ガジェットがいっぱい。

私が気になる「ガジェット」をチェック!オブジェクトの種類は問いません。気になる物は、手当たり次第にピックアップします。

70億人が幸せになる方法[その42]

2015-11-30 05:47:04 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その42]」です。

70億人が幸せになる方法と題して、書いてきたこのブログも、
そろそろ終わりにしたいと思います。

70億人が幸せになる為には、70億通りの生き方がある、という事を、
認識しないとダメだと私は考えています。

人はそれぞれ違った生き方をしています。それはみんな違っているのが当たり前で、
一人一人の進むべき道はみんな違っていいのです。

このブログでは70億分の1の私の生き方について書いてきました。
子供の頃から現在に至るまでの、本当に拙い文章でしたが、私の場合はこうだった、
というだけのものです。

執筆時点の現在、私は個人事業を開業したばかりで、まだ何の成果も出していません。
しかし、私には夢と希望があります。

年齢的にはあと17年ほどで、65歳になりますので、まぁ、70歳まで現役で働いて、
どれくらい収入を得られるかはわかりませんが、私の野望が達成した暁には、
多分、会社を経営しているだろうと思われます。

自分の進むべき道が大体見えてきたので、それに向かって一歩づつ進んでいこうと思います。

まずは資本を作ることから始めようと思います。
その為に、私の計画をコツコツと進めていきます。

その進捗状況は、随時「社長への道。」ブログで書いていきたいと思います。

このブログ「ガジェットがいっぱい。」は個人的に思ったことをつらつらと書いてきました。
今現在、2つのブログを書くのが結構大変になってきているので、
今後はメインを「社長への道。」にシフトしていきます。

このブログはしばらく残しておいて、もしかしたら私が老人となった頃に、
再開するかもしれません。

という訳で、今回で一旦終了と致します。

長い間お付き合い頂きまして、ありがとうございました。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その41]

2015-11-25 09:17:32 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その41]」です。

以下は2000年の初めにパソコンショップで、ホームページ作成の、
パソコン教室を開くにあたり、私がHTMLの使い方を覚える為に作った、
私個人のホームページの内容を抜粋しています。

当時、「君のこころはどう?」というタイトルで作ったホームページでした。
以下はその内容を一部書いています。

アダルトチルドレンについて

今まで、その言葉は聞いたことがある、という程度だった
「大人になり切れていない、子供のような大人のこと」ぐらいしか知らなかった

つい、最近私もその言葉の意味と、自分がそうであることを自覚した

アダルトチルドレンとは、元々の語源はアダルト・チャイルド・オブ・アルコーリックスという
大人になったアルコール中毒者の子供(子供たち)ということだった

また、その中でアダルトチルドレンは13の性格的な特徴を持つということだった
まさに、自分が、その13項目にドンぴしゃりと当てはまったのである

その13の特徴とは・・・(以下アダルトチルドレンをACと略します)

1.ACは何が正常かを推測する(「これでいい」との確信が持てない)
2.ACは物事を最初から最後までやり遂げることが困難である
3.ACは本当のことを言った方が楽なときでも嘘をつく
4.ACは情け容赦なく自分に批判を下す
5.ACは楽しむことがなかなかできない
6.ACはまじめすぎる
7.ACは親密な関係を持つことが難しい
8.ACは自分にコントロールできないと思われる変化に過剰に反応する
9.ACは他人からの肯定や受け入れを常に求める
10.ACは他人は自分と違うといつも考えている
11.ACは常に責任をとりすぎるか、責任をとらなすぎるかである
12.ACは過剰に忠実である。無価値なものとわかっていてもこだわり続ける
13.ACは衝動的である。他の行動が可能であると考えずにひとつのことに自らを閉じこめる

ジャネット・ウォイティッツ(ACOAの特徴)より

今まで、何となく感じていたこと、「生きづらさ」、中学生ぐらいの頃から、人(他人)に対する
物の見方が、変わらない「自分に対して、敵か味方か」(極端だねぇ)

