ガジェットがいっぱい。

私が気になる「ガジェット」をチェック!オブジェクトの種類は問いません。気になる物は、手当たり次第にピックアップします。

DUO select

2013-02-25 07:39:01 | education
えー、お題の「DUO select」ですが、これ、今月に入ってからやってます。

本とCDで提供されている英語の教材で、英検2級やTOEIC 500点を狙える
学習教材となっています。

で、これを、ネットの知り合いからすすめられて、やっています。

この教材のCDには、練習用CDと復習用CDがあり、本で推奨されている
やり方とは違い、復習用CDを先にとにかく聴きまくるという事を今やっています。

本当は、昼間に午前中2時間、午後に2時間聴こうと思っていたのですが、
結構昼間にやる事が多くて、夜寝る前から朝起きるまでの間、ずっと聴き続けて
一日当たり約5時間から6時間聴いています。

いわゆる睡眠学習ですね。

効果があるのかは不明ですが、最近英語の夢を見始めました。

まだ、今は外人さんが、一方的に英語をしゃべってきていて、聴いた事のある単語が
なんとなく判別出来るというレベルです。

夢の中では、なんとかコミュニケーションをとろうとするのですが、一切しゃべれません。

外人さんは、何度も何度も繰り返し一生懸命話しかけてくれますが、私が戸惑ってしまい、
話せないのです。

当たり前の事ですが、今私はCDをiPhoneに取り込み、リピート再生して聴いています。

なので、何度も一生懸命話しかけてくれている様に聴こえるのです。

とりあえず、33セクションの内、24セクションまで聴きました。

後、10日くらいで、一通り終わるので、次は練習用CDを繰り返し聴こうと思います。

どうなることやらですが、頑張ってみます。

ではでは。

日本のソボクなギモン

2013-02-22 07:53:01 | other
えー、お題の「日本のソボクなギモン」ですが、これニコニコ動画で
やっている番組の一つで、毎週木曜日の20時から25時までの約5時間の
番組で、竹田恒泰さんがMCで毎週、竹田さんが取っている新聞から
竹田さんの気になる記事をただひたすら読んで行くというものです。

これを観ると新聞を取らなくてもいいかもです。

読みながらの竹田さんのコメントが結構的を得ていて、面白いです。

あと、約1時間半ごとに一回、竹田さんのおやつタイムが盛り上がっています。

以前は21時スタートだったので、26時(午前2時)まで放送していました。

はっきり言って眠かったです。

気になった方は、ニコニコ生放送で「竹田恒泰」で検索して下さい。

昨日は途中で切れてしまいました。

続きが観れるかと思ったら、観れなかったです。

ではでは。

3人の友達[その3]

2013-02-17 05:52:06 | memory
えー、お題の「3人の友達[その3]」です。

3人目は自宅から自転車で約1時間行った集落にいる、Kくんです。

Kくんは、島の分校に通っていました。
島には、本校と分校の2つの小学校が当時ありました。

中学校はひとつだけなので、中学生になると、分校の生徒が中学校のある
集落まで、自転車でやってきます。

Kくんは、中学の時から知り合いになって、友達になりました。

Kくんの家は漁師をしていて、私の家より少しお金持ちの家庭で、
一人っ子ということもあり、色んなものを買ってもらっていました。

私と、Tくんは、そのおもちゃや、ゲーム目当てで、Kくんの家に
毎週日曜日に朝から遊びに行きました。

お昼ご飯をごちそうになって、夕方に帰って行くというパターンを
毎週の様にしていました。

Kくんも、Tくんと同じ職業訓練校に中学を卒業すると通っていました。

私と、Tくんは島からフェリーに乗ってそれぞれの学校に通っていました。

Kくんは、四国側の港の近くに、下宿して、職業訓練校に通っていました。

そのKくんが、卒業間際の3月の雪の降ったある日、交通事故に遭いました。

大けがをして、それから半年以上入院したのです。

退院して松葉杖で歩くまでの間、逢えませんでした。

現在何をしているのかは、全く知りません。

時間が取れる時に、Kくんの消息を知りたいと思います。

ではでは。


3人の友達[その2]

