9月18日 日本の若者の海離れ

2010年09月18日 | 風の旅人日乗
仕事の合間、歩いている最中、寝る前の5分、などに、
「日本の若者が海に行かなくなっているらしい」、ということについて、断片的に考えている。

それは、よくないなあ、とは思う。
思うけど、そう考えながら歩いている最中に、
「なぜ、若者が海に行かなければいけないのか、その理由を述べてください」と、
前から歩いてきた若者たちに突然尋ねられたら、いまの自分はスラスラと答えることができるか、とても自信がない。

よく考えてみたら、ニッポンの若者たちが海に興味を失っているらしいことをぼくの周りで嘆いているのは、自分も含めて、海の職業関係者か、熟年に属するマリンスポーツ愛好家たちだ。

海の職業関係者にとって、次世代が海に来なくなることは、死活問題にも繋がる。
マリンスポーツ愛好家にとっても、そのスポーツが衰退していくのを見るのは悲しいことだろう。
だから、ぼくを含めたその人たちの嘆きは、ニュートラルな立場での感想ではないかもしれない。

そうすると、海にあまり関わりなく生きている大多数の普通の日本人の人たちは、日本の若者が海に行かなくなったことに、どういう感想を持っているのだろう?
ぼくの周囲にいる人たちの感想ではなく、その人たちの感想のほうが、代表的な日本人の感想ということになる。
でも、おおよそ予想できるその感想に、将来の日本がそのまま流されてしまうとしたら、
それは、やっぱりとても怖いような気がする。

もし、若者たちに、海に行かなければいけない理由を教えてください、と真摯な眼差しで迫られたら、
どういうふうに答えるべきか、今朝の行動開始時間前の、1時間だけ考えてみる。

ぼくたち日本の海関係者は、「脳」ではなく、「身体」で海から学んできた。
海が、海に向き合って生きてきた人間にどういうことを教えてくれ、どういうことを考えさせるようになるか。
そのことを、「脳」ではなく、海に「身体」をさらすことで、「身体」で理解してきた。
それを理解するには時間もかかるし、だれもが平等の深さで理解できるものでもない。

それは、さ、例えばインターネットを介して、平等に与えられる知識として無数の「脳」で瞬時に共有できる種類の知識とは違うんだ。

「脳」ではなく、「身体」をその場にさらすことで得る知識だから、言葉や文字に置き換えることは、とても難しい。

それをうまく君たちに伝えるには、昔の人類に、人類のあり方や生き方のヒントを与えてきたような、天才的な哲学者が必要かもしれない。

ナイノア・トンプソンというハワイ人がいる。
彼は、人間が「身体」に備えている能力だけで、何日もかけて大きな海を渡り、また自分の島に戻ってくることができることを、もう何十年も自分の「身体」で示してきた人だ。

ぼくには、現在の彼が、人間の備えている能力だけで何度も海を航海してきた「身体」の知識を通じて、人間と、一方向に進み続けている科学との関係のあり方を示すヒントを掴みかけているように見えるんだ。

ぼくは、ナイノア・トンプソンが、初めて海から生まれた現代の哲学者になる可能性がある、と思っている。

ナイノアが、海と人間と、どんなふうに関わってきたのかを、じっくりと一緒に見ていかないか?
そうしたら、君が、海というものに興味を持つことだって、有り得ないことではないと思うんだ。