自分というものに対して、自信というか、存在していてもいいのかな、と常に疑問に思うこと
死にたいとは思わないが、自分の「居場所」がここでいいのか、不安になる

他人から、否定的なことを何か言われるとへこんでしまう
(今でも、ちょっとした事ですごく落ち込んでしまうときがある)

周りの人たちから、「なんで、そんなことにこだわるのかわからない」とよく言われる

自分には、出来ない、難しいことでも、「出来ない、難しい」と言えない

何でだろう・・と常に思うのだが、「自分は、普通の人と違って変わってるから」と考えてしまう
などなど・・・・

自分が、アダルトチルドレンであることについて、まだどう向き合えばいいのか模索中である

以上が、2000年当時の私が書いたホームページの最初の文章でした。

今思うと、あの頃初めて自分自身が、アダルトチルドレンだという事を、
自覚したのでした。現時点でも模索中ですが、今後どう生きていくかは、
はっきりとした目標が見つかったので、それについてやってみようと決意したのです。

それは、自分が育った瀬戸内海の島に産業を起こす事です。

実は実家に土地があり、今は空き家で、本来なら長男の私が後を継ぐのですが、
色々あった為、今は叔母が管理しています。

今年から個人事業主として準備を始めたので、それを軌道に乗せて、
数年以内に島の実家の土地を買い戻そうと考えています。

そして、そこにアプリケーションの開発拠点やサーバーの製造拠点を、
作ろうとしています。

出来るかどうかはやってみないと分かりませんが、やってみたいと思います。

[その42]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その40]

2015-11-19 07:32:20 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その40]」です。

私はアダルトチルドレンです。これは一生付いて回る問題です。

まずはアダルトチルドレンについて、私が初めて知ったのは、パソコンショップで、
お客様にホームページを作るソフトの使い方を教える事になり、その為の調べ物を、
ネットでしていた時にたまたま見つけたホームページが、アダルトチルドレンの事を、
書いていたページを読んでみた時から、私自身がアダルトチルドレンであると、
自覚した事から、今まで自分自身がなんで、自分はこんな性格なんだろうと、
常日頃感じていた事が、すべて、このアダルトチルドレンという言葉で説明できる、
と感じました。

アダルトチルドレンとは、本来ACOAと呼ばれるアルコール依存症の親を持ち、
そこで育った子供たちが、生き延びる為に、子供なのに精神が大人にならざるを得なかった、
そんな人達の事です。実は私も機能不全家庭で育ちました。

私の場合9歳の時に、両親の離婚で、父の実家である瀬戸内海の島に移住した、
その頃からの生活が主な原因となったのです。

引っ越して、数ヶ月は父が、離婚の話し合いの為に私の生まれた大阪へ行っており、
当時借りていた市営住宅の引っ越し手続きなどに、父が一人で作業をしてました。
その間、私たち4人兄妹を面倒見てくれたのは祖母でした。

引っ越しした初日はまるで夜逃げのように夜の最終便のフェリーで島へと渡り、
そのまま父の実家に連れて行かれました。

その夜は親戚の叔母がカレーライスを作ってくれていました。
当時の私たちにとってカレーライスはご馳走だったのです。

未だに私はカレーにはこだわりがあります。

翌日から私たち兄妹と祖母と祖父の生活が始まりました。

祖父は物静かな優しい人で、当時は岡山へ出稼ぎに出ていました。
祖母は、島の中にある国民宿舎で職員として働いていました。

祖母から、「ウチは働かざるもの食うべからず」と言われて、家事全般を子供が、
やる事になったのです。当時、9歳だった私がまず初めに家事を覚えさせられました。

食事の支度や、掃除のやり方、洗濯、風呂焚き(当時の実家は五右衛門風呂)、
など、一通りの家事をやらされました。当時は嫌々やっていましたが、
料理を作っていると段々と楽しくなってきました。

そんなこんなで、私が先頭になって、あとの兄妹へと私が家事を教える役目も、
行っていました。

そんな折に、父が大阪から帰ってきて、島に当時あった車海老の養殖場に、
勤める事になりました。父は初めの3ヶ月くらいは真面目に仕事をしていました。

しかし、年が明けて、春になった頃から、段々とお酒を飲むようになったのです。
元々、父は下戸でした。しかし、今思うと寂しさを紛らわす為に、お酒へと走っていったのです。

