私たち衆生は、「修行する」といっても、先ず「自分の考え方」を以て、そういう態度で修行しようとするから難しくなるのです。
「そういう修行をしよう」と「標準」をもってはいけないのです。
そうすると、標準の範囲にしか動き得ない事になります。
どんな立派そうな修行でもやっぱり自分の標準の範囲なのです。
「本当の修行のあり方」というものは、私たち衆生の上にいろんな事が「ただ有(在)る」のです。
「正しい修行の前の修行のあり方」というものは「この物の純粋なあり方だけ」でよいのです。
目には色んな物が見えます。
つまり、「有(在)る」という事です。
耳にはいい音でも悪い音でも、そういうものに構わず、ただ有(在)ったり無かったりするのです。
それが一番正しいことです。
ところが、人間(にんげん)は考え方で取り扱う修行をしているのです。
「六根(機能身体)」は「六根(機能身体)のまま」ちゃんと働きをしているのです。