こげの耳に★ねんぶつ★

たわいない日々の思うことと愛犬こげと花が咲いていたら花の写真など

積もる思い

2016-01-28 05:30:00 | 我が家

                   1月19日

おじいちゃんが入所していた施設に用事があって出かけたとき 雪が舞いました。国道を走っているときも 「久々やん、雪!」と思いつつ

「ほれ、雪降ってきたで。おじいさんも寒いやろ~」と独り言なんかついつい出てきてしまい「あれぇ 私は父親っこだったんか?」と自問自答

している自分が可笑しくなって、あの高圧的・威圧的な父親を好きなはずがない・・と でなければ 私の人生がこんなはずではないもん!と

必死で否定している。用事を済ませるまでにこの雪がどうかうっすらと車に積もっていることを期待し、だってエンジンを止めたあとの温もっている

ボンネットに落ちてもすぐには融けないコロコロした雪の粒だったのだもん。中に入って 数回ここでご一緒になった方と「雪が降ると 大人になっても

嬉しくなっちゃいますね」と話したのに、出てくると車には何事もなく融けた水滴もなくシラケた状態で・・・「つまらんなぁ」と・・・

家に帰って寒くならないうちにおばあちゃんとお墓に行こうとしたら、「すごく雪が降ってきたから先に行ってきた。あたりが真っ白に見えるくらい

降ってきたから、はよはよお墓に上がって行ったら雪がやんだ」という。そうか、施設は海側、うちは山側だからか・・・。この日からしばらく

寒波で、こげの散歩のときは 帽子をかぶってマスクをして出かけたものの目の玉が凍りそうになった。目だけ外気に触れるから もう寒くて痛くて

「これって、目出し帽ってあるけどあれは役に立たへんやん。ゴーグルとかメガネとかかけないとたまらんわぁ」とつぶやきましたよ・・・

私たちは 雪には慣れていないので 少し降ったら触ってしまいあとで指先の冷たさに泣くのだ。そういうことを懲りずに繰り返す、雪に憧れてしまう

ノン雪国人ということだ。


                    1月20日早朝

朝起きたら 雪が(ぼたん雪)が舞っていた。地面には痕跡は無いものの こげの見張り台の上に憧れの雪が!!