段々酒量も増え、しまいには朝からお酒を飲んでそのまま仕事に出るようになりました。
そのうち、私たち子供に、酒を買ってこい、と命令するようになりました。

それ以来、父はお酒が入ると、鬼のようになり、お酒が抜けると大人しくなる、
という事を繰り返していました。

段々、父から暴力を振るわれるようになったのも、この頃からでした。

酔っ払っては何度も包丁や灰皿を持ち出して、私たちに灰皿を投げつけたり、
包丁を突きつけたりするようになりました。

父はアルコール依存症へと突き進んでいったのでした。

その父の元で育った私たちはそれぞれ、父に捨てられないように、兄妹それぞれが、
それぞれの役目を自然と受け持つ事になりました。

私は長男として、とにかく下の兄妹を守る為に、父に対して「小さな親」を演じました。

弟は、「ピエロ」で道化を演じ、上の妹は「世話役」として下の妹を世話する役を、
一番下の妹は「マスコット」役を演じていました。

それでも当時の周りの大人たちは、特に祖母は「ふがわるい」が口癖で、
みっともない、という事で、家の事は隠す様にしていました。

しかし、そこは小さな島で、噂はたちまち島中に広まっていきました。
「あそこの家はオカンに逃げられた家や」とひそひそ話をされていました。

それでも時は過ぎていきます。状況が少しずつ変わっていきました。
私は相変わらず、「小さな親」を演じていました。

「ピエロ」だった弟は中学生になるとグレ出したのです。「スケープゴート」へと変わり、
祖母に反抗する様になりました。上の妹は「ロストワン」へと変わり、
変わらなかったのは一番下の妹だけでした。

父は一番下の妹だけは特に可愛がっていました。それでもお酒を飲むと人が変わり、
私たち兄妹は4人ともその犠牲になったのです。

私はこんな家から、早く逃げ出したいと強く思う様になりました。

その為に、手に職をつけて、自立したいと小学6年生で思う様になり、当時は家で、
料理をする事が多かった私は、調理師になろうとしていました。

しかし、小さい頃からの夢だったロボット開発者になりたかったのです。
その為に中学生になった頃には、工業の高等専門学校に行きたいと思う様になり、
学力不足から工業高校へ進学を決めました。

私はなんとかギリギリで工業高校へと合格する事が出来たのです。

それからは島を出る為の準備を少しづつ、自分の中でしていきました。

一つ心残りは、私が島を出て独り立ちした後、残された妹たちがどうなるのか、
だったのです。

グレた弟は中卒で私より1年先に名古屋へと就職していきました。

私が高校2年の春でした。

[その41]へ続きます。

70億人が幸せになる方法[その39]

2015-11-18 05:20:31 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その39]」です。

私は現在うつ病を患っています。私の場合、いわゆる単極性うつ病といいます。
うつ病には私のようにうつ状態が主な症状の単極性うつ病と、うつ状態と躁状態を、
繰り返す双極性うつ病の2つがあります。

それ以外にもうつ病の前段階であるうつ状態という気分の落ち込みや気力が出ない、
疲労が蓄積する、夜眠れない、などの症状が出る事などがあります。

症例は例えば100人患者さんがいると100通りの症状があると言われるくらい、
個々人をよく診ないと、正確な診断が下せません。

以降、私の場合をお話しします。

私の場合、基本的な性格が真面目で、物事を深く考え、1人で抱えてしまうという、
祖母から子どもの頃、よく「お前はクソ真面目でクソ理屈をこねる」と言われてました。

そのような性格から、なにか問題が出た時に、すぐに私のせいではないか、
と考え込んでしまい、自分1人で悩んでしまうという傾向がありました。

小学4年の秋に母の失踪で、私たち4人兄妹は父の実家である、瀬戸内海の島に、
引っ越してきて、学校を転校し、私は転校生として島の小学校に入ったのですが、
この弱い性格から、いじめの対象になってしまい、それ以来人間不信に陥ったのです。

