これは、何についてもそうですが、
どんな立派な 「道理・理論・理想」 をくっ付けても、
自分で 「理想通りに理想」 を描いて、「理想通り」 に 「考えを持って理論」 をくっつけ、
そして、これをもって 「これでよい」 と言ってみても、
「人(ひと)」 が結論を出したのですから、十人が十人とも、同じような結論を
出すほどしっかりとした理論が成立しても、
それは 「人の見解(けんげ)」 に因って結論を付けただけです。
人間(にんげん)がどのように 「結論」 を付けても始末がつかない(満足が出来ない) のは、
自分の考えで 「結論」 を付けたという事実を自分自身が知っているからです。
人間の理性そのものが、本当のところはどんなものなのかということを、
認識(知っている)限り、それは絶対に許されないのです。
別の言葉で言えば、「理性」 が承知しないのです。
ところが、おシャカ様の教えでは、「今の事実、今の自己の様子」 に対しては、
「理性自体」 は全くどうしようも出来ないのです。
一切手を付けようがないほど、はっきりとした世界なので 「御手上げ」 なのです。
おシャカ様はそれにぶつかって、驚いたのです。
有名な 「華厳経(けごんきょう)」 のお示しに、
「奇哉 奇哉(きなるかな きなるかな) 我今普く一切の衆生を見るに、
如来の智慧、徳相、皆具足す、唯妄想執着を以っての故に證得せず」
と。
一切の衆生及び、すべてのものは元来解脱していたと 「自覚」 されたのです。