しかし、もうみぞれかかき氷のような感じ。つまらないものだわ・・・と夜中にいくら降っても(舞ってもだが)、朝に残っていない雪なら

深夜人しか楽しめないやん・・・なんと不公平なことか・・・

明るくなって横の草地を見てみた。


やはり これじゃ風情ってものがひとつもない・・・草が青々していること自体 この紀伊半島の温暖なところなのかもしれないけど。


今週初めの寒波では 関西南部の平地でも雪が積もると予報されていたけど、田辺がけっこう積もって往生していたようだし、新しくできた

紀勢道も通行止めになっていた。ほとんどがトンネルなのにそれ以外のところ、橋の上とかで凍結したようだ。代わりにいまや旧道となっている感の

国道が走れたようだけど、真冬の災害時は命の道も使用不可ってことになるかもしれへんなぁ・・・


一昨日の夜 亡き姉の娘、私の姪っこがメールをよこした。姪っ子がまだ確かな言葉もしゃべれないときに姉が亡くなったので、彼女には母親の記憶や

思い出が可哀想だがないのだ。ただ、生前の姉の姿がビデオテープに残っていたのを彼女に渡したのだが、そんな姪っ子が「産まれてはじめてちゃーちゃん

(母親である姉を彼女はまだちゃーちゃん(おかあさん)としか呼べないころに亡くしているので、姉のことを話すときは私たちもちゃーちゃんと呼ぶ)の

夢をみた!!ちゃーちゃんは生きていて違う所で家庭をもっていて 子供の顔が私の子供の顔だった(笑)」と書かれた文字がとても嬉しそうで、彼女は

亡くなった母親が夢の中で生きていてくれたことが嬉しくて 大喜びして、目が覚めた後も心がホカホカしたとも書いていた。彼女は、彼女なりに

育児をしながら親になり、親のありがたみを感じ始めたころ・・・自分がこの息子の年には母親がいなかったんだとつくづく思い、またちゃーちゃんが

自分を育てたかったんだろうなと、息子を抱きしめるたびに思っているんだろうなと おばの私はグッときてしまう。自分の母親の年齢を超えてしまい

ビデオのなかのちゃーちゃんしかイメージできていなかったのが子育てしていくうちに 違った母親像が浮かんだのかもしれない。

姪っ子の積もる思い、≪生みの母親にもう一度会いたい≫があまりにも神々しすぎて、私の雪が積もる思いなんて お見事に吹き飛んだのでありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はやいもので

2016-01-23 05:30:00 | 我が家
おじいちゃんが亡くなって 二十日も経ってしまいました。それでなくても 一月、二月、三月は行く逃げる去る・・と言われるくらい、あっという間に日が

