たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

映画(はやぶさ 遥かなる帰還)

2012年02月19日 | その他

 

2012 67回ぎふ清流国体 冬季大会 歓迎 ミナモ(水面) 

はやぶさ 遥かなる帰還」を見た。公式サイトの絶賛の声を抜粋すると、
何もかも素晴らしい。日本人の誇りと自信を取り戻させてくれる、一億必見の映画だ。(東京都知事、石原慎太郎)
SFではない本物だからこそ親身になれる。力づけてくれる、嬉しい映画だ。(漫画家、松本零士)

たまには映画もいいね。昨晩珍しく NHKニュースウオッチ9 に野田首相が出演され、増税法案の来月末国会提出方針を決めて、熱いメッセージを届けられた。その画面に大越キャスターが、映画 「三丁目の夕日」 を使ってインタビューしていた。この映画を見たいと近くのショッピングモールのワーナーマイカルを検索したら、「はやぶさ」も上映していると分った。
先ずこの映画からと、モーニング喫茶の時間調整をしその足で見に行った。

今日は土曜日なので、昼正午過ぎの開幕時間にはモールは人で一杯だった。並んでチケットを購入、シルバー料金なのでいつも1,000円。前は席を自由に選べなかったが、今度は好きな席を選べと言う。もうどこへ行っても免許証なんて確認しない。顔つきや所作で年寄りと判断される。

映画の内容は、太陽より遠い宇宙の彼方にある、小惑星イトカワのサンプルを採集して帰還するプロジジェクトの苦闘物語。2003年5月9日に小惑星探査機(はやぶさ)が打ち上げられ、2010年6月13日、いくつものトラブルを克服し帰還させる7年間の物語だった。

プロジジェクトのリーダー山口教授役に渡辺謙、大事な部品を作った町工場の老社長役を山崎努と老練な役者二人で固めてやはりよかった。渡辺謙は「硫黄島からの手紙」もよかったな。「父親たちの星条旗」勿論見た。謙の英語は本物と当時賞賛されたね。今回もそのように聞こえる。感動したね。観て損な映画ではなかった。

イトカワ惑星の名は日本の宇宙ロケットの祖、糸川博士にちなんで命名されたというイントロから始まって、エンディングのスタッフ、キャスト字幕には糸川博士の昔の写真を何枚か紹介した。イトカワはやぶさはやぶさとブログはいっぱいあるなぁ
3月には柳にどぜうが二匹で「3D版 おかえり はやぶさ」が予告されていた。この映画とは別編なのでご注意を。
観客は親子連れ含め20人ほどのガラガラ、時に自分ひとりのこともある。10スクリーン、1700人収容は大きすぎるね。
私は10代の終わり、勤労学徒だった頃から無類の映画好きだった。三丁目の夕日は近く見る。2005年の映画が何で今頃上映してるの。

(陛下の手術は成功、よかった。入院中の母の容態は安定した)

 

 

 


読書(がんと闘った科学者の記録)

2012年02月18日 | 読書

・がんと闘った科学者の記録 戸塚洋二、著 立花隆、編 文芸春秋社 2009.5刊
本の紹介です。過去記事で2回戸塚先生のブログを紹介しましたが、このブログが本になったものでした。

以前から交流のあった立花氏が著者の死後本に編集されたようだ。立花氏が序文で(この方は膀胱がんを罹患)
”本書は「文芸春秋」2008年9月号に「あと三ヶ月 死への準備日記」という形で発表された(’08文芸春秋読者賞受賞)、故戸塚洋二・東京大学特別栄誉教授が密かに匿名でインターネットのブログページに書き綴っていた、がんとの闘病記録である。
単なる闘病記ではなく、さまざまなことを書き連ねた随想録になっていて、実にその内容が豊富である。人生論、科学論、自然論、医学編、教育論、社会論、宗教論、時代論などあらゆるものに筆が及んでいる。”
と、述べている。序論で立花氏と戸塚氏との過去の親しいつきあい等が述べられていた。

帯には”「恥ずかしい死に方はしたくない」ニュートリノ観測でノーベル賞が確実視されていた物理学者が、最期の11ヶ月に綴った病状の観察と死に対する率直な感想”

