の給料では仕送りも出来ない状態で、とにかく貯金だけはしていました。
ボーナスはほとんど貯金し、定期預金も月に9万円の残りのうち2万円を積み立てていました。
その上、名古屋の叔母さんから無理矢理生命保険に加入させられたので、手元に残るのは5万円ほどで、
そこから、先輩からほぼ毎月1万円を取られていたのです。

私はこの不条理な環境からなんとか抜け出したいとさらに強くなりました。
ねえちゃんと叔父さんに、この状況を相談していましたが、実はこの時、通帳を名古屋の叔母さんに、
預けさせられていたのです。私のお金を握られていたのでした。
そんな事もあり、私は実家に帰りたいと強く思う様になり、2年目のお盆に、実家に帰った時に、
父はお酒の飲み過ぎで肝臓を悪くして入院していました。実家の家計は未だに火の車でした。

そんな時に、幼馴染とたまたま再会したのです。その子は私が小学6年の終わりに、家庭の事情で、
大阪へと引っ越していった、たかちゃんでした。
再会したたかちゃんは綺麗になっていました。私はそれまで意識した事は無かったのですが、
夜に、一緒に花火をする事になり、そこで、色々な話をして、その時点で看護師になる為の学校に、
通っていることを知りました。

なんと、その時に、私は人生初の逆プロポーズされたのです。結婚して、と言われました。
私は驚いて、戸惑っていると、なんてね、うそうそ。と言われたのが、彼女を意識することになりました。
私はとりあえず、連絡先を交換して、文通することになりました。
名古屋に帰る時に一緒の新幹線で、2人だけでなんとなくいい雰囲気になったのです。
今思えば、とても甘酸っぱい思い出です。
彼女は途中の大阪で降りて行きました。手紙書くからね。と言葉を残し別れました。

その後、私が翌年の春に、会社を辞めることにしました。その前に、通帳を名古屋の叔母さんから取り戻し、
私が管理することになったのです。退職届を書いて、2年勤めあげた4月に辞めることになったのですが、
ここで、ある事件が起こるのです。

[その23]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その21]

2015-09-03 06:26:37 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その21]」です。

名古屋で初めて社会人として就職した私は、寮での居場所が無く、職場では上司から、
イヤミを言われ続けていました。その上、名古屋の叔母さんからは、心ない仕打ちを受け、
私の心の拠り所は、姉ちゃんの家に遊びに行く事と、先輩に悩み相談する事でした。

職場で非常にお世話になったのは5つ年上の先輩で、その先輩はとても優しく、
毎日昼食に2人で一緒に行く仲となっていました。
私は先輩に上司の愚痴とか、叔母さんの事とか色々仕事とプライベートの両方の話を、
聞いて貰っていました。本当にお世話になったのです。

この先輩がいなかったら、私は3年もこの会社にいなかったと思います。
私は3ヶ月で会社を辞めたいと思う様になりました。そこで先輩に色々と相談して、
説得され、助言を受けたのでした。

実はこの先輩、私が入社して配属された時から、昼食後に必ず近所の喫茶店に連れて行ってくれたのですが、
その時のコーヒー代を、何と3ヶ月もおごり続けてくれたのです。
当時の私は、社会人としての常識が無く、先輩にはおごってもらうのが、習慣となっていたのでした。
本来なら、おごってもらうのは初めのうちだけで、あとは割り勘で、私も支払うべきだったのですが、
そういった事に疎い私は、おごり続けて貰っていたのでした。

3ヶ月が経った頃、先輩から、実は小遣いが少ないので、そろそろ奢るのを辞めさせてもらっていいかな、
と言われました。私は、ハッと気づいて、今までおごられ続けていた事を、恥ずかしく思いました。
先輩は謝る私を、いいよ、いいよ、とやさしくなだめてくれたのです。
それ依頼、食後のコーヒーは割り勘にしました。そんな、とても面倒見が良く優しい先輩がいなければ、
私は心を病んでいたと思います。

それに、姉ちゃんがいなければ私が本音を吐き出す場所が無くて、これまた心を病んでいたと思います。
姉ちゃんの家族は、本当に家族みんなが仲が良く、今でも私の理想の家族です。
サザエさん一家のような、その場所は私にとっても、すごく居心地の良い場所となっていたのでした。

姉ちゃんもそうでしたが、叔父さんが本当に私の事を親身に思ってくれて、色々と相談して、
的確なアドバイスを受ける事が出来たのでした。
私は本当の父のような気持ちを抱き、この叔父さんには本当にお世話になりました。
この2つの居場所がなかったら、私はひとりで悩みを抱えていたと思います。

そして、私は会社で3年間を過ごすのですが、名古屋の叔母さんと、上司の嫌がらせ、寮での生活に、
嫌気がさして、1年で辞めたいと強く思ったのです。
その旨を先輩や姉ちゃん、叔父さんに相談していました。でも、もう少し頑張ったらと励ましを受けて、
私は、なんとか2年を勤める事が出来たのでした。

実際は、2年目になると、名古屋の叔母さんの嫌味や、過干渉に、私は本当に深く悩む事になるのです。

[その22]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その20]

2015-09-01 06:16:22 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その20]」です。

