遅まきながら、最近曽野綾子さんの本を立て続けに3冊ほど読みました。曽野さんは著名な作家であり、行動的ではっきりと主張される作家としても、よく知られています。
ことに「老いの才覚」というエッセイ風な作品は、読んでいて誠に痛快な思いをしました。この「老い」に関してですが、一般的には負のイメージが高く、ぼくのような後期高齢者は、よほど自分を律していかなければ、世の中の排除者になりかねません。
歳を重ねるということは、自分が望んだわけでもなく、誰もが衰えを感じ、今まで出来ていたことができないというもどかしさ、さらに気持ちまで何かと苛立ち、気短になり、自己主張が強くなりがちです。服装にも頓着しなくなります。
どこかに大きな不安を抱いているのです。先日経済評論家の内橋克人さんがラジオ講演で不安社会をどう生きるか、という感銘深い話をされていました。こんなに豊かな社会だと自他共に認めつつ、それでいて半数以上の方が、これからの社会に不安を抱いているといわれます。こんな国はどこにもないといわれます。
そして中国の漢詩を引用しながら、ご自分は今までの社会の中枢にいた人たちの言動に赦しがたいものがある。それが「積憤(せきふん)」となって今日に渦巻いている。決して今の社会に妥協することなく、どう変えていくかを一生問い続けることだ、それが生きる支えになっているという話しでした。内橋さんは、80歳になられるそうです。
作家曽野綾子さんも80歳を超えておられるようです。肉体は老いたりといえども、精神はなお衰えを知らず、という方です。曽野さんの本を読んでいると、とにかく一人で生きていく訓練をすること、自立と自律が大切といい、世間体を大事にしてきたことは、その人の価値観だからとやかくは言わないが、これからは、あまり周囲のことに気を回すことなく、自分を大切にしていきたいといわれます。
ということは、新しい価値を見出すということでしょう。新しい価値とは、これから自分が生きていく上で、過去のしきたりやいつしか身につけた伝承や付き合い精神を捨てて、辛いしがらみから解放されて、わが道を行こうということのように読み取りました。すっきりしそうな気がします。
「積憤」、経済や政治を含めた社会への積み重なった義憤を抱く内橋さん、「老いの反抗」として捉えられなくもない、エッセイにこめられた痛烈な思いを「老いの才覚」で表現される曽野さん、社会を鋭く見つめるお二人の主張は、これから生き延びていくためのぼくらの課題でもあるような気がしています。
やさしいタイガー
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます