ブログ人 話の広場

日頃の生活のなかで見つけたことなどを写真もそえて

世界が祈った鎮魂の思い

2012-03-11 16:36:24 | 日記・エッセイ・コラム

 長いか短いかはともかく、あれからちょうど1年になります。長さが問題ではなく、復興への道を急ぐことなのだと誰もが感じている今日の日です。

 世界の人々が振り返り、深い祈りがささげられている映像をみました。自分にできることは教会に来て祈ることだ、とニューヨークの教会の礼拝にやってきたアメリカ人は語っていました。

 ぼくは昨日、静内で大きな集会があり、そこで取り組んでいる地震支援の報告をする役割があり、2時間半をかけていってきました。ぼくにとってこの時間は遠いところに行くのだという思いはぬぐえませんでした。

 静内に近づくにつれ、バスから見る広がる海原は、ちょうど1年前の震災直後に訪れたときとまったく変わらず、実に穏やかで美しくさえありました。

 あの大震災は改めて自然の猛威の前に何もできない自分に悲しくなり辛さが募っていました。少し冷静に今を見つめてみると、何よりも人間の怠慢と過信が生んだ大きな人災だということもわかってきたように思います。

 それでもなお、人間は少しも謙虚になっていないのはなぜか、強い疑問を持ってしまいます。そして一番弱い立場になってしまった人が、もっとも謙虚に語るのはどうしてだろうか、と痛む思いで知ります。

 今の日本は、政治にかかわる人と一般大衆との間に大きな差が生まれており、民衆はもう政府や政治関係者を信じなくなっている、とアメリカはそう見ています。確かにそうだと思います。

 誰のせいでもないかもしれないが、誰かが責任を負って取り組まなければ日本の再生はないとさえいわれているようです。復興ではなく、再生の歩みは果たしてできるのでしょうか。

やさしいタイガー


あれから一年

2012-03-11 09:46:12 | 日記・エッセイ・コラム

 あれから一年になります。この一年ぼくは役割もあってのことかもしれませんが、ずっと自身の支援にかかわってきて、頭から離れることはありませんでした。多少風化気味ですが、僕たちはずっと案じていました。

 そしていままで見えなかったことが見えてきて驚いたり怒ったりしました。何よりもあまりの復興への歩みが遅すぎて、いろんなところに怒りの矛先を向けたい気持ちになります。

 つい2,3日前アメリカのコロンビア大学名誉教授で日本研究に造詣の深いドナルド・キーんさんが日本人になったという記事を見たとき、89歳の先生の心にあるものは、なんだろうと感動に似た思いを持ちながら記事を読みました。先生は、正直に言うと、震災後の日本の対応にはいささかがっかりしました、と無念そうに語っていました。疑問ばかりが浮かんできます。

 見えないものが見えたということは、僕たちがしっかり見ておくべきことが、見えないようにかくされていたということなのです。政府も被災地方の自治体も、一番大事なグランド・デザインが描かれていないことなのです。各省庁は何をしているのか、責めたいと思うほどです。

 一事が万事で、素人でさえ気づくことを要人が知らないという馬鹿げたことはないはずなのですが、口を閉じています。発想も品祖です。

 ぼくは今回の地震の支援の委員会の一員であるためか、社会の仕組みや政治のメカニズムがなんとおろかに組まれているのか愕然としながら知りました。僕たちは何も知らずにすごしてきたのです。けれども、今度はぼくたちが支援を受けなければならない事態に遭遇するかもしれないのです。他人事ではありません。

 日本人のよさを生かしながらも毅然とした態度で臨む姿勢こそ、教訓のひとつとしておきたいのです。34万人以上の方が未だに避難生活をされていて、そのうち11万人は仮設住宅住まいなのです。仕事もなく、だんだん孤立していくつらさをかみ締める人々のことを考えるとさらに何か支援することがないか探すこころを風化させないようにしたいものです。

やさしいタイガー