私たち衆生一人一人が、本当に「ただ坐れる人に成る」
ということが坐禅修行で一番大切なことです。
「ただ」と言うのは「影」です。
「ただ坐る」ことによって「その影(ただ)」を早く
落とさなくてはなりません。
別の言葉で言えば「影の痕跡」をなくすことです。
そうしないと本当の「ただ」に成れないのです。
おシャカ様や歴代の覚者の教えによって、それを正しく
行じていかなければならないのですが、「教え(分かったもの)」
というものが、どうしても残ってしまうのです。
その為に「教え(分かったもの)」と自分との間に「隔て(距離)」
が出来てしまうのです。
仏教は「月を標す指」といわれているように、月を見てしまえば
指の必要がなくならないといけないのです。
「ただ」に成れば「ただ」がなくならないといけないのです。