長いか短いかはともかく、あれからちょうど1年になります。長さが問題ではなく、復興への道を急ぐことなのだと誰もが感じている今日の日です。
世界の人々が振り返り、深い祈りがささげられている映像をみました。自分にできることは教会に来て祈ることだ、とニューヨークの教会の礼拝にやってきたアメリカ人は語っていました。
ぼくは昨日、静内で大きな集会があり、そこで取り組んでいる地震支援の報告をする役割があり、2時間半をかけていってきました。ぼくにとってこの時間は遠いところに行くのだという思いはぬぐえませんでした。
静内に近づくにつれ、バスから見る広がる海原は、ちょうど1年前の震災直後に訪れたときとまったく変わらず、実に穏やかで美しくさえありました。
あの大震災は改めて自然の猛威の前に何もできない自分に悲しくなり辛さが募っていました。少し冷静に今を見つめてみると、何よりも人間の怠慢と過信が生んだ大きな人災だということもわかってきたように思います。
それでもなお、人間は少しも謙虚になっていないのはなぜか、強い疑問を持ってしまいます。そして一番弱い立場になってしまった人が、もっとも謙虚に語るのはどうしてだろうか、と痛む思いで知ります。
今の日本は、政治にかかわる人と一般大衆との間に大きな差が生まれており、民衆はもう政府や政治関係者を信じなくなっている、とアメリカはそう見ています。確かにそうだと思います。
誰のせいでもないかもしれないが、誰かが責任を負って取り組まなければ日本の再生はないとさえいわれているようです。復興ではなく、再生の歩みは果たしてできるのでしょうか。
やさしいタイガー