2013-02-12 07:27:35 | memory
えー、お題の「3人の友達[その2]」です。

2人目は、小5の頃に友達になった、祭りの太鼓を一緒に叩いたTくんです。

Tくんとは、太鼓の事や、YMOの事などで話をしたりしてました。

でも、それ以外は割と無口な子供でした。

大人になってから分かった事なんですが、Tくんは、自閉症だったみたいです。

自分の興味のある事には、結構なこだわりを持ちますが、興味が無いと
まったく、見向きもしません。

私は当時、「こういう性格なんだなあ」ぐらいの気持ちで付き合っていました。
基本、あんまり人を区別しない性格なので、そんなに気にならなかったです。

Tくんとも、中学3年まで一緒でした。

中学から一緒になったもう1人の友達の家にもよく行きました。

2人で自転車で約7キロ離れたもう1人の友達の家に行って、TVゲームをしたり
してました。

Tくんは釣りが大好きで、よく釣った魚で「猫釣り」をしていました。

いわゆる、雑魚っていうやつをそのまま餌にして、猫めがけて釣り竿を投げるのです。

そうしているうちに猫がその魚をくわえて、釣り竿に引っかかるのです。
「猫がつれた!」といって笑いながら釣っていたのを思い出します。

そのTくんは、多分今は中卒で職業訓練学校に通い、溶接工として働いていると思います。

Tくんとも暫く会っていません。

今頃何してるんだろうかとか思ったりしました。

また、島に帰る時に時間があれば消息を知りたいです。

ではでは。


3人の友達[その1]

2013-02-10 05:55:03 | memory
えー、お題の「3人の友達[その1]」についてです。

小4の頃からいじめられていた私は、いじめが始まった頃には
友達と呼べる人はいませんでした。

自分が招いたせいで、クラスメートから相手にされなくなって、
暫くの間、無視が始まりました。

そんな中、一人目の友達が出来ました。

その友達は私の家から約5キロほどはなれた集落に住んでいて、
その家は商店を営んでいました。

島の近所の小学生と一緒に遊んでいた私は、自転車を年下の子から借りて、
自転車の練習をしていました。

その自転車は子供用のもので、後輪にコマが2つ付いていて、自転車が乗れなくても
乗れる様な仕様になっていました。

そのコマのうち、片側のコマを外す事が出来、自転車の練習が出来る様になっていました。

で、その自転車で数週間練習して初めて小4で自転車に乗る事が出来ました。

でもって、自転車に乗れる様になってから、家にある自転車に乗って、その5キロ離れた
友達の家に遊びに行ったのです。

その友達は普通に接してくれました。
その友達(けいちゃん)はよくお店のお菓子をくれました。

貧乏だった私は、半分お菓子目当てで、そのけいちゃんと遊んでいました。

けいちゃんの家の近所のお寺にいって、境内で色々話したり、鐘をついて遊んだりも
しました。

けいちゃん家では、猫が住み着いていて、子猫を産んでいたので、その子猫と
遊んだりもしました。

立ちションもした仲です。

けいちゃんは頭が良くて、体も大きくて、なのに、すごくやさしい子でした。
小4から中3までの間ずっと仲良くしてくれました。

幼なじみってやつですね。

お互い高校生になってからは、けいちゃんが進学校に通った事もあり、ほとんど
疎遠になりました。

今、どこでどうしているかは分かりません。

年に一度くらい、島の実家に帰りますが、けいちゃんの家にはなかなか立ち寄る事が
ありませんでした。

今度実家に帰って時間がある時には、けいちゃんの家に寄ってみようと思います。

ではでは。

紙飛行機と宇宙戦艦ヤマト

2013-02-09 08:30:03 | memory
えー、お題の「紙飛行機と宇宙戦艦ヤマト」です。

私が島へ来た小4の秋に、いじめが始まりました。
その時に同級生の友達を失いました。
全て自分のせいだと考えた私は、ただ耐えるだけしか出来ませんでした。

そんな時に、家の近所の同級生の女の子が、放課後にこれまた近所の子供達と
一緒に遊んでくれたのです。

子供同士7、8人で近くの神社の境内で、皆で遊べる遊びを色々教えてくれたのです。
その女の子は、私がいじめられている事など知らなかったのです。
小6まで、よく遊びました。

で、その子のお兄さんとも、よく遊んでいました。

そのお兄さんは、絵を描くのがとても上手で、特に戦艦の絵が
とてもカッコよかったのを覚えています。

その中でも、事あるごとに「宇宙戦艦ヤマト」を描いて貰っていました。

実は私が島へ来る前、大阪に住んでいたのですが、その頃に父親と一緒に
宇宙戦艦ヤマトを良く見ていました。
その頃から、ヤマトを作りたいと思っていたのです。

まぁ、小学生の夢ですから、今考えるととても無謀な夢だったのですが、
その頃から機械を触るのが好きでした。

でもって、その女の子のお兄さんとは、紙飛行機を作っては飛ばす遊びをよくしていました。
高く、遠くへ飛ばす競争をしていましたが、そのお兄さんには、中々勝つ事が出来ませんでした。
そうなんです、紙飛行機を作るのも、大変上手だったのです。

私には、本当の兄の様に思えて、慕っていました。
そのお兄さんと女の子が、小学校を卒業する時に、転校していったのです。

何か心にぽっかりと穴が空いた様になりました。

今でも、宇宙戦艦ヤマトは私の夢です。
いつか、自分に子供が出来たら、宇宙戦艦ヤマトを作って欲しいと思います。

祭りと太鼓とYMO[その2]

2013-02-08 07:03:01 | memory
えー、お題の「祭りと太鼓とYMO[その2]」です。

友達と太鼓の事で仲良くなった私は、その友達のお兄さんとも仲良くなりました。

今だから分かる事として、その友達のお兄さんは弟思いで、
多分私が、普通に友達として付き合いしてる事が嬉しかったんだと思いました。

で、その友達のお兄さんが、色々ハマってる事を私に教えてくれました。

一つは、マンガを書く事。

そのお兄さんはマンガが凄く上手で、特に同級生をモデルにしたギャグマンガを見せてくれました。
腹抱えて笑ったのを思い出します。

もう一つは、ブルース・リーの映画を観る事でした。

当時、ヌンチャクをそのお兄さんは通販で買って、練習してました。

そして私にカルチャーショックを与えた、YMOの音楽です。

そのお兄さんは、これまたYMOの大ファンで、アルバムを何枚も持っていました。
それをカセットテープにダビングして私に聴かせてくれたのです。

初めて聴いた曲は「ライディーン」でした。

なんだ、この音楽は!カッコいい!しびれるぅ!と心の底で思いました。

それからは毎日の様にYMOの曲を貪る様に聴きまくりました。

その、ドラムのビートが、あまりにも凄くて、(今思えば、当たり前ですが)
高橋幸宏さんのドラムに憧れました。

私にとって高橋幸宏さんは今でも「神」です。

それからというもの、家にドラムが無いので、料理に使うボウルに紙を貼って、
輪ゴムで止めたものをドラム代わりに箸をスティック代わりにして
リズムを取って叩きまくりました。