ブログを始めた目的は、離れて生活している子供や、私の兄弟、知人らに近況を知らせること、そしてブログはつれづれなるままに書き・・という事で始まっている。
闘病記は、私は商売柄どうしても数値化しないと気が済みません、と冷静に自分の体ががんに侵されていく様子を、数値化、図表化し観察していく科学者としての第三者の目の記録が圧巻です。
CTの画像を医師に無理を言って貰ってきて、写真をライトパネルに固定し、マイクロレンズを装着したデジカメで撮影、電子ダータ化してブログにアップされたらしい。楽しんで書いておられるような様子に驚きます。

私が興味を引くのは同じ大腸がん。直腸とS字結腸の一部を摘出されたらしい。2000年に見つかり近傍のリンパ節3個に転移が見られステージ3aと、進行した発見だったこと。
仕事場の奥飛騨の地、現在飛騨市神岡町茂住(もずみ)の地は、私の故郷から4、50km、一時期私の仕事エリアでもあった地です。
辺鄙な神岡鉱山の廃坑後に作られた、ニュートリノの観測施設で20年も過ごされたこと。仕事場は金龍寺さんから一軒挟んで南側にあった。
私はこの金龍寺へも親戚の葬儀でお参りしたことがあります。その際の喪主挨拶でも「トンビがまともに羽を広げられないほど狭い空で・・」と述べられました。それほど狭く日当たりの悪い地、国道41号線が改良されて便利にはなりましたが買い物の店も乏しい侘しいところです。
この奥飛騨の自然を情感豊かに語っておられます。

ブログににも大腸がんになった原因を飲み過ぎと自嘲しておられますが、立花氏が序文で書いているように、著者の酒の飲み方は度数の高い酒を、割らずにストレートにグイグイ飲んでしまう、東大助手時代にドイツに留学し身に付けたという記述にも驚いた。

2000.11 最初の大腸がん手術
2004.2  (再発)左肺に転移 2ヶ所手術で切除
2006.9  (再々発)右肺に転移多数手術不可
2006.4  化学治療開始
2008.1  肝臓に転移発見
20062  骨に転移発見
2006.3  脳に転移
2008.7  逝去 2004文化勲章受賞

転移したらどうしようもないと、この本でも、妻を看取る日の本でも実感した。変に化学療法で苦しい思いをするより、緩和治療を受けて死を待つという選択肢があるとも思った。
それに大腸摘出や胃の摘出をやると、イレウス(腸閉塞)が起き易いことは知っている。戸塚先生は何度もイレウスが起こり苦しかったと思った。
それに同じ名文でもWeb文書と活字で読むとのは随分感じが違いますね。やはり活字の方がよい。

若い女性のYUKAさん が闘病生活と、イレウスの苦しさをアップしている。これに比べると私の後遺症や予後は幸運だったと言えるのかも知れない。

 

 


確定申告

2012年02月17日 | 日記

ブログの新着記事を見ていると確定申告というタイトルが出てくるようになった。ブログなどで日を取られていて昨日の午後から今日の午前中まで入力にたっぷり一日かかった。

平成17年申告分から国税庁のホームページからダウンロードし電子申告で作成する。e-Taxはやっていない。・電子証明書を市の窓口で取得・ICカードリーダライタを4~5千円出して買ってまでe-Taxにするメリットは無いのではないか。

途中まで入力して保存、また呼び込みを繰り返して帳票作成と印刷だけWebを利用している。近年私のような納税者には税務署が行政コスト削減とかで、手書きの帳票と申告の手引きは送ってこなくなりハガキの案内だけになった。

このシステムは感心しない。毎年少しづつ改善されてきているが作りの悪いシステム。手順に従って入力していくと自然にできてしまうというには程遠い。変にくどい面もあり経験者はともかく初心者は難渋する。ダイアログボックスで問答しながら入力して行くと自然に出来上がるシステムに改善して欲しい。ダイアログボックスとはパソコンの最も優れた点、システムとの「対話」のことである。

それに税務署員も認めていたがシステムが重い。今年は少し軽くなったがアクセスが遅く、マシンのメインメモリが256KBなどの研修施設では動かなくなってしまった。数年前私の元会社は情報通信会社だったので、お客さま用研修施設を借り、旧友会役員に頼まれて半日ほどOB達に電子申告の研修会インストラクターをやった。

