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水戸黄門さんは全国行脚したの?

2012-02-22 11:14:23 | 日記・エッセイ・コラム

 「これが目に入らぬか!」と葵の紋の印藤をみせて罪人を震え上がらせた黄門さんの裁きに喝采を送ったのは、現代社会で見る水戸光圀公の姿でした。長い間テレビの人気をさらっていた「水戸黄門漫遊記」は最近放映が中止になり、寂しく思っている方も多いのではないでしょうか。

 この水戸光圀公は江戸初期から徳川御三家の一藩として徳川将軍達を支えてきた重要人物です。江戸には老中家老たちが、でんと構えて威厳を保ち、武士の誉れを鼓舞するのですが、多々にして町民を虐げ、無理難題を吹っかけては自分たちの権力を押し出すのです。

 光圀公は、そういう驕った言動が大嫌いで将軍にさえ苦言を呈するのです。これも痛快なことです。たとえば4代将軍の綱吉が、母の桂昌院からあれこれ政治に口出しをされてもいいなりになり後世に悪例を残すのです。「生類あわれみの令」がそれです。光圀公はそうした悪例を町民に御触れと出すことに反対し、直言していました。

 ぼくは今頃になって、「水戸光圀」の上下を読みました。村上元三がある新聞に連載してきたものですが、読者が「いつになったら水戸黄門さんの活躍が出てくるのか」との投書が新聞に寄せられていたそうです。ぼくもそう思っていました。

 一向にそれらしい画面が出てきません。びっくりしました。水戸光圀は、生涯でほとんど旅などしていないのです。当時江戸詰めでしたから、せいぜい本家の水戸に行く程度だったそうです。

 ではどうしてこんな噂が広がったのか、なるほどうなづけるものがありました。

 光圀公の家臣である「佐々介三郎」と「安達覚兵衛?」がいて、上様が手がけた「大日本史」という本を作成すべく、この二人が全国を回り旅して資料を集める過程での日記などが残されていることから、介さん、覚さんと呼ばれるようになったようです。

 光圀公は傑出した人物で、生涯人を切ったのはたった一人、しかも家臣のものでした。藤井某は、上辺は忠実な家臣でしたが、次第に野心を起こし、水戸家の跡継ぎに自分の子どもを押そうとしていたのです。

 光圀はそうした下種な野心を抱く家臣を何度も戒め、注意し、いさめてきましたが、この家臣はいっこうに改めることもなかったことで、水戸藩を乱すという理由で刺し殺すのです。一滴の血も出さなかったと村上元三は書いています。

 光圀は大変気くばりのできる人で、その配慮は町民に至るまで平等の思想を貫いた名公だったようです。また先を読んだり、人心の掌握も見事でした。

 後顧の憂いを取り除いて家督を息子に譲り、光圀は引退し、水戸に帰り、研究に没頭するのですが、単なる隠居ではなかったのは、周囲の期待もあったのでしょう。

 70歳を越えて体調を崩し、死の床に付いたのです。胃がんだったそうです。光圀の他者から受ける人望と、ご本人の人間性などが絡み合って、どうやら黄門さんが出来上がったような気がします。

 今の時代も勧善懲悪の指導者が出てきてほしいものです。歴史は嘘をつかないのです。嘘をつく人は歴史を避けている人なのでしょうね。きっと。面白い本でした。

やさしいタイガー

 


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