学校では、自分の足の太ももをドラム代わりに手で叩いていたのを思い出します。

で、そのYMOが作る音楽がシンセサイザーというコンピュータ制御で動く楽器で
作られている事を知り、シンセサイザーが欲しくて欲しくてたまりませんでした。

また、当時インベーダーゲームが流行り始めた頃で、私はゲームにハマっていったのです。

コンピュータと私の出会いは、また後ほどの書き込みで紹介したいと思います。

ではでは。

レーダー照射

2013-02-07 07:32:01 | Politics
えー、お題の「レーダー照射」ですが、これ中国が自衛隊に対して行いました。

今回の件は、実は初めてでは無いと言われています。
民主党の時代で、尖閣国有化以前にもあったと言われています。

これは、どういう事かと言うと、暴力団員が、警察官にピストルを向けて、
安全装置を外し、引き金を引く直前という、非常に緊迫した状況に置かれていたと
言う事です。

軍事的に言うと、ロックオンされて、いつでも攻撃が行われる準備が整ったと
言う事になります。

国際的には、確実に敵対行為として、認識され、通常ならロックオンされた側が
攻撃をしても、非難されるものではありません。

通常の自衛の為の攻撃と認められるものなのです。

このように中国は、態度をエスカレートさせてきており、いつ、どんなきっかけで
戦闘状態にはいるか分からなくなってきました。

そうです。中国はもうそこにある脅威なのです。

国連の安全保障会議に訴えるぐらいの事はやってもいいのです。

日本は冷静に、しかし毅然とした対応をするべきなのです。

中国は、何故、こんなにも尖閣にこだわるのでしょうか。

それは尖閣近海にある海底資源を狙っているからなのです。
1968年に国連がこの地域を海洋調査して、海底に石油や天然ガスなどの
資源がある事が発見されたからなのです。

それまでは、中国も台湾(中華民国)も尖閣は日本の領土と認めていました。

それが、手のひらを返した様に、自分のものだと言ってきたのです。

まるで、利権にたかるヤクザと同じです。

こんな国が隣にあるなんで、なんて、日本は不幸なんでしょうか。

中国が民主化されて、本当の自由と平等が行き渡るまで、この状態は続くと
考えられます。

早く共産党一党独裁がなくなりますように、祈念します。

ではでは。

祭りと太鼓とYMO[その1]