本来なら、親に相談するべき事ですが、我が家の状況はそれを許さない雰囲気を、
作っていました。誰にも相談する事が出来なかったのです。

それらの状況が重なり、私は小4から中3までの6年間、いじめに耐えるという生活を、
送ってきました。

その上、父からも虐待を受けていました。父はアルコール依存症で、
アルコールが入ると、人格が変わりひどい父になるのです。

そのひどい父は私たち兄妹に、しつけと称して、言葉での虐待と、暴力を受けました。
そんな環境で育った私たちは、兄妹全員、なにか心の内に闇を抱えて育ちました。
私たち兄妹はアダルトチルドレンだったのです。

アダルトチルドレンについてはまた別に1つ記事が書けるくらいなので、次の機会で。

そんな、機能不全家庭で育った私は、人の顔色を伺う、考え方も大人のような、
そんな子供だったのです。それが今の私のベースを作ったと言って間違いないです。

さて、うつ病についてですが、私の場合単極性うつ病で、症状としては、不眠症、
気分の落ち込み、体調不良、疲労蓄積などがあり、その二次症状として、
体の痛みがあります。主には肩や腰、背中などが痛くなります。

そのために今使っている薬は抗鬱剤と精神安定剤、神経伝達緩和剤、睡眠剤の、
4種類の薬を毎日、朝と夜と寝る前に服用しています。

この薬が今は私に必要なのです。これがあるおかげで、通常生活は送れています。
私は自炊をしているので、家事はひととおり出来ます。そして家事の合間に、
自分の収入を得るための勉強や作業を行っています。

今年から、個人事業を開業し、これから、アプリケーションを開発販売する事業を、
始めようとしています。具体的な事は、現時点で発表できるものはありませんが、
発表できる時点でこのブログでも発表したいと思います。

私の場合、年齢的なものと、定期的に平日通院し続けなければならない事から、
普通の会社には勤められません。なので、今までのシステムエンジニアの経験を、
活かして、AppleのAppStoreでMacやiPhone、iPadなどのアプリを開発して、
販売して利益を得ようとしています。

事業は継続していかなければなりません。私は将来的に、島に、会社を作って、
産業を興そうと考えています。現在、実家の島はいわゆる過疎地となっており、
そのままでいると限界集落になってしまうのです。

私は現在独身ですが、やはり、家族が欲しいので、そのためにも、この計画を、
成功させなければなりません。

無理せず、やってみて、続ける事が私に課せられた仕事なのです。

これを続けられると、独り立ちできると考えています。
できる範囲でできる事を最大限努力して、とにかくやる事が大事だと思っています。

[その40]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その38]

2015-11-17 05:19:10 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その38]」です。

私は現在、精神病を患っています。病名は「うつ病」です。私自身、この病気になって、
初めて知ることが色々ありました。

まず、はじめに精神病に対する私の最初のイメージは、昔の「気狂い病」という、
とてもネガティブなイメージしかありませんでした。

人が人で無くなる、人格が変わってしまう、という、病気になること自体、考えられない、
精神病にかかると隔離されて一生病院から出られない、などそんな一般的な考えです。

未だに、日本では精神病は語ること自体、タブーとされています。
これは精神病という病気自体を正しく理解し、啓発する活動が積極的に行われてない、
という日本の現状に問題があると考えています。

私自身、うつ病に罹ってから、自分の病気について色々と調べました。
インターネットや本などを何冊も買って、うつ病とはなんなのか、
精神病とは一体どういうものなのか、どうすれば治す事が出来るのか、などなど、
色々と調べ、学びました。

まずは、私が罹患した「うつ病」についてです。
うつ病には大きく分けて2種類のパターンがあります。いわゆる私が罹っている、
うつ病は気分障害の一つで、気分が落ち込む、やる気が出ない、体がだるい、
夜眠れない、という症状が1週間以上続く状態になると、うつ病と診断されます。