経つのが、今年は正月二日から 猛スピードで駆け抜ける感じで時間が過ぎていきます。

昨日で、み七日 。葬儀屋さんが設置していった仏壇のようなものにお供えはおばあちゃんが毎朝供え、夕食後にそれを下げて私が洗う・・ということを

続けてはいるものの、七日ごとにはきちんとお霊供を作って供えるんだとか・・・でも、最近は私のような 物知らずが増えたのか お湯でカンタンに

お霊供ができる優れものが販売されている。お葬式全般、参る側ではなく当事者側のことはさっぱりわからない。何をどうするのか、どんな段取りで進むのか

ただ 漏れる人がないように、ただそれだけ気をつけていたような気がする。百軒あれば百通りのお葬式なんだとか。でも、だいたい形式というか似たような

感じで営まれていると思うので、今回のような ほんと、マジ親戚だけって小さい(質素な)お葬式は たぶん 地区のあちこちで話の種になっているのだろう、

と、当事者側の耳には一向に入ってこない巷の話に、「でもさぁ 本人の希望だもんねぇ」と家族は納得しても 参列してくれた方の中にだって

そう、おじいちゃんならもっと盛大なお葬式でもあげてやればいいのに・・・と思ってくれるかたがいるのが光栄なことと思うことにしませう・・・



生前中からおじいちゃんは 自分が入るお墓は先代がしてきたようにな夫婦で一基ではなく もう「○○家之墓」でみんなが入るお墓にすればよい・・・

と言いながら、決して自分で石材店やお墓の展示会にはいかずに私とおばあちゃんに「行ってこい」と命令形で言い渡しておりました。

一度は展示会におばあちゃんと見に行って 見積もりでもしてもらおうか・・というときになって、おばあちゃんが突如腰から足にかけて痛みが出て

整体に通うというアクシデントが起こり、日延べしていたら おじいちゃんが倒れる・・ということになり、お墓の話はそれっきりになっていました。

うちの墓地には三界万霊の塔以外に十基の石塔があり それぞれに花筒がついている。古いものがあるので一度「先祖歴代の墓」としてまとめたようだけど

そのあと、なぜだかまた夫婦墓形式に戻って そうなるとお墓を作る場所がおじいちゃんたちで最後になってしまうことになったのです。それでおじいちゃんは

「先祖さんのお墓を一つにまとめよう案」を提案したようで、場所柄山の中腹にあって石段を上がって行けるのにも年をとるとお参りどころか掃除も無理に

なってくるのは当然のこと。早くとりかかろう・・・とおばあちゃんも私も口にはするものの、おじいちゃんが寝たきりの状態では どうもお墓を障れば

よくないことが起きるやも・・・という気持ちもあって延ばし延ばしになっていました。しかし、おじいちゃんが亡くなってしまい その遺骨を

お墓に納めることができずに・・これもおじいちゃんが書き遺した書の中に書かれていた「とりあえず 今空いている戦死したお兄さんの横の場所に

穴を掘って 仮埋葬して、お墓を作って納骨してね」いや、こんなに軽い口調で書いてはなかったけどね。だから お葬式の前の日に うちの次男君や

長男君やおじいちゃんのいとこにあたるおじさんや 義兄たちで穴を掘りましたよ。私は白い骨壺に入れるものだと思っていたけど、お骨を四角い骨箱に

納めそれがお墓ができるまでに 土の中で水気を浴びてぐしゃぐしゃになると困るので 漬物用のビニール袋で覆い仮埋葬した。

しかし、今年はうるう年。うるう年にお墓を作るのは良くないということが世間で言われているのに 作るのは・・・とおばあちゃんが渋りだした。

おじいちゃんを来年までただの土の中に置いて置くのか~と私は思ったのだが、おばあちゃんは仏壇にそのまま置いて祀ったらどうかという気持ちのようで

その気持ちはわかるけど、それもどうよ・・・と思うのだ。おばあちゃんは異常に怖がりだ。おもしろいことがあった。おじいちゃんが無言の帰宅をして

葬儀屋さんから「二日間、お家に安置ということになります」と言われ おじいちゃんは奥の間に安置された。こういうときは家族がろうそくや線香を

絶やさないようについているということなのだけど、ろうそくもお線香もそんなにすぐには消えそうにないので居間でおばあちゃんとこたつに入って