2013-02-06 07:04:22 | memory
えー、お題の「祭りと太鼓とYMO[その1]」です。

小5の頃に島の秋祭りで、私が太鼓台に載って太鼓を叩く事になりました。
その頃の私といえば、いじめられるは、虐待を受けるはで散々な目にあっていました。

で、太鼓を叩く為に、同級生のお父さんと、お兄さんに太鼓の叩き方を教えてもらっていました。

その縁もあって、その同級生とは、少しずつ仲が良くなっていきました。

初めての島での友達です。
私は、太鼓を叩く事が唯一の楽しみとなりました。

でもって、秋祭りまでの間は毎日の様に家で太鼓の練習を友達としていました。

音楽が好きだった私は、祭りのシュチュエーション毎に変わるリズムを覚えるのが楽しくて、
太鼓を叩く練習に夢中になりました。

その友達はお父さんとお兄さんが太鼓を叩くのが上手で、その友達もリズム感があって、
非常に上手かったのを覚えています。

「ここは、こう叩くんや」とか「この時はこうするんや」とか、色々と教えてくれたのを
感謝しています。

後から分かったのですが、その友達は自閉症だったのです。
でも、私はそんなことはまったくお構い無しで、とにかく友達と一緒に同じ事を
一生懸命やる事が楽しみでした。

小5の頃に初めて祭りに参加して、一番の楽しみは、太鼓台に乗って太鼓を叩く事で、
お金をもらえる事でした。

実は、祭りの時に、「花(はな)」と呼ばれる、集落に伝わる祭りの寄付金のようなものがあり、
それを太鼓台を引く子供達が集落の家を一軒づつ回って、集金をするのです。

で、その集まったお金を、子供の参加者で、大人達への酒代を差し引いた分を、
年功序列と役割によって、子供達の内の年長者がリーダーとなり、みんなで分けるのです。

そうです、臨時のお小遣いが貰えるのです。

当時のお金で私は5,000円も貰う事が出来たのです。好きな太鼓を叩いてこんなに
お金が貰えるなんてなんてうれしいんだろうと思いました。

それが年に一度の楽しみとなったのは言うまでもありません。

その集落の祭りの決まり事として、子供の参加者は小4から中3までの6年間参加出来るのです。

私は中学3年までの間、その年に一度の祭りが、とりあえずの希望となりました。

その2に続きます。

ではでは。

山田共和国

2013-02-05 07:35:14 | memory
えー、お題の「山田共和国」についてです。

この、山田共和国とは、あるTV番組の中でやられていたコントの題名です。

昔のお笑い番組で、山田共和国というコントがありました。

それは、ある一軒の家族のお話です。

その一家の名前は山田さんといいます。

その家(サザエさんの家みたいな自宅)が、
一国として独立するというもので、家族が国民という設定です。

山田共和国は国ですから、国旗があり、国歌もあります。

毎回、始めに旗竿に国旗を揚げて、国歌を歌う所から始まります。
確か、国歌は「やーまーだ、きょうわこく」と歌ってたと記憶してます。

その家族が繰り広げる、ご近所という他国との軋轢とか、
色々面白かったのを記憶しています。

私は、国の最小単位って「家族」だと思っています。
良い家族の周りには、良い近所が出来て、良い近所が集まると
良い街になると思います。

そして、良い街が集まると良い国が出来ると思います。

今、国が、街が、近所が、家族が、崩壊の危機に瀕しています。
その危機を脱する方法として、まずは家族を再生させる必要が
あります。

今、NHKで、朝の連ドラの「純と愛」というのが放送されています。

そのドラマでは、家族の絆が描かれています。

現時点での家族の絆はバラバラですが、これが今後どうなるか、
楽しみにして観ています。

家族を良くする為には個人がまずは良くならないといけないと
私は考えます。

私の考える良い個人とは、お天道様に恥ずかしく無い生き方をしている人の事だと考えます。
では、お天道様に恥ずかしく無い生き方とは、どんな生き方なのでしょうか。

それは、「真、善、美を追求する生き方」だと私は考えます。

自分自身が、今、何をすれば良いのか常に考えて行動する事が
求められていると思います。

良い国の始まりは、一人一人の心がけで良くなると思います。

自分自身が、常に良い事をしているのか、それに気をつけて
生活していこうと思います。

ではでは。

君のこころはどう?[その18]

2013-02-04 07:07:00 | thought
えー、お題の「君のこころはどう?[その18]」です。

しあわせって?

しあわせって何でしょう?

うれしい時?

楽しい時?

こころが満たされている時?

大好きな人と一緒にいる時?

すべてが思い通りにうまくいく時?


悲しくない時?

辛くない時?

苦しくない時?

あなたは、どんな時が「しあわせ」ですか?

私?

まだ、よく分かりません・・・・・

でも、いつか「しあわせ」って思える日が来るといいね。

以上が2001年夏時点での書き込みです。

これが、「君のこころはどう?」の最後のページです。

皆様は、どんな時に幸せを感じますか?

ではでは。

君のこころはどう?[その17]

2013-02-03 05:57:19 | thought
えー、お題の「君のこころはどう?[その17]」です。

恋愛と結婚について

これは、私自身の恋愛、結婚観について述べたものである
現在、私には彼女と呼べる人もいなければ、好きな人もいない
30何年か生きてきて、いわゆる「男女の付き合い」は、何回かはあった
ただ、その場合も、あまり長くは続かない
その理由も、うすうすは感づいていた

周りからは、「何で、彼女を作らないの?」とか、「早く、嫁さんをもらえば」とか、
言われるたびに、「いや、別に・・・」とか、言葉を濁してきた
もちろん女性に興味が無い、ということはなく、大いに興味があり(いやはや・・・なんとも)
「理想が高すぎるんじゃないの?」ということも、よく言われるが、本人は、
自分の彼女は「こうでなければならない」というのも本当は無いのである
(個人的には、私がたばこを吸わないので、吸わない人ならいいなぁ、とかは思うが)
多分、好きになった人が理想の人だと、考えている

私の場合、好きになる前の段階で、自分が「人を好きになる資格があるのだろうか」と
悩んでしまって、スタートをなかなかきれないのである
もちろん、人を好きになるということは人間が持っている基本的な「感情」であるから、
資格も何もいらないのは、頭では分かっている
ただ、今まで、感情を押さえつけられて育ったことから、自分の正直な感情を
ありのままに表現することが、「悪いこと」のように思えて仕方が無いのである

その分、告白にまで至る人が出来た場合、「この人しかいない!」と思い込み
付き合う前、いや、告白する前から、あれやこれや考えて、「でも、自分は、嫌われる」とか
「多分、うまくいかない」とかマイナスなことばかり考えてしまうのである
自分に自信が無い、きっと自分は嫌われる、と思い、頭の中をぐるぐる、
その言葉が駆け巡るのである

