「海水都(すべ)て増減なく波浪も亦(また)退転無し」
というお示しがあります。
どちらにしても、ちっとも変わらないのです。
諸仏に在っても増すことはないし、衆生に在っても減ることも
ないのです。
それだからいいのです。
それ程に「法」としてはきちんとしているのですが
「人(にん)」はどうしてもそれが満足出来ないのです。
ところが、おシャカ様は満足出来たのです。
背の高い人も背の低い人も内容外観はいろいろに形は
変わっていますが「因果」それ自身というものは何も
変わりません。
ただ、「因果全体」なのです。
その中に「自我」というものはありようがないのです。
それがハッキリと自覚が出来るのです。
仏の知見です。
「仏智見」といいます。
「仏知見を得た人」というのは、「縁」に触れるとなんとでも
成りながら、何にも括(くく)るものも、括られるものも
ないので、無いながらに縦横無尽に活動が出来るのです。
「因果それ自身」に目標はないのです。
ですから「因果無人(いんがむにん)」です。
「無目的」です。
その無目的である絶大な存在、それをまず手に入れなければ
一切の問題の基本というものは、解決のつくものではないのです。