私の場合、仕事の激務から、体と心にプレッシャーがかかり、体が疲れて、
夜眠れなくなり、眠れないから翌朝も気分が落ち込み、その状態で仕事をして、
効率が落ち、また気分が落ち込み、帰ってきて寝ようとしても、色々と考えてしまい、
寝られなくなり、また疲れた状態で仕事を続けるという悪循環を続けた結果、
うつ状態が継続するという、負の連鎖を断ち切ることが自分自身では出来なくなる、
そんな病気なのです。現在は入院や通院で正しい生活リズムを取り戻し、
薬を使えば、症状を改善することが出来ます。

もう一つは双極性うつ病と呼ばれる、いわゆる躁鬱病というもので、私の中で、
子供の頃の精神病とはこの躁鬱病を、イメージしていました。

気分が落ち込んだり、その逆に高揚したりを繰り返し、最終的には人格が崩壊する、
というイメージがありました。
そうなるには治療を受けないで、そのまま放置しておくとそうなるかも知れませんが、
正しい治療を受ければ、これも薬でコントロールすることが出来ます。

それ以外にも色んな精神病がありますが、すべての精神病のうち、かなりの種類は、
現在、正しく診断し、正しい治療を受ければ、症状は良くなります。

もう、これは高血圧や糖尿病などのいわゆる持病の一つとして、上手に付き合う事で、
コントロールが可能なのです。ただし、無理が出来ません。なので、私は自分自身、
やれる事を出来る範囲でやる、という事を続けています。

もし、精神病で悩んでいる方は、なるべく早く、精神科の門を叩く事をお勧めします。
どんな病気でもそうですが早期発見、早期治療が重要です。

特に精神病は、自分自身がそれを認めないという事から、悪化させる事が多いのです。
精神科が苦手なら、まずは心療内科を訪れてみてはいかがでしょうか。

ただ、心療内科では、いわゆる身体症状をメインに診る所が多く、本当の治療の意味で、
心療内科では手に負えない事があります。診断も結構正確でない場合もあります。

最近は精神科の病院でも心療内科を設けている所もありますので、
最低でもそのような病院の診察を受けてください。精神保健指定医の認定を受けた、
病院なら、心療内科を掲げていても正しい治療を受ける事が出来ます。

科学の進歩した現代では、精神科は脳神経関連の異常が精神疾患を起こすと、
解明されています。精神は心ですが、医学的には脳神経が精神を形作っていると、
考えられており、心とは体験の記憶から作られた脳記憶の事だと私は考えます。

なので、精神科は脳みそ関連の病気という認識でいいと思っています。
自分自身では認識できない方が多いので、自分以外の第三者の意見も、
真摯に聞く事が重要です。まぁ、精神病に罹っている本人はその認識がないので、
家族や兄弟にまずは相談してみるのもいいかも知れません。

ただし、これも原因が家族や兄弟にある場合もあり得るので、やはり精神科を受診が、
正しい事だと考えます。

[その39]に続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その37]

2015-11-15 06:54:11 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その37]」です。

最後の会社を辞めて、その後、私は生活費を捻出するために、サラ金で借金をしました。
実は、社会保険事務所へ傷病手当の申請に行ったのですが、同じ病名だと、
2回目は認められない、ということになってしまい、苦し紛れに試しに近所の、
無人契約機で契約してみると、なんと50万円までの融資が受けられることが、
できたのでした。

それからは、生活費のために、借金をし、借金を返すために、また借金をするという、
今、冷静に考えると、ありえない状況に追い込まれて行ったのです。

そして、もう借りられなくなった私は、自家用車の最後のローンを払う為に、
気心の知れた車屋さんに、相談したのです。

すると、その車屋さんは、親身になって相談に乗ってくれました。
まずは、車の借金を返す為に、今乗っている車を売ってお金を作り、
それで車のローンを払い、残りのお金で借金の一部を返済し、
あとは役場で相談したほうがいい、とアドバイスをくれました。

