こげの耳に★ねんぶつ★

たわいない日々の思うことと愛犬こげと花が咲いていたら花の写真など

『熊野伝説Ⅱ』上映会

2013-04-01 05:30:00 | 和歌山県
30日土曜日の夜、串本町文化センターに『熊野伝説Ⅱ 熊野比丘尼(びくに) おりん物語』と

いう短編映画を観に行ってきました。この映画を企画・制作したのは那智勝浦町の『熊野映画を

創る会』で、那智勝浦町入湯税補助金と地元スタッフ・キャスト、全国からの支援者の協力で自主

制作されたものです。私がブログに紀伊勝浦駅に設置されていた熊野地方の滝と駿田(するた)峠

に伝わる加寿姫伝説のビデオのことを記事にしたところ、ビデオを設置された加寿地蔵尊の世話人

会会長の中田さんからコメントをいただき、小さな交流ができた・・ということなのですが。

中田さんから世話人会と地元有志による『熊野伝説』の映画を撮影することになりました、と

コメントをもらったのが2009年ごろです。駿田峠を歩きイベント見学もして、地元那智勝浦

から熊野地方を全国に、そして地元に伝わる話を後世に残していこうという思いが表れていると

感じました。その『熊野伝説』の第二作めの制作が始まったことも新聞各紙にも書かれて、中田さ

ん達スタッフの様子も知ることができました。


『熊野伝説Ⅱ』撮影はじまる

映画は完成し、那智勝浦町はじめ新宮市、三重県と上映し、串本町でも上映会をしますと中田さ

んから直々にブログに連絡を貰い、楽しみに3月30日を待っていたのです。だけども、私が

駿田峠に行っても、串本町民のように見える人には会ったことがないので当日、観客がきてくれ

るか、ちょっと不安でした。でも 創る会の人達はチラシを入れてくれたので大丈夫だなと安心

したのでした。

上映開始は午後7時からということでしたが、早めに着いて中に入ると受け付けが始まっていて

来場者の名前をよろしければお願いしますと、丁寧に勧められて書くことに。ここには中田さん

の姿が見えないので、場内にいるのかなとお会いできるのを楽しみに・・・(でも、一方的にで

す。私は中田さんを知っていますが、中田さんは私を知りません)受付の女性が「なかで写真

も展示しているのでよろしければご覧ください」とまた非常に丁寧におっしゃられるので、

「それをカメラで写してもよろしいですか?」と聞けばよかったのですが、ほらぁ私ってシャイ

だもんで、ぐっとその言葉を飲み込んで場内に入ったわけです。

 幸いなことに場内にはまだ人も少なく、写真パネルの前も人は混雑していません。



会場内の通路にパネルを立て、その後ろには座席はあるのですが通路から前の座席に座って観て

もらうように、しています。というのも大きな映写機で写しだすのではなくDVDでの上映会です。

開始まではスクリーンに熊野地方の風景を、音楽と共に流しています。中田さんはスーツ姿で

いつものように(私が見かける時はいつも、階段をピョンピョンと走り下りていく姿で 今回も

座席の間の階段を駆けあがった駈け下りたり玄関ホールと場内の往復 そして見知った人との談

笑、相変わらず忙しくしています。駿田峠では白い装束ですがこの日はスーツ姿なので、動きは

軽やかですね!


