現代美術を知るための研究として先週からこの3冊を読む。ランダムに図書館で借りてきたのだが、それぞれ立場がはっきり違う人たちなので面白い。村上隆は言わずとしれた日本現代美術のトップランナーでありプロデューサー、またオタク文化の伝道者である。吉井仁美は父親の代(それ以前から?)の画商。大野はある意味とてもお気楽な立場である。彫刻系のアーティストをやっていて最近それをやめた主
婦、というある意味得難く達観した立場から批評をしている。
一番お気楽な(が見方によっては深刻な)大野の話からする。彼女はさまざまなアーティストあるいはアーティストを名乗りたい人々を評して、その心理と真情を突いている。真情といっても案外当たり前のことで、芸能人の絵からさまざまな流派のアーティストまで、アートあるいはアーティストと呼ばれて矜持を持ちたいという欲求があるということ。その症状のさまざまな現れを診断している。強烈な病を
持ち、それを鎮めるために創作せざるをえない本物たちを除くと、概ね当てはまりそうな診断である。
さて、村上。これは強烈だった。美が云々とか感性が云々という前に欧米の美術の文脈を理解し、そこに切り込め、文脈を理解することはスポーツのルールを理解することと同じだ、その欧米の美術の文脈は、見方によっては大変いやらしく俗物的な、社交界特有の知的自慢や競争といった雰囲気と切り離せない、などなどと、どれをとっても目からうろこの話。
いや、前から現代美術は(あるいは近代以前の美術も)ある種訓練された、型がある感性の中でなければ理解できないと思っていた。それを「解釈や好みはさまざま」といわれると(もちろんその部分はあるが)、悪しき相対主義、悪ずれした多様性の容認と感じられていやだった。「それでも良い趣味と悪い趣味は厳然としてあるだろう」と言いたい気分がいつもあった。それをはっきりさせてくれた。
村上の趣旨は、「売れる趣味」を狙え、ということである。そして、「売れる趣味」は概ね良い趣味である、ということのようだ。あるいは、クライアントのために働くアーティストとしては、そう受け入れざるを得ない、ということ。うーん、まさに「仕事」だねえ。
1章2章それから3章においてもある程度、この、欧米が主導する世界の美術の文脈と趣味を理解し、そこに「マーケティング」として挑んでゆけといっている。技術優位の日本は発想に力を注げ(これは産業界へのものとそっくりのメッセージ)、個人をブランド化せよ、才能よりサブタイトルが価値を生む(ゴッホの、絵より耳切り事件)、製作の集団化の提唱 などなどと、現実を切り開いたものならではの卓見が並ぶ。ブランドビジネスと思えば何の違和感もないが、美術界の内部からの発言としては相当思い切った発言だったんだろう。ともあれ、すごいプロデューサーでありマーケッターである。
3,4章は一転、意外にも芸術家であり職人としての自己を晒す。海洋堂にフィギアを作ってもらうために苦労した話、朝から晩までスケッチをしていたこと、才能の磨き方とか、いかに自らをあるいは他人を追い詰めていくか、そのさきでどう変わるか、といった芸術家らしい記述が並ぶ。ここもすばらしい。村上は世評のイメージのような、オタク文化をうまく利用してのしあがったマーケッターがアー
ティストを自称している、といった存在ではないのだ。血を吐くような自分の病を抱えつつ、アートに救いを見出した病人であり偉人なのだ。
「ぎゅうぎゅう締め上げていると、締め上げているだけあって、やっぱり最低でも一回は、光が見えるかのような瞬間がやってきます。・・・・死ぬまで光が見えないよりは、苦しくてもつらくてもたまらなくても光を見たほうが絶対にいいのだと僕は思います。」
いやはや、僕もそう思います。かく言う村上が(そんなに言葉が派手ではないが)ピカソなどと比べてマチスを絶賛していたのは非常に面白い。
吉井の本は村上の言うマーケットの状況の確認に役に立った。