名古屋で就職した私は、2人の叔母に世話になりました。

非常に世話になった叔母が、私が「姉ちゃん」と読んでいた、丸島町に(仮名です)住んでいた、
丸島の叔母と親戚から呼ばれていた叔母さんと、私の入社した会社の部長でもある叔父の奥さんの、
これまた私が「名古屋の叔母さん」と読んでいた、丸ヶ丘に(仮名です)住んでいた、
丸ヶ丘の叔母と親戚から呼ばれていた叔母さんの2人から、世話になりました。

丸島の叔母は、私が休みの日には、ほぼ毎週の様に泊まりに行っていました。
それはとても居心地がよく、私の日々のストレスが癒される場所でした。
こんな家族を私も持ちたいと強く願う様になったのです。

丸ヶ丘の叔母は、初めのうちは月に一度くらい休みの日に泊まりに行っていたのですが、
ある事件を境に、数ヶ月に一度くらいしか行かなくなったのです。

その事件とは私の中で「泊まってく?事件」と読んでいる事件でした。
それは月に一度の丸ヶ丘へと泊まりに行く約束をしていた日の事です。
その日、いつもの様に寮に外泊届を出した私は、土曜日の夜に叔母の家へ行きました。
そこで、従兄弟と叔母と一緒に夕食を摂り、さあ、これから従兄弟と一緒に、
従兄弟の部屋でフリートークをしようとしていた時の事です。

叔母から、突然、「今日、泊まってく?」と聞かれたのです。
私はそのつもりで外泊届も出していたし、叔母の家に行く、という事は、
泊まりに行くという事だと、認識していました。
それが、この質問で、一瞬、私は何が起こったのか把握できなくなったのです。

私が「え、泊まってくって?」と聞き返すと、叔母はもう一度、私に質問してきました。
「どうする?泊まってく?」と聞かれた私は、しばらくの間言葉が出ませんでした。
これは、どういう事だろう?と色々考えた私は、ああ、もしかしたら従兄弟が受験勉強する為に、
私と一緒にいたらよくないと叔母が思って、私に泊まらないで帰れと言っているのだ、と理解するのに
5分ほどかかりました。

私は、それを察して、少し戸惑いながら、「う、うん。今日は帰るね」と答えるのが精一杯でした。
私は宿泊届も出しているし、今晩どうしよう、と考えながら帰りの地下鉄で考えあぐねていました。
寮の最寄駅についた私は、もう一人の丸島の叔母に公衆電話から電話して、
「丸ヶ丘の叔母さんから、今日、泊まってく?と聞かれて、駅まで帰ってきた」と伝えたのです。
すると叔母は、「じゃあ、今晩うちにきたら?」と言ってくれました。
叔母もてっきり私が丸ヶ丘に泊まってくると思い込んでいました。

私は、その足で丸島の叔母の家へと電車を乗り換え、向かう事にしました。
夜の8時を回っていたのですが、叔母は、私を優しく迎え入れてくれました。
そして、事の顛末を話すと、叔母は、「あの人はそういう人だから」と私に丸ヶ丘の叔母の実態を教えてくれたのです。

実は、丸島の叔母と丸ヶ丘の叔母の間は、仲が良くなかったのでした。その原因は丸ヶ丘の叔母の性格にありました。
丸島の叔母は、私と同じ島の出身で、以前にも書きましたが、私の父の妹です。
そして丸ヶ丘の叔母は、これまた私と同じ島の出身で、私の父の姉でした。

丸島の叔母は私と同じように、香川から名古屋の私の勤める会社に、叔父の紹介で勤めていました。
その後結婚して、旦那さんの実家にある、丸島へと住む事になりました。(以後、この叔母を丸島の姉ちゃんと呼びます)
結婚するまでの間は、普通なら会社の女子寮に3年ほど寄宿する事になるのですが、丸島の姉ちゃんは、
なんと叔母の家(部長の叔父の家)に居候する事になっていたのです。

丸島の姉ちゃんは、私と同じように初めの1日目だけは暖かく迎え入れてくれたそうですが、
翌日、部長の叔父が仕事でいなくなった時から、(部長の叔父は忙しく、朝早くから夜遅くまで働いていました、
その上出張も多くて家を留守にする事が多かったのです。)叔母の態度は一変しました。

何かにつけ丸島の姉ちゃんに干渉してくるのです。その上、家賃と食費という名目で少ない給料からかなりの額を、
受け取っていたのでした。
それ以来、丸島の姉ちゃんは、常に叔母から嫌がらせや小言を言われていて、非常に肩身の狭い思いをしていたそうです。
そんな事実を私はその日まで知りませんでした。

私のこの事件があってから、私は丸島の姉ちゃんと本当に仲良くなっていったのです。
また、姉ちゃんの旦那さんの叔父さんも、実は父より1歳下だったのと、人格が本当に素晴らしい人でした。
なので、私はそれ以来毎週のように、丸島の姉ちゃんの家へと泊まりに行くようになりました。

名古屋の叔母さんは、私に何かにつけ、「お前はおじさんに世話になってるんだから」と言って、
私に干渉してきました。私はそれも嫌で仕方ありませんでした。その上、今回のような仕打ちを受けた私は、
それ以来、名古屋の叔母さんとは距離を置いて付き合う事にしたのです。

もちろん従兄弟は年が一つ違いで、学年は二つ違いの私の上の妹と同級生だったこともあり、
仲良くしていました。この従兄弟ともウマがあったのです。
本当は従兄弟ともっと一緒にいたいと思って、名古屋の叔母さんの家に泊まりに行っていたのですが、
それ以来、私は足が遠のいていきました。

[その21]へと続きます。

ではでは。