活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

神道と仏教の大きな違い35

2022年05月22日 | その他

一つの真実(一つの本当の事)も、捉える人の思いや感性に因って、様々に変化してしまうのが実情なのです。

 

「物事」は、一方から見たり考えたりするのではなく、「多角的」に見たり考えたりすることが必要となり、場合に因っては、疑ってかかる事も必要ではないでしょうか。


神道と仏教の大きな違い28

2022年05月08日 | その他

執着を手放さなければ、「この世」を只、さまようだけの「浮遊霊」となります。

 

黄泉の国に旅立つために、現世に思いを残さないように、人生を送って来たかどうか、満たされる事の無い思いや、自分に対する自身の無さは、「自己愛の不足」になっていくのです。

 

それにも「思い」を手放す事です。

 

然し自己愛を大切に思う心を持たなければ、「あの世」への旅立ちの妨げと成ります。


神道と仏教の大きな違い18

2022年04月18日 | その他

これまでの社会構造は、「ピラミッド型の縦社会」だったのです。

 

ですから、トップに立っている者たちの、意思が大きく反映され、それを「教育」と言う方法で、「集団の想念」へと変えていく、「上意下達のシステム」に因って、成り立ってきたのが、「マスコミ報道姿勢」なのです。

 

事実を伝えウソを付かなければ、何も本当の事を伝える必要はありません。

 

人々は行き先不明の切符を、手にしながらその都度乗る列車を、乗り換えて未来に向かって進んで行くのです。

 

成功するには、「実力と運、それにタイミング」が、必要となるのです。


神道と仏教の大きな違い16

2022年04月14日 | その他

「望む未来」に近づけるために、本当に大切な事は、「自分を好きになる事」です。

 

自分を好きになり自分を大切に思えるようになれば、過去や未来の自分から助けられやすくなるだけでなく、自分の中に存在するインナーチャイルドも癒され、助けてくれるようになります。

 

「インナーチャイルド」とは、子供時代の記憶や心情感傷、自分の中に住み続けている、心に傷を負った子供、内なる子供と訳される事があります。

 


神道と仏教の大きな違い12

2022年04月06日 | その他

無の存在は、知覚する事は出来ませんが、イメージする事は出来ます。

 

例えば、自分の周りに物が何も無いと言っても、「空気」は存在しています。

 

宇宙空間に行ったとしても、「空気が無い」と云うだけの事で、目には見えませんが、宇宙空間にもぎっしりと詰まった分質が、存在しています。

 

現実世界は、「氷の塊り」であるが故に、全ては「ひと塊り」になって繋がった状態で、存在しているのです。


人類の究極の課題4

2022年02月23日 | その他

「人類の究極の課題」を解明しようとして、おシャカ様は「出家」されたのではないでしょうか。

 

おシャカ様は、当初は人間的な生活の全てを尽くして、訓練修行されたのです。

 

然し「無条件で満足出来る道」が、得られず失望されたのです。

 

その結果おシャカ様は、更に「自分自身が自らの真相」を、省みられたのです。

 

今で言えば「問題意識」を、持たれたのです。

 

そうして「今日迄の問題」は、認識自体が認識上に有(在)って認識の自在なる活動(働き)の為に惑わされて、そこから一歩も出る事が無かった事に、気付かれたのです。


人類の究極の課題3

2022年02月21日 | その他

仏教では「人類の究極の課題」である、この疑問の起こる波を、「無明の煩悩」と、説いているのです。

 

この「無明の煩悩」が、滅しない限り人間の苦悩も、完全に救う事は出来ないのです。

 

例え沢山の人が研究を重ねて、仏教に同一な結論に達し、各自が理論的に決定しても、彼等自身が「真理」は此れで善いのかと、自問自答する時、真面目な正直な考えを持つ人であれば、あるほどに自分自らが迷うのが、落ち着く処ではないでしょうか。

 

この様に考えてみれば見るほどに、人間は迷いに迷いを重ねて、浮かぶ瀬も無き哀れなる者と成ります。

 

これが人間を苦しめ悩ます処の「無明の煩悩」なのです。


仏教の真理2

2022年02月15日 | その他

仏教を真理として「仏教を絶対的なもの」として見てしまうと、「法 その物」を求めるはずであるのに、その内容を覚えてしまい、尺度として基準立場を持たない、「偏見・法見(ほっけん)・空見(くうけん)」を持って、そこで行き詰まってしまいます。

 

偏見(各人の偏った見方)、法見(法にとらわれた見方)、空見(今の事実でない見方)もその内容は違っても、「我見」と全く同じものです。

 

その「我見」を放ち落とすのが、修行でなければいけません。


身心脱落脱脱落身心9

2022年01月14日 | その他

ですから「眼横鼻直なることを認得して仏法無し」と。

 

又「参学の大事ここに了(おわ)りぬと」明確に述べられているのです。

 

「身心脱落」してもう一つの「脱落身心」をした様子と云うのが、「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)」と云う「個々の脱落」と云う事なのです。

 

お釈迦さまも「遺教経(ゆいきょうぎょう)の中で、はっきりと述べられて居ります