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故ピーター・ブレイク

2013年02月03日 | 風の旅人日乗
オークランドでJPN6630を臨時係留している
ウエストヘブン・マリーナのS桟橋の前には、



日本でいえば日本セーリング連盟に当たる
ニュージーランドのセーリングの国内最高機関、
ヨッティング・ニュージーランドの事務所がある。

その駐車場には、レガッタ開催時の支援車として
ニュージーランド各地のレース会場に持ち込まれる
トレーラーが2台、停めてある。



チームニュージーランドのスキッパーである
ディーン・バーカーや、
ニュージーランドのボードセーリング界の生きた伝説
バーバラ・ケンドールの写真に混じって、
故ピーター・ブレイクが遺した言葉が大きく書いてある。



写真が小さいけど、読めますか?
いい言葉だな、と思う。

2000年の3月末。
ピーター・ブレイクは、
ラッセル・クーツとブラッド・バタワースとチームニュージーランドとの
ゴタゴタをなんとか解決しようと最大限の努力をしながら、
それと並行して、
南極を経由してアマゾン河を源流近くまでさかのぼる
自分自身の航海の準備を進めていたのだが、
そのピーター・ブレイクに、共通の友人を介して
「この航海は無理だが、その次の航海には、乗せてあげることができると思う」、
と言ってもらった。

2000年1月にチームが予選敗退して以来、
日本のアメリカズカップ挑戦のありように、
ぼくはそのころ非常に深い疑問を持ってしまって、
これまでとはまったく異なる挑戦理念が必要であることを痛感していて、
ピーター・ブレイクからも、何かを学び取りたいと考えていたのだった。

その9ヶ月後の2000年12月、
ピーター・ブレイクがアマゾン河で海賊に殺されてしまうことなく、
ピーター・ブレイクの『次の航海』があったなら、
ぼくの人生はその先どんなふうになっていただろう?

いろんな偶然がたくさん作用して、
それぞれの人間の、今の人生があるんですね。



12年前、ここで、ピーター・ブレイクの追悼式典が行われた。
この芝生は、
ごく普通のニュージーランドの人たちで埋まった。

芝生に座るぼくの横を、人目を忍ぶようにして
サングラスをかけたラッセル・クーツとブラッド・バタワースが
通り抜けたことを、まるで昨日のことのように思い出す。

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