医療費控除のための集計もシステムで入力できるが、バス代も確り計算してとなると、エクセルで別途合計した方が正確で、計算が手際がいいのでいつもそうしている。
私などここ数年、分厚い医療機関の領収書となる。昨年、一昨年は相談会場へ持って行き、療養の参考にしたいので、その場でチェックして領収書を返してくれと頼むと、大量なので「信用します、その代わり3年間は家で保存して下さい」と、署員が良心的だった。
意地の悪い人だとこうはいかない。返して貰うには返信封筒に切手付で提出か、窓口確認と決まっている。今年は対象額10万円を少々割って、珍しく控除額に達しない、むしろ幸いな年だった。

社会保険料は年度で徴収計算され通知されるし、確定申告はなので手計算して申告していた。勿論証拠書類なんて付けなかった。珍しく今年はハガキで「国民健康保険料、介護保険料、後期高齢者医療保険料」の三種が二枚のハガキで通知された。昨年、私は後期高齢者の適用となって医療制度が変ったので二通になったのか。

ところがこの国保の徴収額がハガキで通知された額と、毎月の短冊で通知された徴収額が一致しない。6千数百円の差があるのは何故?と市のWebフォームを通じて質問してある。
ここ数年高額医療のお世話になってきたし、医療費も大きいので必然的に市からの書類にしっかり目を通す。過去に何と高額医療費還付額の計算間違いとか、説明パンフの誤記載とか、わが市の国保課長は私に叱られてばかりだった。

嫌がらせでもクレーマーでもない。市民の為の正義のという主旨なのだ。さて今年もまた一筆書いて来宅されるのか?

退職した年の確定申告では、後日過少申告があると摘発され、呼び出しと追徴、延滞金の罰則税まで来たことがある。この申告の際の税務署とのやりとりに疑義があって、窓口では埒が明かず正式に「異議の申し立て」をした。税務署がこの処置に困って、後日別の担当者が来宅し申し立ては取り下げてくれ、代わりに便宜措置を講じて返すからと、変な示談に応じ16万円余を返してもらったこともある。会計事務所に聞きにも行ったし、お礼の電話もしたことがある。 

後記)市から通知の国保の徴収料の質問に返事が来た。それによると世帯主が長男で嫁が昨年の一時期、パート収入の金額で扶養家族から外れ、国保加入となった時期がある。そのため6千円数百円余の追加納入があった。6千円数百円余は嫁が現金で別途納入していると判明した。なのでハガキの通知は正しいとの返事だった。私は長男の扶養家族ではなく自分の銀行口座で国保は振り替えしている。国保制度は世帯主が被保険者 、その世帯主は国保加入ではない。非扶養の私だけが国保だったので・・という次第だった。

後期高齢者になると、年金から特別徴収と言って評判の悪い天引きになる。満75歳に達した月から当年度の残余金は年金天引きされるのではなく、今までの国保の口座から銀振でもなく、説明書も無く、現金納入の請求書だけが突然来る。何とも市民には分り難い、不親切、不合理なシステムも改善して欲しい。

 


読書 「妻を看取る日」 その2

2012年02月16日 | 読書

歳を取って一番の願いは下の世話にならず仕舞って逝きたいというのが皆の願いです。
・妻を看取る日 垣添忠生 新潮社
感動する場面はいくつも書かれているが、昭子さんが最後の入院で、薬のせいでかなり頑固な便秘になる。”毎日の排泄は大仕事・・だが妻は、特に大は、私がいるときは必ず私に世話をさせた。 「あなた下手ねぇ」、「俺の専門は泌尿器科だから、小のほうをとるのはお手のもだが、これでは屎尿(しにょう)器科医じゃないか」と、落語のような毎日を続けているうちに、私はメキメキと腕を上げていった。「排泄は人間の尊厳に深くかかわる」と。” 素晴らしい夫婦愛ですね。なかなかできるものではありません。