私は、一連の顛末を役場へ相談すると、もう、自己破産するしかない、
と言われ、その手続きと並行して、生活保護を申請するということになりました。

結局、妹や親戚に相談して、生活保護を受けることを告白し、自己破産については、
私が長男で、島の実家の所有権の相続放棄をすることで、家が財産にならないように、
司法書士に頼んで、相続放棄の手続きをしました。

そして、生活保護の申請をして、申請が出るまでの間の40日間、私は3000円で、
生き抜くことになったのです。その時のことは未だによく覚えていません。

後から振り返って、こうだったな、という状態でした。

その後、なんとか生活保護の申請が受理されて、それまで住んでいた、
家賃が49000円のマンションを引き払い、家賃が27000円の同じ町内にある、
アパートへ引っ越しました。これは生活保護の住宅扶助の上限が決まっていたからで、
私は、できるだけ安いアパートで、持っている家財道具が保管できればいい、
という条件で、役場の紹介で教えてもらった不動産屋さんと契約することにしました。

契約後、引越し業者を相見積もりで、3社取り、一番安いサカイ引越しセンターに、
引越しを依頼し、それに立ち会ってから、精神科への入院の準備をしました。

その時に、うつ病の治療の為の、入院施設のある病院への転院手続きも、
行ったのです。私は心身ともに疲弊し、当時は自殺願望もあったのでした。
なので、緊急入院することになったのです。

その頃の事は、まるで夢でも見ているような感覚で、次から次へと私の環境が、
すごいスピードで変わって行ったのでした。一部の記憶が前後している事もあります。

今、これを書いてる時に、当時のメモなどを見直して、書いていますが、
本当に筆跡も別人のようでした。それくらい最低な状況だったのです。

[その38]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その36]

2015-11-07 07:57:59 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その36]」です。

機械製造会社にシステムエンジニアとして再就職した私は、そこで社内用の、
アプリケーションを作る事になりました。

元々、その会社で製造工程で職人として働いていた、いわゆる社内のパソコンに、
詳しい人という立場から、システム開発も手がけていた私の上司は、
プロではないので、プロの立場でアプリケーションの開発に当たって欲しいと言われ、
私は、まずは現状Windows2000で動いていたアプリケーションを、
丁度Windows XPにバージョンアップするタイミングで社内顧客管理システムを、
新機能を追加したものにバージョンアップしようとしていました。

そのシステムはDelphiという開発言語で作られており、私はDelphi 2から使用しており、
仕事でDelphi 3をメインでアプリケーションを複数本作った事がありました。

Delphiは基本的にデータベース機能を初めから搭載しており、私は当時のBDEで、
開発していました。

その会社ではWindows ServerとSQL Serverを使っており、ミドルウェアを使う事で、
Delphiからデータベースに簡単にアクセスする事が出来るのでした。
なので、私は、社内の顧客管理アプリケーションシステムを開発し始めました。

しかし、SQL Serverについては、Webエンジニア科で少し触った程度で、
データベース自体は色々と使ってきたのですが、本格的なクライアントサーバーの、
SQL Serverでの開発は初めてだったのです。

そこで、SQL Serverを使う事に慣れるまで数ヶ月掛かってしまいました。
社長からは早く作ってくれ、と依頼されていたのですが、なかなか上手くいきません。

上司からも、使い方を覚えて、早くアプリケーションを開発する事を依頼されました。

私は、この会社で、実質1年間ほど勤める事になるのですが、感覚的に3年ほど、
勤めた感じがしました。それほどまでにこの会社の活動スピードは早かったのです。

当時は、会社が作られてから25年ほど経過しており、業績も順調で、
とにかく社長の口癖が「スピード感を持って仕事するように」と言われ、
私にも上司にもプレッシャーがかかったのでした。

私はその年の年末まで、休みが取れない状況になり、うつ病を悪化させる事になったのです。
正月休みが終わる頃出社しようとしたら、朝起きられなくなってしまったのです。
身体中が痛くて、動けませんでした。仕方がないので会社を休みました。

それから1週間続けて休んだあと、とにかく起きられるようになった時に出社して、
会社の上司にうつ病を抱えている事を話しました。

結局それから3月いっぱいで、その会社を辞める事になったのです。
その時に社長からお金を個人的に借りました。給料の前借りをお願いしたのですが、
それは出来ないので、社長が個人的に貸してくれるということになったのでした。