仮眠することにした。で、私は疲れて早く眠ったようで、おばあちゃんは真夜中に目が覚めてしまい眠れずにいたら 居間をミシミシっと歩く音がするんだ

とか。おじいちゃんが奥の間で寝ているから、きっとおじいちゃんだと思って恐ろしさのあまり布団をかぶっていたって言う。それを聞いて「おじいちゃんが

戻ってきたと思ったら怖くないやん」と私は言ったのだけど そのあとおばあちゃんが「怖いけど音がするから目を開けたら、お前が寝返りうってたんだよ」

板の間で寝返りをしたら 幽霊が歩くような音になるとは・・・爆笑だわ!!「でも、怖かったんやもの」と80年以上生きてきても怖いのかと、呆れて

口あんぐり でした。そんな怖がりな人が 母屋の仏壇におじいちゃんの遺骨を置いて生活できるものか・・なのだが・・・

疑問があるなら、和尚さんにきけばいいことで打合せのときに「うるう年にお墓を作ってもいいのでしょうか」と尋ねたら、和尚さんは 「気持ちの問題だと

思います。もともとは江戸時代に旧暦で暮らしていて、何年かに一度一年をひと月多い13ヶ月としていました。人々は一年を13ヶ月で暮らすので

いつもの年より節約して暮らすということが、≪うるう年にお墓や仏壇を購入すると縁起が悪い≫とい言い伝えに変わっていったようです。」最近、入った

石材店のチラシにも同じことが書かれていて、近畿地方周辺で今も迷信が残っている地域は 見事和歌山県と三重県の一部になっていました。これは

質素倹約を美徳とした紀州藩のなごりでもあるのです・・・とあります。それでも うるう年には石材店も注文が少なくなるらしいとおじいちゃんのいとこの

おじさんは、知り合いに石材店がいるから話はつけたる、さっそく墓の形をどうするか近くの墓地に行って見てきたらいい。いまや 背の高い石塔より

洋墓のほうが地震で倒壊しない。」と私たちはお葬式前からお墓をどうするか尻を叩かれる状況で、でも、これはこれで有難いことだ。いつまでたっても

私たちでは話が進まないから・・。おじいちゃんも このいとこさんに相談するようにとよく書き遺しておいてくれたものだわぁ~。和尚さんの話では

うるう年じゃなくちゃ仏壇やお墓を作ってはならないってところも、日本にはあるそうだ。まぁ、和尚さんも石材店も 仕事にならへんからなぁと

私は思うのだけど。この場におばあちゃんもいたのに 時々「うるう年に云々」と言いだしてくるし、私たちがよそ様の墓地を見学してきて洋墓がいいと

言ったら「お前らが作るんやから何も言わない」と言っておきながら石材店のチラシの写真をまじまじと見ているので「洋墓、いいやろ?」と言ったら

「それはキリスト(教)や」と言い放った。私らに任すようなことを言いながら、絶対口を入れてくるのが まぁこの人の流儀というか 長女たる性格だと

思う。私は 自分が死んでから入るのだから少しでも自分に軽く(重さ的に)、子供たちの負担も軽くしたいと思うんだけど・・・日本的なお墓が

いいのか悪いのかわからない。それは仕方ない、生まれてこのかた、おばあちゃんだって洋式なお墓にお参りしたことないだろうし、別に宗旨替えするわけで

はないから、十字架になるんじゃないんだから・・・。おじいちゃんなら それでかまんよと言ってくれると思う。


よくはわからず、とにかく四十九日までにお位牌を作るよう言われ 先週おじいちゃんが行っていた田辺にある仏具屋さんにお願いしてきたら、出来上がりましたと

連絡があり、きょう受け取りに行く予定。そのほか おじいちゃんの凍結している通帳の手続きに 何とも言えないくらいの提出物があり、もうあたしの頭は

熱を帯びてきています(笑) おとうさんは仕事に行くし 細々したことで手を煩わすことの無いよう努力はするものの、右の耳から入って左に抜けて行く感じが

ずっと続いています。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光と影

2016-01-13 05:30:00 | 我が家
2日の朝、次男君が静岡に新宮周りで帰った。次男君に食べさせようとおばあちゃんがお寿司を作ったのに、食べさせる時間とチャンスが

