一つの真実(一つの本当の事)も、捉える人の思いや感性に因って、様々に変化してしまうのが実情なのです。
「物事」は、一方から見たり考えたりするのではなく、「多角的」に見たり考えたりすることが必要となり、場合に因っては、疑ってかかる事も必要ではないでしょうか。
一つの真実(一つの本当の事)も、捉える人の思いや感性に因って、様々に変化してしまうのが実情なのです。
「物事」は、一方から見たり考えたりするのではなく、「多角的」に見たり考えたりすることが必要となり、場合に因っては、疑ってかかる事も必要ではないでしょうか。
執着を手放さなければ、「この世」を只、さまようだけの「浮遊霊」となります。
黄泉の国に旅立つために、現世に思いを残さないように、人生を送って来たかどうか、満たされる事の無い思いや、自分に対する自身の無さは、「自己愛の不足」になっていくのです。
それにも「思い」を手放す事です。
然し自己愛を大切に思う心を持たなければ、「あの世」への旅立ちの妨げと成ります。
共感は、他人を思いやる心です。
同情は、思いやりです。
共感の心を持った人は、死を迎えた時間はかかってもそれを受け入れることが出来ます。
同情する心を持った人は、自分自身が不幸になることを想定していないため、死を受け入れません。
これまでの社会構造は、「ピラミッド型の縦社会」だったのです。
ですから、トップに立っている者たちの、意思が大きく反映され、それを「教育」と言う方法で、「集団の想念」へと変えていく、「上意下達のシステム」に因って、成り立ってきたのが、「マスコミ報道姿勢」なのです。
事実を伝えウソを付かなければ、何も本当の事を伝える必要はありません。
人々は行き先不明の切符を、手にしながらその都度乗る列車を、乗り換えて未来に向かって進んで行くのです。
成功するには、「実力と運、それにタイミング」が、必要となるのです。
「望む未来」に近づけるために、本当に大切な事は、「自分を好きになる事」です。
自分を好きになり自分を大切に思えるようになれば、過去や未来の自分から助けられやすくなるだけでなく、自分の中に存在するインナーチャイルドも癒され、助けてくれるようになります。
「インナーチャイルド」とは、子供時代の記憶や心情感傷、自分の中に住み続けている、心に傷を負った子供、内なる子供と訳される事があります。
無の存在は、知覚する事は出来ませんが、イメージする事は出来ます。
例えば、自分の周りに物が何も無いと言っても、「空気」は存在しています。
宇宙空間に行ったとしても、「空気が無い」と云うだけの事で、目には見えませんが、宇宙空間にもぎっしりと詰まった分質が、存在しています。
現実世界は、「氷の塊り」であるが故に、全ては「ひと塊り」になって繋がった状態で、存在しているのです。
「人類の究極の課題」を解明しようとして、おシャカ様は「出家」されたのではないでしょうか。
おシャカ様は、当初は人間的な生活の全てを尽くして、訓練修行されたのです。
然し「無条件で満足出来る道」が、得られず失望されたのです。
その結果おシャカ様は、更に「自分自身が自らの真相」を、省みられたのです。
今で言えば「問題意識」を、持たれたのです。
そうして「今日迄の問題」は、認識自体が認識上に有(在)って認識の自在なる活動(働き)の為に惑わされて、そこから一歩も出る事が無かった事に、気付かれたのです。
仏教では「人類の究極の課題」である、この疑問の起こる波を、「無明の煩悩」と、説いているのです。
この「無明の煩悩」が、滅しない限り人間の苦悩も、完全に救う事は出来ないのです。
例え沢山の人が研究を重ねて、仏教に同一な結論に達し、各自が理論的に決定しても、彼等自身が「真理」は此れで善いのかと、自問自答する時、真面目な正直な考えを持つ人であれば、あるほどに自分自らが迷うのが、落ち着く処ではないでしょうか。
この様に考えてみれば見るほどに、人間は迷いに迷いを重ねて、浮かぶ瀬も無き哀れなる者と成ります。
これが人間を苦しめ悩ます処の「無明の煩悩」なのです。
仏教を真理として「仏教を絶対的なもの」として見てしまうと、「法 その物」を求めるはずであるのに、その内容を覚えてしまい、尺度として基準立場を持たない、「偏見・法見(ほっけん)・空見(くうけん)」を持って、そこで行き詰まってしまいます。
偏見(各人の偏った見方)、法見(法にとらわれた見方)、空見(今の事実でない見方)もその内容は違っても、「我見」と全く同じものです。
その「我見」を放ち落とすのが、修行でなければいけません。
ですから「眼横鼻直なることを認得して仏法無し」と。
又「参学の大事ここに了(おわ)りぬと」明確に述べられているのです。
「身心脱落」してもう一つの「脱落身心」をした様子と云うのが、「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)」と云う「個々の脱落」と云う事なのです。
お釈迦さまも「遺教経(ゆいきょうぎょう)の中で、はっきりと述べられて居ります