活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

神道と仏教の大きな違い18

2022年04月18日 | その他

これまでの社会構造は、「ピラミッド型の縦社会」だったのです。

 

ですから、トップに立っている者たちの、意思が大きく反映され、それを「教育」と言う方法で、「集団の想念」へと変えていく、「上意下達のシステム」に因って、成り立ってきたのが、「マスコミ報道姿勢」なのです。

 

事実を伝えウソを付かなければ、何も本当の事を伝える必要はありません。

 

人々は行き先不明の切符を、手にしながらその都度乗る列車を、乗り換えて未来に向かって進んで行くのです。

 

成功するには、「実力と運、それにタイミング」が、必要となるのです。


神道と仏教の大きな違い16

2022年04月14日 | その他

「望む未来」に近づけるために、本当に大切な事は、「自分を好きになる事」です。

 

自分を好きになり自分を大切に思えるようになれば、過去や未来の自分から助けられやすくなるだけでなく、自分の中に存在するインナーチャイルドも癒され、助けてくれるようになります。

 

「インナーチャイルド」とは、子供時代の記憶や心情感傷、自分の中に住み続けている、心に傷を負った子供、内なる子供と訳される事があります。

 


神道と仏教の大きな違い12

2022年04月06日 | その他

無の存在は、知覚する事は出来ませんが、イメージする事は出来ます。

 

例えば、自分の周りに物が何も無いと言っても、「空気」は存在しています。

 

宇宙空間に行ったとしても、「空気が無い」と云うだけの事で、目には見えませんが、宇宙空間にもぎっしりと詰まった分質が、存在しています。

 

現実世界は、「氷の塊り」であるが故に、全ては「ひと塊り」になって繋がった状態で、存在しているのです。


人類の究極の課題4

2022年02月23日 | その他

「人類の究極の課題」を解明しようとして、おシャカ様は「出家」されたのではないでしょうか。

 

おシャカ様は、当初は人間的な生活の全てを尽くして、訓練修行されたのです。

 

然し「無条件で満足出来る道」が、得られず失望されたのです。

 

その結果おシャカ様は、更に「自分自身が自らの真相」を、省みられたのです。

 

今で言えば「問題意識」を、持たれたのです。

 

そうして「今日迄の問題」は、認識自体が認識上に有(在)って認識の自在なる活動(働き)の為に惑わされて、そこから一歩も出る事が無かった事に、気付かれたのです。


人類の究極の課題3

2022年02月21日 | その他

仏教では「人類の究極の課題」である、この疑問の起こる波を、「無明の煩悩」と、説いているのです。

 

この「無明の煩悩」が、滅しない限り人間の苦悩も、完全に救う事は出来ないのです。

 

例え沢山の人が研究を重ねて、仏教に同一な結論に達し、各自が理論的に決定しても、彼等自身が「真理」は此れで善いのかと、自問自答する時、真面目な正直な考えを持つ人であれば、あるほどに自分自らが迷うのが、落ち着く処ではないでしょうか。

 

この様に考えてみれば見るほどに、人間は迷いに迷いを重ねて、浮かぶ瀬も無き哀れなる者と成ります。

 

これが人間を苦しめ悩ます処の「無明の煩悩」なのです。


仏教の真理2

2022年02月15日 | その他

仏教を真理として「仏教を絶対的なもの」として見てしまうと、「法 その物」を求めるはずであるのに、その内容を覚えてしまい、尺度として基準立場を持たない、「偏見・法見(ほっけん)・空見(くうけん)」を持って、そこで行き詰まってしまいます。

 

偏見(各人の偏った見方)、法見(法にとらわれた見方)、空見(今の事実でない見方)もその内容は違っても、「我見」と全く同じものです。

 

その「我見」を放ち落とすのが、修行でなければいけません。


身心脱落脱脱落身心9

2022年01月14日 | その他

ですから「眼横鼻直なることを認得して仏法無し」と。

 

又「参学の大事ここに了(おわ)りぬと」明確に述べられているのです。

 

「身心脱落」してもう一つの「脱落身心」をした様子と云うのが、「波羅提木叉(はらだいもくしゃ)」と云う「個々の脱落」と云う事なのです。

 

お釈迦さまも「遺教経(ゆいきょうぎょう)の中で、はっきりと述べられて居ります


信心脱落脱落信心3

2022年01月02日 | その他

道元禅師は、こう述べられました。

 

「眼横鼻直(がんのうびちょく)なることを認得して、ほんの少しの仏法も無い 一生参学の大事ここに了る」と。

 

自分は眼は横鼻は縦についていると云う其の事だけを知って帰って来た、と。

 

その他にほんの少しも仏法も無い事がわかった、仏典や祖師の言葉の中に仏法は無かったと云う事を、仰っています。

 

此れが所謂「絶学」と云う事です。

 

大死「たいし」一番の時が、信心脱落なのです。

 

死に切った状態だけが有(在)るのではありません。

 

同時に本当に隔て無く生きる状態・大活現前「たいかつげんぜん」が無ければ成りません。


新三法印「今の事実」1

2021年11月30日 | その他

三法印とは、三つの「法印」と言うことです。

 

即ち「仏法の印(しるし)」です。

 

仏教と他教を区別する特徴的標識です。

 

私は現代に於ける新三法印として、実相無相(じっそうむそう)、不知不識生(ふちふしきしょう)、本来成仏(ほんらいじょうぶつ)を、提示させて頂きます。

 

先ず第一の実相無相「じっそうむそう・実相は無相なり」と言うのは、おシャカ様が摩訶迦葉(まかかしょう)に「法」を伝えた時に発したお言葉です。

 

「実相」とは、本当の相「すがた」ということです。

 

本当の相「すがた」は、「無相」なのです。

 

相が無いので、認める事が出来ないのです。

 

其れを私は、事実として認めるべきものは何もありませんと、言っているのです


三法印まとめ2

2021年11月28日 | その他

一刹那に九百回の生死(生滅)をするのですから、「我」というものを何処に求めることが出来るのでしょうか。

 

諸行無常のお陰で私たち衆生は世界を我が物にすることが出来るのです。

 

「我」というものが無ければ皆、我が物なのです。

 

向こうに相手を認めているから六尺の体だけになってしまうのです。

 

「諸法無我」を本当に覚ったものを「涅槃寂静」というのです。

 

一寸でも自己を認めると相手を認めてしまいます。

 

相手があるから”ケンカ“をするのです。

 

諸行無常が分かり、諸法無我が分かれば”ケンカ“の仕様がないのです。