なかったことを思い出し、「食べられんかったね」とメールすると途中で買って食べたという。長距離なので心配だけど休み休み帰るという。

「(おじいちゃんは)どう?」とメールがあり、そのあとだったかおじいちゃんがだんだん肩で息をするようになり、モニターの点滅と

ブザー音も続くようになった。なったけど 心臓が強いのだ。心拍も落ちてきては復活を繰り返し「なんと!!スーパーじいちゃんだわ!」と

私はもうそれが信じられなかった。「わたしゃ ここまでがんばれんわ・・・」と。

あぁ、このときおばあちゃんもいたんだよ。ベッドの両側で「もうそんなに頑張らなくてええからね」「楽になってもいいんやから」と声を

かけたら、ず~っと開いたままの口が、自分の力でスッと戻って驚くくらいの笑顔(というか、くしゃおじさんみたいな顔)を二度してくれた。

「え~、今の顔すごく優しい!」とおばあさんと二人で顔を見合わせていたら、数分後亡くなった。おじいちゃんは自由な体になった。

次男君に「2時03分」とメールを入れたら、「戻るわ」って。松阪まで行ってんのに・・・
                                           
そのあとは、部屋の細々なものを取りまとめ私は先に家に戻った。本人は生前、自分の葬式というか、もろもろを段取りしていてそれを

書き残し、私に渡していた。遺言状というより、こうしてほしい、あぁしてほしいと書いていた。大まかなことは倒れて以来、二年間の

あいだに部屋を片付けているときに何枚も下書き原稿が出てきていたので、おばあちゃんと姉夫婦にも見せて「また~こんなことばっかり

書いて~。肝心なことは何も書いてない」と大笑いしたんだけど、本人の希望に従おうと決め、おじいちゃんが頼っていたおじいちゃんの

従弟のおじさんにも読んでもらい「わかった。じいさんがこう書いているからこの通りにしてあげよう」と決めたのだ。


おじいちゃんは孫たちにも会えたし、ひ孫にも会えた。でもきっと本人はベッドで動けないことのほうが苦痛で、それどころじゃなかった

かもしれない。だから私はお悔やみの言葉をかけてもらっても「本人が楽になったからいいと思っている」と答えている。もっと

家で看てあげればよかったというより、事実はもう家で看るのが限界だった。介護の辛さは看た者しかわからないと言われるけど、私がすることを

それが仕事とはいえ入院先や入所先のスタッフ・職員さんが代わってしてくれたことを思うと、本当に感謝しかない。おじいちゃんに

関わってくれた職員さんたちがお別れに部屋に来てくれ、お見送りもしてくれた。

夕方近く、家におじいちゃんが戻って奥の間に安置し、そこからが何をどうしたのか、スケジュールをこなしていく形の日々。

家族葬、ほんとうにひっそりしたものだったけど、それは本人が自分の父親を見送った時に、自分がいろいろな役を務めていたため

その関係の対応で大変だった体験と、華美なお葬式は誰のためなのか、盛大に送ってあげたければ送る側の子や妻がすればいいし、

家族で静かに送りたければそうするものだと考え、書き残したうえ、年末年始、新しい年の初めに不幸事からのスタートを血縁以外の

人にさせたくないと思ったんじゃないか・・と三尾川のおじさんが言った時「それもそうやな。やっぱり仕切り屋やったんや」と私は

笑ったのだ。私は 最期に弱っていくおじいちゃんのそばで

「今ね、魂が体から抜けて足元の上の天井近くでおじいちゃんは自分の姿を見てるんやて。悲しんでいる私らと横たわっている自分を

見ているらしい。これは姉ちゃんが○○○(亡き次姉)の臨終の時言っていた」とおばあちゃんに言うと「そうなん?」と聞くので

「いや本当かわからんけど、そう思うとなんかいいと思うやん」と天井を見ていた。幽体離脱ってことだけど、他人のオバケでもないから

コワイことないやん。葬儀のあとに見た夢を話した時におばあちゃんの妹が「それは凹ちゃんとおばあちゃんにありがとうってお辞儀して

いたかもしれへんで」と言った時おばあちゃんが「そんなのコワイ!」と即答したので笑ったんだけど 私は「あ~そうか。夢の中の

おじいちゃんの横にいた黒い影は亡き次姉だったのかもしれん。ちゃんと引き受けに来てくれていたのか」と私は良いほうにとることに

した。そうしたら亡くなった寂しさというより、おじいちゃんが楽になったから良かったという気持ちがわいてきたのだ。

ただ、おじいちゃんが無言の帰宅をしてこげを散歩に連れ出して、戻ってきてリードを解いたらいつもは母屋の入り口に飛んで走って

行くのに、手前の納屋の入り口で立ち止まって座ってしまったのを見たときに、こげも感じとったんだと思うとそれには、ぐっと

くるものがあった。
コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初夢

2016-01-11 05:30:00 | 我が家
おじいちゃんの夢を見た。

大きな講堂か体育館のような舞台下に立っているおじいちゃんを私はちょうど 卒業式のときのような生徒が座る側に座っていて、

「あっ、おじいちゃんや!」と気がつく。でもおじいちゃんは孫が生まれて「おじいちゃん」と呼ばれるようになった頃の体格ではなく

わたしが「お父ちゃん」と呼んでいた高校生の頃の恰幅の良い体つきで、おまけに季節は夏なのか半袖のワイシャツ、よくはいていた