日本のがん医療の頂点に立ち続ける立場で、愛する妻をがんで亡くすことは自分の恥だと、最先端医学と同僚医師の最大協力でも治せなかった悩ましいがん。一般人はこれほど早期に発見され、以下のような重厚治療は受けられない。(以下は似たようながんに悩む自分のためノート代わりにメモした) 

・もともと病弱な昭子さんは膠原病で何十年もステロイド剤を服用していた。
・2000年に肺腺がんが発見され左肺切除手術する。(これは非小細胞がん:一般的がん)
・数年して今度は甲状腺がんになり甲状腺の大部分とリンパ節を摘出する。
・そして数年後また頸部の腫れが見つかり、甲状腺の二回目の手術をする。 
・2006年の春、がん専門病院の肺診断の名手といわれるDr が右肺に5.5×4.6mmほどの影を見つける。
・--小さくて確定診できない--経過を診る--3ケ月後CT--さらに2ヶ月後CT、明らかに大きくなる。
・2006.9~10前歴から--非健保治療・陽電子治療を受ける(費用20回、283万円)--
・2007.2CT右肺門部に影--CT検査下のリンパ節針生検で「肺小細胞がん」の転移を確認。第三の原発性がんの発生を確認。(治療の難しい小細胞がん)
・2008.3~8化学療法、抗がん剤 6~7月放射腺治療20回、5ヶ月に及ぶ治療終了。
・2008.10再々発発見、MRI,PET-CT多発性脳転移、肝転移、肺転移、副腎転移確認。新たな科学治療開始、夫の医学研究のために受忍したようだと。
・2008,12末期を迎える、大晦日との4日を自宅で過ごす。31日永眠された。

肺がんはがん細胞の組織の型によって四つに分類される。まず、小細胞がんと非小細胞がんに大別され、非小細胞がんには--腺がん扁平上被がん大細胞癌の三つがある。
(私も罹った)腺がんと呼ばれるのは、胃液を出す胃腺のような腺組織に形がよく似ているからだ。肺の奥深く、気管支が細かく枝分かれした末端にできやすい。女性の肺がんの7割を占める。
・現代医学では肺の小細胞がんスキルス胃がん膵がんなどは時に治療が難しい。
・胃がん、大腸がん、乳がん、子宮頸がん、通常の肺がんは早期発見なら悲劇を防げる。
・適切ながん検診を受けること、すぐたばこをやめること、とあった。
・緩和医療は平均して3週間から1ヶ月の緩和医療を受けて、終末期の病態を得て患者は亡くなる。(私の亡妻の14年前は緩和医療というものはなかった)
・今後は残された夫のグリーフケア(悲嘆の癒し)論を体系的に研究されるとあった。
・先生も後日、うつ状態になり、酒びたりになり、妻の服や靴が目に入っただけで、涙がふきだし・・。

皆同じだなぁ。垣添先生は立ち直りが早く立派だ!私の場合はもっとひどかった・・いろいろあった。精神力、生活力、地域から孤立する情けない男やもめ、義母が言った、男やもめにウジがわき、女後家に花が咲くって・・甘ったれの末路かなぁ! 


読書 「妻を看取る日」

2012年02月15日 | 読書

感想文というほどのことは書けないので本の紹介です。図書館の本、
・妻を看取る日 垣添忠生 新潮社 2009.12刊  -国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録-

先ず一昼夜で一気に読めた。それほど亡くした妻を想う悲嘆の気持ちがストレートに読者に伝わり共感を呼ぶ本だった。それに文章がいい。わかりやすい表現で著者の言いたいことがスーと入ってくる名文だ。
若い頃東大病院泌尿器科の助手として勤める傍ら、膀胱がん(私も患った)はやたらと再発するので、国立がんセンターの生化学部長だった杉村隆博士を訪ね、膀胱がんの研究をされた。そこで杉村先生に徹底して作文指導も受けたそうだ。エピローグにこの本の出版にあたり、杉村先生に細部まで校閲とアドバイスを頂いたと謝辞を述べておられる。この人にしてこの師ありだ。

