2月8日 バレンシア

2010年02月08日 | 風の旅人日乗
現在、スペイン時間で午前3時過ぎ。
もうしばらくしたらBMWオラクルレーシングのコンパウンドに行き、商業港にあるオラクルの仮設キャンプに連れて行ってもらって、挑戦艇〈USA〉のドックアウトを見に行く。

今日の、第33回アメリカスカップ第1レースのスタートは、午前10時6分予定。
風速15ノット以下でしかレースを行なわないというアリンギ側の主張は通らず、
レースを行なうか否かの判断は、レース委員長のハロルド・ベネットにすべて委ねられることになった。

ロイヤル・ニュージーランド・ヨットスコードロンで、長くジュニアとユースのプログラムのコーチ・監督を務めてきたハロルドにとって、
挑戦チームを率いるラッセル・クーツも、防衛チームを率いるブラッド・バタワースも可愛い教え子だ。

ラッセルが最初のユース・ワールド遠征で、ほとんど手にしていた優勝を、
無実の「マークタッチ」で取り落としたときも、ハロルドはラッセルの横にいた。
そして2人でその悔しさを乗り越え、翌年のユース・ワールドでチャンピオンに輝いたのだった。

教え子2人の、アメリカスカップという大舞台での対決を、
その試合の運営責任者としての立場で見ることになったハロルド。
彼自身にとっても、極度の緊張に包まれる予告信号になることだろう。



第1レースのレースコースの運営について説明するコース・マーシャル。
一辺20マイルもの広大なレースエリア、45ノットものスピードでマニューバリングする2隻のモンスターヨット…。
第32回アメリカスカップで見事なレース運営を見せたベテランのコース・マーシャルも、
「正直なところ、明日一体どんなことが起きるのか、イメージできないで困っている」と言う。
〈アリンギ〉のコーチを務めるエド・ベアードは、
「スタート前にもしサークリングが始まるとしたら、恐らくそれはスタートラインから1マイル以上離れた場所で起こるだろう」、と語っている。



第1レースのエントリーサイドを選ぶコイントスを見守る群衆。
第1レース、スターボードからエントリーするのは挑戦者〈USA〉に決まった。


次にこのブログに書き込むことができるのは、第1レース終了後。
どんな結果を書くことになるのだろう?

ホクレア 2010年1月25日~2月1日

2010年02月08日 | 風の旅人日乗
【ラナイ島沖】


キャプテン・マイク・テイラーの元で参加してきた、1月25日から2月1日までの、
ホクレアによる8日間のディープシー・トレーニングについては、
いつか時間をかけて、きちんと航海の様子と自分自身の復習をまとめなければいけないのだけど、
ちょっと今は仕事でバタついているので、まずは写真だけで見返しておくことにする。




今回のディープシー・プログラムでは、
ぼくはキャプテンから『セーリング・マスター』というポジションを与えられて乗艇した。

今回の航海を通じて、ホクレアでのセーリングの実際について、
自分自身で学びつつ、若いクルーたちにもある程度のことを伝えることができたかもしれない、と思っている。
でも、まだまだ英語力も含め、自分の力不足を感じ、もどかしい気持ちも強い。




3枚のセールのトリムや大きさをバランスさせることで、
ホクレア自身が自分で定められた方向に走っていくように工夫した。
ステアをいかに安定させて、安全とスピードを両立させるかを、常に考えた。
ホクレアというセーリングカヌーについて、少しだけ理解を進めることができたかもしれない。




ナイノア・トンプソンと彼が教育中の若いナビゲーターたちを乗せるために、
ある日の夜明け、一旦オアフ島に戻る。
ダイヤモンドヘッド沖から朝日が昇る。

この時期、貿易風が安定せず、ハワイ島の方向からオアフ島に向かって風が吹いていたため、
ハワイ島の火山の噴煙がオアフに運ばれてきて、霧が掛かっているようになる。
ヴォルケーノからの霧だから、
「フォグ」と呼ばずに「ヴォグ」と呼ぶのだと教えられた。
ヴォグが濃いときには、朝日は濃いピンク色になるという。




ナイノアの秘書を永く務めたステラさんが、若くして癌で亡くなった。
彼女の追悼セレモニーのために、
ステラさんが幼少の時代を過ごしたカウアイ島のワイメアに向かい、夜明け前に着いた。
曇り空の下をオアフ島からカウアイ島までホクレアをナヴィゲートしたのは、
ナイノアの一番弟子の若いナヴィゲーターだ。
素晴らしいセーリングだった。

夜明け。西の方向のニイハウ島の上に月が掛かる。

タイガー・エスペリの弟のルイさんによるセレモニーの間中、
1頭のイルカがホクレアの周りを泳ぎ続けた。
その横でナイノアが海に潜り、ステラさんの遺骨を海に戻した。