また、今まで、付き合ったり、告白した人たちに言われたことが、余計に拍車をかけるのである
「想いが重過ぎる」「嫌われるのが怖いんだ」「あなたは一人で生きていける」
「やさしすぎるから」・・・・
それぞれの言葉にそれぞれのシュチュエーションがあるのだが・・・・
結局、私にとって、「別れの言葉」ばかり思い出してしまい、その時のつらさが、脳裏をよぎるのである

なぜ、「別れの言葉」ばかり思い出してしまうのか、ずっと、ずうっと考えていた
多分、これは、自分にとって一番「大切だった人」との別れが原体験となって、自分の心の奥底に
「自分が好きになった人と必ず別れてしまう」という強迫観念が植え付けられてしまったからだと
気が付いた
そう、それは、「自分にとって一番大切だった、母親との別れ」だったんだと・・・

私は、「自分にとって一番大切な人」には、ずっと一緒にそばにいてほしいと思っている
多分、その人が「結婚する人」になるんじゃないかと考えている

まだ、「その人」を見つけてはいない・・・・

以上が2001年夏時点での書き込みです。

現時点での恋愛観、結婚観はあまり変わっていません。

今の私の状態では、恋愛や結婚したくても、よほど奇特な人でも現れない限り
難しいと思います。

まずは、生活の立て直しが急務です。

ではでは。

君のこころはどう?[その16]

2013-02-02 08:41:46 | thought
えー、お題の「君のこころはどう?[その16]」です。

母親について

それまで、母親については、なるべく考えないようにしようとしていた。
でも、「合いたい」と思ったことが無かった訳ではない

片一方では、母親のことを「忘れよう」としていながら、もう一方では、
例えば、「親子参観日」なんかは、来るわけも無いのに、「もしかしたら・・・」という
淡い期待を抱いて、どきどきしてみたり、小学校の卒業式や、中学校の入学式なんか、
手紙でも、送ってくれないかと考えたりもした

でも、何もなかった・・・・


ただ、「母、お母さん」という言葉自体、見るのも、口に出すのもすごくためらわれた
祖母から、何かにつけ「お前の母親を恨め」と言われ続け、本当は恨みたくない、
だけど、「母親を嫌いにならなければ、ここにはいられない」と思うようになったからだ

大阪にいた頃の、母親についての記憶は「あまり家事をしない人」というイメージが残っている
普段の食事は、「幕の内弁当」か「菓子パン(クリームパンとかジャムパン)」がほとんどだった
たまに、「カレーライス」だけ、手作りしてくれてたのを覚えている

母親について、私が今でも鮮明に覚えていることがひとつだけある

私が、小学校3、4年生ぐらいの頃、父が、大怪我をして、半年ほど入院した
もともと、そんなに収入の多い方ではなかったと思うが、父親の入院がきっかけで
母親がスナックで勤めることになった
夕方5時ごろから出かけて、夜中の2時,3時ぐらいに帰ってくるという生活をしていた
その頃、私たち兄弟は、一番下の妹が3歳、上の妹が5歳、弟が7歳、私が9歳という
年齢だったので、私以外の兄弟は、夜の9時ぐらいにはもう寝入っていた
私も、9時過ぎには大体寝ていたと思うが、その日に限って、なかなか眠れなかった
何か、このまま、母親が帰ってこないんじゃないか、と思ってテレビを終了まで
ずっと見つづけて、母親の帰りを待っていた
「砂の嵐」がでるまで・・・
3時ぐらいになっただろうか、母親が帰ってきた
帰ってくるなり非常に驚いた様子で、「何で、寝てないん?」と言われ、
私は、「帰ってくるまでまっとったんや」と半べそで母親に答え、そのまま安心して
眠ってしまった

なぜか、このシーンだけは、未だにたまに思い出すのである・・・・

以上が2001年夏時点での書き込みです。

現在まで、母親には逢っていません。

実は、自分以外のきょうだいは、成人して、母親に逢った事があります。

でも、未だに私は逢う事が出来ません。
憎んではいないけれど、逢う気になれないのです。
それに、今の自分の状況では逢う事で、病気が悪化する様な気がしてならないのです。