つまらん解説をするより、わが市の図書館の意図で表紙の裏に本の帯を切り取って貼ってあって助かる。その宣伝文、
”定年を迎え、妻とののんびり過ごしていこうとした矢先の出来事だった。わずか6ミリの影が、妻を襲った。1年半にわたる闘病生活、自宅での看取り、妻亡き後に押し寄せてきた絶望感、そして、人生の底から立ち直るまでの道のり--。日本のがん医療の最高峰に立ち続ける著者が、自らの体験を赤裸々に綴った。”

こんなに慕われる妻とはどんな人だったのか。患者であった人妻(別居中にあった)12歳年上の昭子さんの聡明さにいっぺんに好きになる。互いに家も300メートルほど、家族に大反対され、雨が降っていたので傘一本持って家出し、昭子さんの実家に転がり込む。互いの波長がピッタリの夫婦だったそうだ。

彼女は津田塾大で英語を学び、結婚後東京外語大でドイツ語も学ぶ。英語論文や国際会議の交流、社交で氏を助けた。終末医療の4日間を自宅で過ごし大晦日の日、「ありがとう」の一言を最後に昭子さんは逝く。3日間誰にも会わず彼女の顔を見て過ごす。弟夫妻が聞きつけて新年の4日に3人で直葬で送る。故人のたっての希望に沿ったがこれが後で親族の怨嗟になる。享年78、当時の著者は66歳、本の出版時は68歳。こどもはいなかった。

意外だったのは冒頭の生い立ちの記。父が銀行員で両親の故郷が何と飛騨古川、1941年(昭16年)太平洋戦争が始まり、その年の暮れ大阪から父の故郷へ疎開する。
頼った”親戚の農家には米や野菜はたくさんあるのに出し惜しみする。あるとき親戚の茶の間を覗くと親戚の子が銀シャリの山盛りご飯・・”4歳の忠生少年は傷つく。リンゴも兄弟で半分とひもじい思いをする。戦争が終わり作者が6歳になった一家は大阪へ戻るのであるが、”この飢えの呪縛が、疎開先を再訪しようとは思わなかった。これからも、二度と訪れることはないだろう”と、ビックリの記述だった。小学校に上がる前の利発な少年、飢えのトラウマが今にこうなのかと。

おやおや!飛騨古川は私の故郷から20kmくらいの近さ、垣添姓は多くない。先行きの見えぬ戦争時代、転がり込んで疎開してきた叔父一家に親戚は当惑したのであろう。私の亡妻一家も満州から戦後引き上げてきて、同じような境遇にあった。なまじ血が濃い関係であるが故に抜き差しならなくなるのは世の習い。
誰でも好きな藤沢周平の時代小説で厄介叔父という言葉が出てくるが別の意味だ。

昭子さんのがんは甲状腺がん、そして肺がんで再発、悲嘆も経験済み、他人事だと読み過ごせない本だった。(私もこの二つを罹患)(つづく)

「三歳の童子といえども導師たり--藤沢秀行」囲碁棋士(仏教講座 元岐大教授 藤田敬一 氏の講話)

 


妻恋の書

2012年02月14日 | 読書

 

ふるさとは名残雪  わたしは祈ります

・「このがんこの病院」 1990.7刊 朝日新聞社
この本は、家人が苦しい末期の病床にあったとき(1997.10~98.6)最後の入院から死ぬまで世話になった病室へ、息子が買ってきた本である。
この本は朝日の医療記者5人が名だたる名医を訪ねて問答形式で記述した良書である。随分役に立った。

・「妻を看取る日」 垣添忠生 2009.12刊 新潮社
昨年いつだったか、朝日新聞に「妻見送った医師の苦悩」国立がんセンター・垣添名誉総長が著書」と紹介した。これを切り抜いた。
”過去に何人もの患者を見送り、家族を失う悲しみは理解しているつもりだった。だが、そのつらさは想像を超えていた。1人残された男性が「死ねないから生きている」どん底の日々から、生きる力を取りも戻すまでの2年間の記録。2人にこどもはいなかった。40年前12歳年上で既婚者の昭子さんの聡明さにひかれ、駆け落ちまでした・・葬儀は弟夫婦と3人で執り行った。”

初めに紹介した本、膀胱がんの項目は当時国立がんセンター病院病棟部長だった垣添忠生氏との一問一答である。写真も載っているが24年前当然若い。最後は総長までやられこんな医師だったのか。是非読まねばならん。新聞を切り抜いた。膀胱がんはその後自分も罹患することになって何度も読み返している。