まずは体を治して、返せるようになったら返せばいいと言ってくれて、
私はその言葉に甘えました。

丁度その頃、色々と借金を抱えてしまったのです。
何をどうやって借金したかは、あまり覚えていません。とにかく自己破産への道へと、
突き進んでいったのでした。

[その37]へ続きます。

ではでは。

70億人が幸せになる方法[その35]

2015-11-01 05:17:44 | thought
えー、お題の「70億人が幸せになる方法[その35]」です。

パソコンショップを退職した私は、社会保険事務所から、傷病手当を受けて、
生活をしていました。給料の6割ほどの金額が支給されます。

当時、自家用車を持っていた私は、月に一度申請のために、高松へと通って、
書類を提出していました。
体調が良い時は車の運転は出来ていました。しかし、体調が悪い時は、
全く動けない時もありました。差が激しいのです。

やる気の問題というよりも、物理的に、体が固まって動かないのです。
私は、うつ病の症状をほぼ一通り体験しました。

当時、うつ病に対してのイメージは、双極性うつ病のイメージが強く、
良い時はハイテンションになって、なんでも出来るけれど、悪い時は、
最悪の場合、死にたいと思う様な、そんな異常な状態を繰り返すものだと、
思っていました。

しかし、私の場合、いわゆる普通のうつ病で、うつ状態が続くというものでした。
症状は夜眠れない、朝起きると体が重い、動けない時もある、やる気が出ない、
という3つの症状が主なものでした。

そのために私はパキシル、デパス、アモバンという3種類の薬が手放せない、
そんな状態になっていたのです。

そんな時に名古屋のいとこが結婚する事になりました。私は結婚式に招待され、
ぜひ出席してください、と言われていたので、出席をする事にしましたが、
体調があまり良くなく、それでもそれを押して、名古屋へと向かったのです。

もちろん、新幹線で行きました。乗り物に乗らないと移動出来なかったのです。
名古屋のいとこの家に着いた時には、ほぼ一日中、横になっていました。
当然、薬も手放せません。結婚式までの間の3日間は、どこにも出かけず、
祖母よりも元気がなかったのです。叔父さんや叔母さんも心配していました。

結婚式当日は、なんとか動けるという状態で、立っているのがやっと、という、
体がきつい状態でしたが、結婚式と披露宴にはなんとか参加することが出来ました。
結婚式でいとこの幸せな姿を見た私は、少し元気をもらったのです。

体はだるかったですが、帰りの新幹線で、なんとか1人で、帰ることが出来たのです。
それから、1年ほど、自宅療養を続けました。本当に徐々に良くなっていたのですが、
相変わらず、薬が必要でした。担当の先生からは薬は飲み続けないと、日常生活を、
送ることができない、と言われました。

私は先生の言いつけを守って薬を飲み続けたのです。
1年半ほどすると、日常生活には支障がないほどに回復しました。薬は必要でしたが。
それに、そろそろ、傷病手当の支給期間が終わりに近づいていました。

私は再就職について担当医に相談しました。すると必ず通院して、薬を飲み続ける事、
という条件でまずは職業訓練を受けた方がいいとアドバイスを受けました。
ちょうど雇用保険を一時停止していたおかげで、雇用保険を受給しながら、
職業訓練を受ける事ができたのです。

私は、システムエンジニアとしての経験を生かして、Webエンジニアの訓練を、
受ける事にしました。JAVAやPerl、HTMLの基礎知識や、サーバーの構築など、
多岐に渡った学習を3ヶ月間受ける事にしたのです。
Webエンジニアの基礎の基礎を覚える事が出来たのです。

そして、それに関連する仕事を探していたのですが、求人は即戦力になるレベルを、
求めており、また、仕事として初心者として通用するのは20代の求人しか、
ありませんでした。

結局私は、機械製造会社の社内システムエンジニアとして、再就職が出来たのです。
時は2003年の3月でした。

[その36]に続きます。

ではでは。