能く分かっていれば分かっている程に疑いの煩悩「疑煩悩(ぎぼんのう)」が強く出て来るものです。
そこのところはおシャカ様の経文にも「自分が大変な宝を持っていながら宝探しをしているようなものだ」と、
「長者窮子(ちょうじゃぐうじ)」という故事がたとえとして説かれています。
物語的なものとしては分かっても、中中「なるほど自分自身が長者であった」という事にきがつかないものです。
あるいは、おシャカ様が四十九年間「衆生本来仏である」とお説きになりましたが、それがどうしても信じられない、これが人間(にんげん)がこの世に出て来てからずっと相続されている「疑煩悩」というものです。
ですから、いくらおシャカ様がそう言われても、この世の中には自分以外にもっと尊い物があるだろうという事で、焦って他を探し回ってしまうのです。
ですから、単純にそのものに成り切って頂きたいのです。
そうすれば諸々の「道(法)」と言うのは「無我」であり、もちろん自分も諸々の「道(法)」の一つですから既に物と一体に成っているという事がよく分かるのです。
「自分と物が一体に成っている」ということは、「一切の物が自分だ」ということです。
今までは見聞覚知(けんもんかくち)するものだけが自分だと思っていたけれども、そうではない大変大きな自分に生まれ変わることが出来るのです。
それを知(識)る事が「道(法)を求める、そのものに成る」修行の根本ではないでしょうか。