いつか、好きな人が出来て、結婚するとかなったら、逢える様になるかも知れません。

いつか逢えたらいいのにと思っています。

その17へ続きます。

ではでは。


君のこころはどう?[その15]

2013-02-01 08:41:38 | thought
えー、お題の「君のこころはどう?[その15]」です。

父親の自殺について

最近になって、ようやく少し心の中での整理がついたと思う
父親が自殺をしたのは、私が22歳の夏である
実は、それが自殺であったことが分かったのはそれから3年後のこと

私が22歳の夏、「小旅行に行く」と言い残して、1ヶ月たっても帰ってこなかった
いわゆる「蒸発」である
その時、父には付き合っている人がいた
父は、その人と結婚を考えていたらしい
しかし、その相手の人が病弱であったことから、祖母が反対していた
ある日、父と祖母は口論になり、父が「出て行ってやる!」と言い残して実家をでた
私たち子供には、「ちょっと、この人と旅行に行く」ということを言っていた
正直、私は父の再婚を「いいんじゃないの、もうそろそろ」と思っていたので
反対はしていなかった
1ヶ月ぐらい帰って来なくても、「どこかで2人で暮らしているのだろう」ぐらいに
思っていた・・・・

普通なら警察に捜索願を出すところだが、祖母の「世間体が悪い」という事で
出さずにいた

父がいなくなってちょうど1ヶ月たった頃、「1通の手紙」が届いた
それは、紛れもなく父からのものであった

内容は、私たち子供一人一人に宛てたもので、まず、「探さないでほしい、この人と一緒になる」ということが
書いてあり、私や、妹たちに対して「今まで、親らしいことは何もしてやれなかった、ゆるしてくれ」ということと
私に対して「後を頼む、貯金は全部やるから」というようなことを書いてあった
いや、「書きなぐっていた」のである

私は「遺書だ」と直感した

そして、その時心の底に「どーん」という音が鳴り響いた

その時、祖母は「一緒になるって書いてあるから、どこかで暮らしているんだろう」
そして「本人が帰ってくるまで、探さない方がいい」と説得されて、結局そのままになってしまった

それから、3年後・・・・

1本の電話からはじまる
九州の港町の警察からの電話だった
「あなたのお父さんの車が、港から引き上げられた」ということだった
私は、「どういうことですか?」と聞き返した
警察の人は「その車の中から男性と女性の骨が出てきた」というのである

「・・・・・・・・」言葉がでなかった

それから、私は、身元確認のため、叔父と一緒に、九州へと向かった

そこに待っていたものは、子供用の棺が2つと、色んな物が、ビニールシートの上に
並べられていた
そこに、父親の免許証と、父がもっていた、見覚えのあるくしがあった
「父のものです」私は答えた
そのあと、2つの棺のうち、「男性」と書かれた紙が貼ってある方の蓋があけられた

中には、幾つかの骨と、頭蓋骨が入っていた
「これがあなたのお父さんです」と警察の人が言った
私はその時正直、「こんなに頭が小さかったっけ」と思った
と同時に、涙がこみ上げてきた

それから、帰りの列車のなかで、ずっと「何でだろう?どうして?」という言葉が
私の頭を駆け巡った・・・・・

未だに、あの骨が父だったとは信じられない

ある日、ひょっこりと、何事も無かった様に帰ってくるのではと思うのである
でも、現実は、確かに父はもういない・・・

私は、父に対して、ぶっ飛ばしてやりたかったのと、一緒に酒が飲みたかったという
気持ちが、心残りになった

以上が2001年夏時点での書き込みです。

父については、今思う事として、父は父なりにいろんな事で悩んでいたんだと思いました。

父の周りの人が、もっと親身になってくれる様な人が一人でもいたら、
結論は変わっていたのかも知れません。

その役割を自分が出来なかったのが非常に悔やまれてなりません。

でも、子供の言う事を聴く様な父ではなかったので、やはり、父に親友と呼べる
友人でもいてくれていたらと思いました。

その16に続きます。

ではでは