今日は母の日、わたしの母は明治37年2月28日生まれで、西暦では1904年となります。
平成10年、西暦2012年満108歳で亡くなりました。長寿ですね。
村の尋常小学校普通科4年課程を卒業し、愛知県木曽川町の機織屋に子守奉公に出たと聞いていました。11歳か12歳で働きに、食い扶持減らしに行ったのでしょう。
ある時、酒の場になりスルメを買ってきて・・と、小銭を持たされて使いに出たが、スルメが分からず、茶碗屋に入り「スルメはあるかな」と言い、大笑いされたと何度も聞かされました。
その後木曽へ糸引きにも行ったようです。
平成13年、在所の兄嫁の死亡届けに甥坊と役場に行き、ついでに父の除籍謄本を交付していただきました。
父安之助、母まつ、の4女と分かりました。父が出生届けを3月4日に届け出たとなっています。父とは大正14年4月13日(1925年)に結婚し入籍届出となっていました。
日本の戸籍制度は素晴らしいですね。達筆の毛筆で和紙に書いてあり今でも、永劫に保存されます。役場では身分、請求理由を書いて届け出る必要があり、正当な理由でないと受付ないようでした。わたしは請求理由を家族史の調査としました。
17歳の年齢差のある、先婦と死別したやもめ男の父と、母の兄が仲が良かったため二人が勝手に縁組した。21歳の春結婚したことになります。
その縁談が嫌で、隣村のお寺に再婚で嫁いでいた祖母のところへ、祭り見物を理由に逃げて、拝殿の柱にしがみついて、嫌がったのを兄に強制されたと聞かせされたものです。
8人の子に恵まれたが 上の 先に生まれた4人は亡くした。夏の盛りに下痢嘔吐をし、白痢でどの子も亡くなったと聞かされました。下痢嘔吐症・白痢の病名は近年ある元看護師から教えられました。
2008年5月11日掲載、104歳の時、地方紙・岐阜新聞の連載「ばんざい100歳」に駅前の新聞配達店の推薦があったとかで、カメラマンと若い女性記者が取材に来られました。ちょうど前の日がお祭りで帰省していたのでわたしも写真に入ることができました。
新築間もない仏間で、村でも腕利きの指物大工の手になる豪華華麗な千本格子の書院を背にした、プロカメラマンの表情豊かないい写真が残されました。後で頂いた写真をスキャナーで甥っ子がコピーし葬儀写真になりました。
6年前は皆若い顔で、母を挟んだ甥の子二人もまだ子供だね。
上の姉は今年春短大を出て幼稚園の保母さんになり、下の男の子は岐阜大学教育学部・数学科へ入学し教師を目指しています。
祖母である母も安心しているでしょう。