似たような記述を思い出した、家人が末期入院の際、病院の喫煙室に置いてあった
・週刊朝日 1997.11.21 リレーエッセイ 「ひと、死に出あう」 倉嶋 厚
気象キャスターのさきがけ、NHKの天気予報番組の視聴率を大幅アップされた名キャスター。わずか2ページのリレーエッセイながら”妻との死別の悲しみは深く”慟哭の記録である。
これも当時コピーしてきて、わがアーカイブス(永久保存)になっている。身近な方が家族を亡くされるとお悔やみの手紙にコピーして送ることもある。
氏のエッセーを後日、別の雑誌で読んだ。死のうと思って住んでいるマンションの屋上から飛び降りようと試み、怪しまれないようカメラなど肩にうろうろされたらしい。
その後、気の毒に思った同じマンションの老婦人が、身の回りの世話をしてくださっていると記してあった。当時の氏は73歳。この方にもこどもがなかった。

「がんと向き合う6冊」朝日(2011.12.27)に昨年妻の歌人河野裕子さんを乳がんで亡くされた、永田和宏さんが新聞社の求めにより寄稿された。氏の推薦の6冊
・妻を看取る日 新潮社 垣添忠生
・いまも、君を想う 新潮社 川本三郎 食道がんで逝った妻の妻恋の書とある。こどもはいなかった。
・紅梅 文芸春秋 津村節子 舌癌とすい臓がんで逝った夫吉村昭との最後の日々を小説に綴った。
・がん 生と死の謎に挑む 文芸春秋 立花隆 NHKの特別取材班と記録。
・がんと闘った科学者の記録 文芸春秋 立花隆がまとめた科学者戸塚洋二の11ヶ月の自己観察記録。
・蝉声(たんせい) 青磁社 河野裕子 鉛筆を握る力がなくなると、家族の誰かが口述筆記した最終歌集。

永田氏は歌人でもあり、現・京都産業大総合科学部長、前職は京大再生医科学研究所教授の細胞生物学者である。現在朝日歌壇の選者のひとりだ。
今年の歌会始詠進歌選者でもあった。お姿はその中継テレビで拝見した。わが市の図書館の本を検索するとこのうち3冊があった。誰かが読んでくれる日を本が待っている。近いうちに読む、ブログなどやる暇はない、やるのではなかった。


くるねこやまと

2012年02月13日 | 日記

蒼空 市営墓地公園 

過日、小6の孫娘が「おじいちゃん、あの何とか言うお店へいろんな動物を見たいので連れてって・・ねぇお願い・・お友達が来てるので」と、せがむので寒いしもう夕方近く、こんな時間にと愚痴りながら、わが三孫の一番下の頼みじゃで聞いてやならあかん。

どこにそんな店ある?と聞くと元のイトーヨーカドーの跡とか。車に友達と乗せて行ってみたら何のことはない、開店間もないホームセンターのペットショップだった。
ヨーカドーは30年もっとだったか、ここで大きな2階建てのスーパーショップを営業してきたが、不採算店整理の対象となって2年ほど前に閉店した。2階は衣料を扱っていたし、食材などかなり利用した。ここらへんはスーパー激戦区なので儲けが少なくなってきたのであろう。

その跡が同じような店でバローホームセンターとショッピングセンターが新規開店していた。
子供達をペットショップに残し隣接しているスーパーで食材など買って、店員に何時開店したのと聞くと11月末だといった。

ホームセンターへ戻り、レジの店員に話しかけたら「少し店が大きすぎます」。
ペットショップの猫や犬の子を見ていた彼女達を見つけ、店員に「最近新聞でこういう店が動物愛護の法規制を受けることになったと新聞で読んだが・・」、と話しかけると若い女性店員は答えに窮し、店長らしき女性が「深夜の規制です。深夜まで営業の店は動物にブラインドをして、寝ませなさいと規制されたのです」と答えてくれた。
「ところでよく売れますか、最近のブログは犬猫のブログが大人気です」と余分なことを聞くと「ホント、そうですね、よく売れていきますよ」。

