えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その17]」です。
工業高校に通っていた私は、進路について色々と考えていました。
高校2年生の時に自分がなりたいことを発表する会が授業の一環で行われました。
私はその時「システムエンジニアになる」という夢を発表しました。
その発表会では私のいた設備工業科以外にも電気科や電子科、建築科など各種の専門科の生徒の前で、
発表することになっていました。
私の通った設備工業科は基本的に給排水設備工事を設計したり実施したりする科でした。
しかし当時、学習指導要領が変更になり、在校生はすべての科の実習を横断的に行うことになっていました。
そのため私は機械、設備、電気、電子、化学、土木、建築の7つの工業科の実習を一通り、
さわりだけですが行いました。就職に役立つと思われていたからです。
発表した時に他の科の生徒が、設備なのにシステムエンジニアになれるはずも無い、と笑われました。
その時はまた恥ずかしくなって顔を真っ赤にしていましたが、同じ科の友人たちは、
頑張れと応援してくれました。持つべきものは友ですね。
私はその時から具体的にどのようなスキルを積めば、設備科でもシステムエンジニアになれるか、
色々と考えていました。とにかく学校を卒業したら早く社会人として独立したかったのです。
当時、一番手っ取り早い方法は、ソフトウェアハウスと呼ばれていた開発会社に入社して、
プログラマーになることが近道でした。
けれども、私のいる設備科には、それらの求人はありません。
なので、まずは工場の生産工程を行う会社に就職しようと考えていました。
しかし、高校3年生の時に、叔父が勤めている名古屋の繊維問屋の会社で、
コンピューター室の部署があるからこないか、と誘いを受け、私はそこに就職することになったのです。
いわゆる、コネ入社でした。
叔父は奥さんが私の父の姉で、当時はもう一人のお母さんのような気持ちを抱いていた人でした。
しかし、この叔母が、後でとんでもない人だということが分かったのです。
ともあれ、私は高校3年の秋には、進路が決定したのです。
ここから、私がコンピューターを仕事にするという後々の基礎が始まったのです。
[その18]に続きます。
ではでは。
工業高校に通っていた私は、進路について色々と考えていました。
高校2年生の時に自分がなりたいことを発表する会が授業の一環で行われました。
私はその時「システムエンジニアになる」という夢を発表しました。
その発表会では私のいた設備工業科以外にも電気科や電子科、建築科など各種の専門科の生徒の前で、
発表することになっていました。
私の通った設備工業科は基本的に給排水設備工事を設計したり実施したりする科でした。
しかし当時、学習指導要領が変更になり、在校生はすべての科の実習を横断的に行うことになっていました。
そのため私は機械、設備、電気、電子、化学、土木、建築の7つの工業科の実習を一通り、
さわりだけですが行いました。就職に役立つと思われていたからです。
発表した時に他の科の生徒が、設備なのにシステムエンジニアになれるはずも無い、と笑われました。
その時はまた恥ずかしくなって顔を真っ赤にしていましたが、同じ科の友人たちは、
頑張れと応援してくれました。持つべきものは友ですね。
私はその時から具体的にどのようなスキルを積めば、設備科でもシステムエンジニアになれるか、
色々と考えていました。とにかく学校を卒業したら早く社会人として独立したかったのです。
当時、一番手っ取り早い方法は、ソフトウェアハウスと呼ばれていた開発会社に入社して、
プログラマーになることが近道でした。
けれども、私のいる設備科には、それらの求人はありません。
なので、まずは工場の生産工程を行う会社に就職しようと考えていました。
しかし、高校3年生の時に、叔父が勤めている名古屋の繊維問屋の会社で、
コンピューター室の部署があるからこないか、と誘いを受け、私はそこに就職することになったのです。
いわゆる、コネ入社でした。
叔父は奥さんが私の父の姉で、当時はもう一人のお母さんのような気持ちを抱いていた人でした。
しかし、この叔母が、後でとんでもない人だということが分かったのです。
ともあれ、私は高校3年の秋には、進路が決定したのです。
ここから、私がコンピューターを仕事にするという後々の基礎が始まったのです。
[その18]に続きます。
ではでは。