   主人公おりんが倒れているのを 村人が助けているシーン撮影の様子

映画の中でも重要な場面でしたが、撮影現場のむこうには現代の車が見えています。その対比が

おもしろいな・・と。それにしてもブレブレです。やはり、勝手に撮影したらあかん、と思うの

で中田さんが走り去ったあと、こそっとカメラを出して写したので・・・すみません。




加寿地蔵尊からの便り



      『熊野伝説Ⅱ』 熊野比丘尼 おりん物語のパンフ

比丘尼さんというのは中世末期から近世にかけて諸国を行脚した僧形の女性。絵解きをしながら

熊野信仰を布教し、熊野三山の勧進(熊野牛王符や梛(なぎ)の葉を配ってお寺や社殿の造営や

修復の寄付を集めること)のために全国を巡り歩いたそうで、時には小歌を歌い「歌比丘尼」と

呼ばれ、またある時は勧進十界曼荼羅で地獄に落ちると説きふせるなど言葉巧みに民衆の関心を

集めました。このようにして熊野信仰を各地に広めたのです・・・とパンフの一部に書かれてい

ます。私は「?」と思ったのです。

上映前に舞台上から映画の内容の説明がありました。だいたいのことはわかったのですが熊野牛

王符・・ってなに?と思ったところに、女性が掲げたのが



このパンフの右ページ 真ん中にある墨絵のスタンプみたいのを言うそうです。映画の中では

絵解きをしていくらかのお金を貰っていました。それが寄付ですね。

中世、ここ熊野は参詣者でたいそうにぎわっておりました。「蟻の熊野詣」といわれた由縁や全

国に三千とある熊野神社の礎を築いたともいわれる熊野比丘尼達の活動をふり返ります。とあり

内容は

 いまから600年前、戦乱の世でありました。人々はいつ終わるやもしれない戦に疲労と不安

を募らせていた。そんな中、少しでも人々の心に安らぎをと、おりん・お鈴の比丘尼が勧進に出

る。若くして補陀落渡海を志願するおりんの兄、頌栄(しょうえい)。旅先で兄の渡海を告げら

れ、熊野に引き返すおりん。熊野の歴史と兄妹の絆を描いた遠いむかしのお話です・・・

始まりは 戦国の甲冑をつけた武士の斬り合い、そして逃げまどうおんなこどもたち。その後は

武士たちの死体や無惨な村人たちの死体、残されたおりんと兄。兄はお寺に預けられ、おりんは

比丘尼となって諸国行脚に出ることに。初めての京の都におりんはその煌びやかさに驚きます。

撮影は駿田峠や新宮、丹鶴城跡、補陀落山寺、神源滝、もちろん中田さん達世話人会が作った

熊野映画村です。映画の中でおりんが滝にうたれるシーンは 大雨警報が出た直後のときでその

水量はかなりのものだったとか。雨上がりの山から立ち昇るモヤにほら貝の音。清々しさと同時

に 頭に紀伊半島大水害のことがよぎります。出演者は地元のかたを中心に きれいな坊主頭の

人やなぁと思っていたら、正真正銘の若いお坊さんでした。お鈴さん役は 実際にいま比丘尼さ

んとして、観光客に絵解き曼荼羅をなさっているかただそうです。いつの時代も戦に振りまわさ

れ心身とも傷つくのは子供たち。都人はまだ衣食住に余裕はあって、熊野の村人たちとは雲泥の

差があります。おりんは兄が補陀落渡海で観音浄土に向かおうとすることを知って、会いに走る


補陀落渡海ー「補陀落」とはサンスクリット語でポタラカの音訳で、南方の彼方にある観音菩薩

の住まう浄土のことをいいます。南の果てに観音浄土があるとされ、たくさんの僧侶が補陀落を

目指しました。渡海船は沖まで行くと綱切島で綱を切られ、波間を漂い、風に流され、いわば水

葬のような捨身行でした。ただ、ひたすらお経を読み、観音浄土に生まれ変わることを願いなが

ら往生を遂げたことでしょう。(パンフから)

 人々のための捨身行か、自身の行か・・・現代では許されない行ですよね、即身仏とか。

いまよりずっと人の心に信心というものが根づいていたから 渡海船に乗る僧侶と それを見送

る人々は純粋だったかもしれないと思ったのでした。いくらかは世の中がよくなっていたはずな

のに、世界中ある神様に仕える 大僧正さまや大司教様が何世代入れ替わってもひとつも良くな

らないのは、私のような不信心な人間のせいかもしれません。おりんのあとを継いで、おゆきが

熊野比丘尼としてまた日本のどこかに旅立っていきます。心の安らぎを多くの人に説くための

行脚です。おりんと兄頌栄が並んで あの世へ向かう姿はきれいに仕上がっていました。


ところで、会場で高校時代の体育の先生も鑑賞にきていました。私ごときはおおぜいの生徒の中

の一人なので覚えてもいないようなので、挨拶もしなかったのですが、映画のラストのキャスト

名や撮影シーンのスクロール画面に浅川先生が都の路上で南京玉すだれをやってる姿が!!

「あ、さて、あ、さて、さては南京たますだれ。ちょいと伸ばせばちょいと伸ばせば・・」と

やっています。パンフにも名前が・・・。舞台挨拶でも主演女優さんと並んで舞台に立っていま

した。いまは古座で師匠に南京玉すだれをならっているとか・・・。でも、上映中に私は

「600年前に南京たますだれってあったのかなぁ」と思っていたんですが。中田監督のお知り

合いから映画のワンシーンで大道芸のできる人を探していると声が掛かって、一日だけの参加で

新宮の丹鶴城跡で演じたと言っていました。先生、相変わらずですね・・・明るい。

南京玉すだれ  じつは大道芸として知られるようになったのは江戸時代のようです

やっぱりな・・・え?日本発祥だそうです。子供の時に「あの道具はお寿司を巻くスノコだ」と

思っていました。よく似てるじゃん!!


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1 コメント

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ありがとうございました (中田)
2013-04-13 22:19:48
沢山書いてくれてありがとうございました、やはり大道芸人は時代的にはおかしいかな?他におもいあたるものは無いし、当初は単純な笛と太鼓の踊りを考えたのですが、実現できず玉すだれになりました、華やかで良かったかな
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