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70億人が幸せになる方法[その10]

2015-08-02 07:02:03 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その10]」です。

家でも、学校でも居場所のなかった私は、今思うと当時、人間不信に陥っていました。

大阪時代は特に何も考えないでお気楽に過ごしていたのですが、
香川に来た頃から、私は色んな体験をする中で、常に周りの顔色を伺い、何かあると嵐が過ぎ去るのを待つ様な、
子供らしさを無くした生活を送っていました。

ちょうど、いじめが始まった頃から、私と弟はおねしょをする様になったのです。
小学校に入ってから、小4になるまでおねしょなんてした事がなかったのに、
島に来てから急に数日に一回はおねしょをする様になってしまったのでした。

今思うと、多分母親がいなくなり、生活環境が変わった事によるストレスから、
おねしょをする様になったのだと思います。

当時はおねしょがあまりにひどいので、祖母が無理やり私たち兄弟を鍼灸所へ連れて行き、
お灸治療を無理やり受けさせられました。

私たちはその治療が苦痛で仕方ありませんでした。だって、お腹とお尻と足の親指にもぐさを据えられて、
その熱さに耐えなければならなかったのですから。

結局、おねしょは私が小学6年になるまで2年以上続いたのです。
本来なら小児精神科で治療を受けなければならなかったと思います。

その上、家では基本的に祖母から「タダ飯喰らいはさせん」と言われて、やった事もない家事を小4でさせられていたのです。

当時、島の家ではお風呂は五右衛門風呂で、風呂焚きから教え込まれ、洗濯、食事、掃除などの家事全般を、
子供達にさせていたのでした。

今思うと、それは辛かったのですが、独り立ちするには良い経験となりました。今では感謝しています。

母親がいないという事はそういう事だと、心の奥に刻みつけられたのでした。

家ではこき使われ、学校ではいじめられて居場所がなく、本当に私は精神的に追い込まれていました。
こんな生き地獄の様な環境から、どうにかして抜け出したいと強く願う様になったのです。

そこで私は自分に手に職をつけて島を出て働きたいと考えました。とにかく環境を変えたかったのです。
そのために私は自分がやりたい事で仕事をして独立したいと思う様になりました。

当時の私の夢は、第一希望は技術者、第二希望は料理人、第三希望は漫画家になることでした。
それぞれ自分が好きな事で、なりたい順番を付けるとこういう風になったのです。

技術者は小さい頃からの夢で、人が乗れるロボットをつくりたいと思っていました。
料理人は家で家事をやるうちに料理作りに目覚めたからで、初めは苦痛でしたが段々好きになったのです。
漫画家は当時私は、絵を描くのが好きで、暇があったら空想を膨らませて、色んな絵を描いていました。

こんな私でも、夢があったから、なんとかその当時のひどい環境を耐える事が出来たのです。

もちろん、それだけではありません。私の環境も少しづつ変わっていったのです。

[その11]に続きます。

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