ふるさとは名残り雪 合掌造り(若山家移築) 飛騨金山 ドライブイン飛山
先週の土曜日、夜のNHKドラマ「家で死ぬこと」いかがでしたか。級友に見るようメールしたりブルーディスクに録画しました。雪の世界遺産「白川郷」の景色がきれいでしたね。
NHKの公式サイトに
美術担当 : 「ここはこの家でもっとも格式の高い部屋『仏間』です。白川郷は信仰心のあつい地域です。この大きい仏壇は白川郷の民家に不可欠な小道具のひとつです。」
平家の落人ともいわれ、大家族制度で生きてきた白川郷は、浄土真宗の飛騨国発祥の地でもあります。
”1253年(建長5年)親鸞の教えを受けた嘉念坊善俊は後鳥羽天皇の子とか孫と伝えられますが、美濃国長滝から飛騨国鳩ヶ谷(はとがや)に入り、正蓮寺を建立します。
正蓮寺を中心に飛騨国の浄土真宗は一大勢力となりました。
戦国時代正蓮寺の僧、教信は遷化して三島将監を名乗り、弟の明教(後の正蓮寺第9世)とともに勢力を拡大します。
やがて三島氏と帰雲城々主(きうんじょう)内ヶ島氏は勢力争いで対立する。1488年(長享2年)帰雲城々主内ヶ島氏為氏により正蓮寺は焼き討ちにあい三島将監は戦死、明教はかろうじて逃げ延びる。
明教の子である正蓮寺第十三世明心は、内ヶ島氏と和睦し1504年(永世元年)、飛騨国白川郷中野に寺院を復興し、正蓮寺から光曜山照蓮寺と改称しました。
内ヶ島氏と手を結んだことにより「照蓮寺」の勢力は拡大し、三木氏の後に飛騨国を治めた金森長近はそれを恐れ、1588年(天正16年)、高山城城下の現在地に「照蓮寺」(これが高山市鉄砲町にある高山別院と称するする照蓮寺)を移転させる。
移転後も建物は白川郷中野に残され、「照蓮寺」(「中野照蓮寺」)となる。”(以上ウィキペディア)
中野に残された照蓮寺はダムで水没する為、またも旧荘川村中野から、こんどは高山市堀端町城山公園の一角に移転しました。この照蓮寺の本堂は重文です。10代の終わり頃文化庁の直轄の移転工事を見ています。高山市には「照蓮寺」は二か寺存在し、二つとも中野から高山へ移築ですから混乱します。
ダムで水没するため、寺は移転し、寺の傍にあった樹齢450年の桜の巨木が残りました。これを電発総裁高崎達之助氏の助力で、付け替え道路の上までブルで引き摺り上げて移植されました。この難工事を指導されたのが、桜博士の笹部新太郎氏です。半分諦めていた村民の目の前に見事に活着し翌年芽吹いたのです。それが荘川桜です。
花の見頃は5月連休の頃です。開花を観光協会に問い合わせて是非ご覧下さい。ウソとい鳥が冬花芽をついばんでしまうので、J-Powerが冬の間巨木に巨大なネットを被せて花芽を守ります。
この国道端の小公園、中野展望台には念仏仏教をこの地に伝えた嘉念坊善俊像と、歌碑が建てられています。
すすみゆく 御代(みよ)のしるしと うもれても
荘(しょう)白川の 名をとこしえに (佐々木信綱)
ふるさとは 水底となりつ うつし来し
この老桜咲け とこしえに (高崎達之助)
3年前の同窓会では荘川桜と、最初の地、鳩ヶ谷に旧跡として残されているお堂に全員でお参りしました。
内ヶ島氏理(うじまさ)は、この内ヶ島氏の後裔、帰雲城に構えましたが、大地震で帰雲山が崩れ、集落ともども埋もれてしまいました。国道から荘川を挟んでこの山崩れを眺めることができます。
三島氏の子孫は荘川に現存し私がお世話になった頃の当主は当然、村の枢要な立場におられ、民謡の名手で家を新築され、総桧のご立派な家を見せて貰いに行きました。旧宅は文化施設、飛騨荘川の里に移築され文化財になっています。この施設で現当主の民謡テープをお聞き下さい。買い求めもできるかな。
その後、飛騨には百姓一揆大原騒動が起きます。その犠牲者に三島家から高山へ養子入りした上木屋甚平衛さんがいました。一揆の犠牲となって新島に遠島となります。
帰郷を許されずここで生涯を過ごし「新島のひだんじい」として島民から親しまれます。晩年を息子が島を訪ねて、在島8年父を看取ります。とにかく飛騨んじい 飛騨んじい 飛騨んじいです。
私は当時村の行事にお招きいただき、三島家現当主さん共々よく飲ませてもらいましたが、当時は名門と聞くのみで、詳しくは退職後少し郷土史を勉強して知ったお粗末さでした。
脱線しましたが飛騨は古代から今に歴史の宝庫で、昨日の出来事みたいです。