お礼を言って離れ、食材スーパーの隅にできたたこ焼き店で「夕食近いし4個か6個にしてな」と牽制、彼女達は察して200円のポテトを、爺は140円のホットコーヒーを選んだ。

犬はともかくこの団地へ住んでから40数年、猫の糞尿公害に悩まされて今に至る。飼い主は平気なのだ。隣接する家の猫ちゃんは確り管理されていて一人外出厳禁、いつもひも付き散歩でマナーがよろしい。

友達を家まで送り「ご馳走様でした」彼女はマナーがよろしい。夕食がすんでから二人と後1人と編み物教室へ行くという。近くの方が無料で教えてくれているらしい。二人は車の中でAKBをハモッちょった。

日にアクセス25万とか人気記事ランキングの常連、ねこ漫画「くるねこ大和」さんをまたも見てしまう。なんだ「だがね・・」なんて名古屋弁丸出しだがね。女性のプロの商業デザイナーさんか、近くのブロガーなのだ。孫が動物を欲しがるのは分るが手がかかるからね。マウスで我慢だがね。(この稿草稿のまま保存し3週間ほど、忘れるとこだったがね)

 



 

 

 

 


おだやかな日曜日

2012年02月12日 | 音楽

今日2本アップしたら美濃加茂の山登り君が3回目のコメントをくれた。数日前愛知県に住む高校級友が久しぶりに二人に同報メールをくれた。その返信に宣伝しない方針だったブログをポロッと言ってしまってばれたからである。(口が軽いと神さまの声・・)

彼は爺の大事な級友の1人、文才もあり素直な文章を書くといつも誉めている。彼は趣味の山登りのホームページ、観音さま参りのブログをアップしている。元気者です。コメントありがとう。

今日は朝11時頃恒例の喫茶店で朝、昼兼用のモーニング。夕方行きつけのココ一番屋でポークカレー200gの軽量とお決まりメニュー。300gが普通で430円⇒200gは380円とこのチェーン店は良心的。この店のカレーが不思議と飽きがこない。

近くのスーパー銭湯へ行く。昨年ゴルフで痛めた左手首を電気風呂でブルブルやっていたら、若いパパに連れられておもちゃのじょうろを持って1歳半くらいの女児が入ってきた。爺との間にいる中年爺じがこの子の背中にお湯をかけている。一家だ、あまりに可愛く眺めていて、電気から上がったら爺にバイバイしてくれた。天使ですね。

帰ってネットニュースでポップの女王ホイットニー・ヒュ-ストン48歳死去を報じていた。彼女のCDは2枚持っている。一枚は全世界で4千万枚を売ったとニュースでいっている、映画ボディガードの主題歌 ・I WILL ALWAYS LOVE YOU (アイ ウィル オールウェイズ ラヴ ユー)が入っている、オリジナルサウンドトラック盤である。 6~7年前この近くのビデオレンタルショップが閉店し、レンタルCDの中古を200円で販売した一枚だ。彼女の伸びと透明感のある高音が消えてしまったのか。合掌(ひまつぶしに今日3本目のアップ)

Whitney Houston - I Will Always Love You - Lyrics

P.P.K

2012年02月12日 | 日記

70歳になったとき健康保険証とともに小さなパンフが入っていて、健康管理を確りやってP.P.Kで逝くようにと書いてあってPPKはPIN.PIN.KORORI、ぴんぴんころりの頭文字とあって笑った。70歳を過ぎると誰でもぴんぴんころりを願うようになる。

入院した母の容態を今朝電話で聞いた。看護士さんにありがとうが言えるらしい。頭はモウロクしているので話しかけても、うろうろした反応は入院前もそうだったので、意識は十分あって入院で健康状態は取り戻したということだ。

病院の付き添いも、完全看護なので食事の介助が必要なら意味もあるが、嚥下できないので付き添っていてもしかたがない、小康を得て落ち着くようなら家人は家に帰って病院へお任せでもいい、病院から帰宅するとき家族にそう提案した。兄はもしもの臨終に立ち会えるかどうかだけのことなのでそうするといった。