村上は偉大だな。借りた本では不十分なのでこの本は買って何度か読み直すことにする。実は僕の仕事などにも当てはめられる部分があるような気がする。真剣に仕事に取り組む人、完全燃焼と自己実現をするために仕事をしようとする人、あるいは、仕事で病を癒やそうとする(病をつきぬけようとする)人 には恐らく必読書じゃないだろうか。
婦、というある意味得難く達観した立場から批評をしている。
一番お気楽な(が見方によっては深刻な)大野の話からする。彼女はさまざまなアーティストあるいはアーティストを名乗りたい人々を評して、その心理と真情を突いている。真情といっても案外当たり前のことで、芸能人の絵からさまざまな流派のアーティストまで、アートあるいはアーティストと呼ばれて矜持を持ちたいという欲求があるということ。その症状のさまざまな現れを診断している。強烈な病を
持ち、それを鎮めるために創作せざるをえない本物たちを除くと、概ね当てはまりそうな診断である。
さて、村上。これは強烈だった。美が云々とか感性が云々という前に欧米の美術の文脈を理解し、そこに切り込め、文脈を理解することはスポーツのルールを理解することと同じだ、その欧米の美術の文脈は、見方によっては大変いやらしく俗物的な、社交界特有の知的自慢や競争といった雰囲気と切り離せない、などなどと、どれをとっても目からうろこの話。
いや、前から現代美術は(あるいは近代以前の美術も)ある種訓練された、型がある感性の中でなければ理解できないと思っていた。それを「解釈や好みはさまざま」といわれると(もちろんその部分はあるが)、悪しき相対主義、悪ずれした多様性の容認と感じられていやだった。「それでも良い趣味と悪い趣味は厳然としてあるだろう」と言いたい気分がいつもあった。それをはっきりさせてくれた。
村上の趣旨は、「売れる趣味」を狙え、ということである。そして、「売れる趣味」は概ね良い趣味である、ということのようだ。あるいは、クライアントのために働くアーティストとしては、そう受け入れざるを得ない、ということ。うーん、まさに「仕事」だねえ。
1章2章それから3章においてもある程度、この、欧米が主導する世界の美術の文脈と趣味を理解し、そこに「マーケティング」として挑んでゆけといっている。技術優位の日本は発想に力を注げ(これは産業界へのものとそっくりのメッセージ)、個人をブランド化せよ、才能よりサブタイトルが価値を生む(ゴッホの、絵より耳切り事件)、製作の集団化の提唱 などなどと、現実を切り開いたものならではの卓見が並ぶ。ブランドビジネスと思えば何の違和感もないが、美術界の内部からの発言としては相当思い切った発言だったんだろう。ともあれ、すごいプロデューサーでありマーケッターである。
3,4章は一転、意外にも芸術家であり職人としての自己を晒す。海洋堂にフィギアを作ってもらうために苦労した話、朝から晩までスケッチをしていたこと、才能の磨き方とか、いかに自らをあるいは他人を追い詰めていくか、そのさきでどう変わるか、といった芸術家らしい記述が並ぶ。ここもすばらしい。村上は世評のイメージのような、オタク文化をうまく利用してのしあがったマーケッターがアー
ティストを自称している、といった存在ではないのだ。血を吐くような自分の病を抱えつつ、アートに救いを見出した病人であり偉人なのだ。
「ぎゅうぎゅう締め上げていると、締め上げているだけあって、やっぱり最低でも一回は、光が見えるかのような瞬間がやってきます。・・・・死ぬまで光が見えないよりは、苦しくてもつらくてもたまらなくても光を見たほうが絶対にいいのだと僕は思います。」
いやはや、僕もそう思います。かく言う村上が(そんなに言葉が派手ではないが)ピカソなどと比べてマチスを絶賛していたのは非常に面白い。
吉井の本は村上の言うマーケットの状況の確認に役に立った。
村上は偉大だな。借りた本では不十分なのでこの本は買って何度か読み直すことにする。実は僕の仕事などにも当てはめられる部分があるような気がする。真剣に仕事に取り組む人、完全燃焼と自己実現をするために仕事をしようとする人、あるいは、仕事で病を癒やそうとする(病をつきぬけようとする)人 には恐らく必読書じゃないだろうか。