今朝電話で姉に聞くと昨晩から、昼間だけの付き添いとし夜は帰宅にしたといった。それでよい。

平成10年に逝った亡妻はその前年の10月入院、8ヶ月余を完全付き添いを自分と、妻の妹に頼んで、土曜の夜は長男として分担して付き添った。乳がんが骨転移して痛みで食べることはできなかったし、付き添いは必要はないが、痛みが強烈で置いて帰るという非情なことができなかった。胃に何もないので緑色の膵液を時々嘔吐するし、そういう時付き添いが役立った。

補液はがんが食べるだけなので水だけ、後はモルヒネの点滴だけ、それも最高21アンプルを入れた。バッグに21Apとマジックで書いてあった。1アンプル1CCでそんなに使う患者は知らないと、家の近くの60歳近い看護士さんが当時話された。

医療費はいくらかかるか、これが問題なのだ。ワープロに入れてフロッピーディスクに保存しておいたら、使わないからかこの機械が故障し立上がらない。メーカーは諦めてくれといってデータを取り出せない。看護日記、医療費、葬儀など一切が入っていた。

手書きのメモをみると一日4,500円の個室料で月30万円前後を支払っていた。今の医療費と大差はない。長期個室入院はこの経済負担が家族を圧迫するのである。 

・妻を看取る日 垣添忠生 国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録
を一昼夜で読了した。その中にもがんの骨転移は痛みに耐えられないとあった。
・がんと闘った科学者の記録 戸塚洋二著 立花隆編 を今日から読む。
図書館の本である。その前に過日甥の長男のマシン・アップルを借りた縁でブラウザをApple Safariを入れた。前に入れていて使ったことがある。このブラウザは立ち上がりが早いね。 今日は2本目のアップとなった。


ニ上山 (にじょうざん)

2012年02月12日 | 旅行

ふるさとは名残雪

あるとき高校の級友と、彼の趣味・仏像彫刻の師、東京・浅草在の著名な仏師と三人で大和の国と河内の国境になる二上山(にじょうざん:ふたがみやま)のふもとにある當麻寺(たいまでら)を訪ねた。

この二上山には大津皇子が葬られている。大津皇子(おおつのみこ)は要するに皇位継承争いの犠牲になられた皇子であろう。
”686年(朱鳥元年)9月に天武天皇が崩御されると、1ヶ月も経たない10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意ありとして捕らえられ、翌日磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸で死を賜ったのである。日本書紀には妃の山辺皇女が殉死したと記されている。”(ウィキペディア)

”大津事件に連座した流僧・新羅沙門(しらぎのしゃもん)幸甚(こうじん、行心とも)は飛騨国の伽藍(がらん)に移された。(俗人なら流罪に相当)
行心の子である隆観(りゅうかん)が大宝二年(702)四月に、神馬(しんめ)を献じたことから罪を許されヒダ国の表記、「斐太」、「斐陀」、「飛騨」へとなったのではないかと推測されている。神馬とは龍馬のことで普通の馬ではなく空飛ぶ馬ペガサスです。”
・飛騨 よみがえる山国の歴史 和田萃(あつむ)京都教育大教授 基調講演
"この伽藍はどこか⇒最も有力候補なのが古川・国府盆地の(現存しない)寿楽寺です。"
・同上 八賀晋 三重大教授 基調講演 飛騨国府シンポジューム

私が生まれ育った飛騨の国名と、このニ上山は何かと縁が深いのである。そこで一度當麻寺へ行って見たいと思ったのだ。私どもが学んだのが斐太高校夜間部なのである。

古代仏教はこの二上山の山容が双頂で雄岳、雌岳が北南に位置し三尊来迎のイメージとピッタリの姿なので源信が絵画に残したのであろうか。西方浄土といって極楽は西にある。大和から見てニ上山は西に位置する。また源信は当麻に生まれた。

當麻寺へお参りしたとき居合わせ旅人が二上山の大津皇子の墓へ詣でたといわれた。質素な墓があるのみと答えられた。日本書紀は多分に勝者の側から書かれた歴史書ともいわれる。
      ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
                                                                       (万3-416)大津皇子
辞世の句として知られる。

山越えの阿弥陀図
は代表的作例としては京都の禅林寺本と金戒光明寺本がある。そのほかにも沢山あるようだ。