ブルーグレーっぽいズボン。私からは横からの姿しか見えないけど 手には数珠を持ち、舞台上に掲げられた白い幕の上をちらっと

見上げ 頭をこくりと下げるようなしぐさをしている。その横にはもう一人誰かが立っているのだけど 夢だから テキトーに黒い影の

ようにしか見えなかった。私は夢の中で「半袖着ているから夏なのか」とはっきり覚えていて、そして目が覚めた。この真冬に夏姿の

おじいちゃんなんて・・・。それが1月6日。おじいちゃんが約2年前脳内出血を起こして倒れてから、入院と自宅、そして入所、

その間におじいちゃんの夢を見ることは一度も無かったような気がするので、不思議だった。おじいちゃんは1月2日に亡くなった。


2日に無言の帰宅をしたものの 年始ということで葬儀屋さんもお休みで4日お通夜、5日お葬式ということにならざるをえなかった。

容体はクリスマス前後から発熱や微熱が出始め、それが下がり始めても口からの食事は難しく高カロリープリンなどと水分、

水分も誤嚥の恐れが出始めたので点滴をお願いした。言葉もますます聞き取れないけど口の動かし方でどうも「おばん・・・」と

言っているようだと職員さんから聞かされ おばあさんを連れて行っては話しかけたけど、おばあさんを呼んでいるのか、こりゃ

ご飯のことじゃないのかな?と思ったり。ご飯が好きだったから・・と笑ったんだけど。年末が迫るし 年を越せるか微妙な空気で

年賀状を出すべきか出さずにいようか、購入した時はまだ元気・・・寝たままの状態で元気というのもおかしいけど、そう危なくない

様子だったので、枚数を減らして出す準備をしていたけど、ギリギリ30日に投函したのだ。私は毎日の様子を見ていて申し訳ないけど

大晦日からお正月という 不幸事が重なるとシッチャカメッチャカになるような時期にこのじいさんは旅立つんではないかと内心思って

いた。おじいちゃんにしてみれば 「ずっと家でいたかったのに施設入所を勝手に決めて、ええぃ こやつらに手ひどい思いをさせて

去っていくぞ」みたいな気でいるんではないかと思ったのだ。声をかけたら聞こえているのでうすく目を開けてるけど、あまり反応が

みえないし 手もあまり動かさなくなっていた。自宅では お正月の用意はなんとしよう・・・とおばあちゃんと私は迷っていた。

年賀状も出したし、年は越せると信じて神棚を祀り替え、お墓の花も替え(我が家は神棚と墓石が多いので大変なのだ)、子供たちが

帰ってくるのでお寿司だけでも作ろうと、31日それを作り終え 大晦日恒例のカニすきの用意をしたときに 施設から「呼吸も

弱ってきているようなので来てくれませんか」と連絡があった。帰省していた長男君と4人でかけつけた。

 おじいちゃんはそれでもがんばって 安定してきたので 次男君が1日の朝に車で帰ってくるので私が待っているほうがいいだろうと

いうことで、長男君と自宅に戻り おとうさんとおばあちゃんが付き添って泊ることになった。

このあとの時系列は 間違っているかもしれないけど、忘れていることも多いと思う。大晦日ということで何が何やら、とにかく

夕食の準備を仕掛けたままだったのでそれらを片付けて 離れに戻っても寝付こうにも眠れずこたつで長男君と横になり、見るともなしに

テレビをつけてもおもしろくないのでCS放送でなぜだか名探偵コナンの映画と≪ゲームセンターCX≫という普段では絶対見ない番組を

観て、でもこれじゃあかんと眠ることにした。次男君は11時にいま愛知県というメールがあったというので ならそう早くないかな、

大阪まわりでくるらしいからなぁと、結局10時ごろになるというメールがあったので 直接施設に行くように返信し おばあちゃんが

疲れてきているので交代にいくことにした。

おじいちゃんは口からの食事は無理になっていたので点滴を入れて脱水を防ぐことにしたけれど、人間って不思議で点滴だけでは

高齢者のひしゃげた血管は膨らみにくく点滴の針もとうとう入りにくくなってきていた。「お正月になったよ。次男君も帰って

くるよ」と声をかけると口で荒く息をする。今から思えば返事しようとするのもかえって疲れさせたかな・・・なんだけど、

のちにおとうさんが言っていたけど病室に大勢入ると 弱っている患者が空気をとれなくなるらしい。言われてみたら、健常な状態なら

狭い部屋に5人、6人いてもそう息苦しいとは感じないけど 空気を吸うことが苦しい状況だと あり得そうだな。

新宮の義兄が来てくれ、待望の次男君が到着し、2日の朝には静岡にトンボ返りするので休ませたいから 家に帰った。

その後は姉とその息子が来て、バタバタしたけどおじいちゃんの容体は安定してきたので この夜はおとうさんと私が泊った。

数日前、看護師さんのほうから入所した時から見ると状態は落ちてきている。反応とかをみるともしかしたら 脳内出血を再発して

いるかもしれませんと言われた。しかし、だからといって検査のために病院に搬送するのも 搬送途中、検査途中で急変もあり得る

のですが・・どうされますか?と聞かれた。私たちは ここでの 看取り看護を希望し 最後はここで見守りたいと希望した。

本人も常々 延命治療はせんでいいからと言っていた。それは 2番目の娘が機械で2週間ほど生きながらえていたのを目の当たりにし

父親として辛かったのもあったのかもしれない。なので 最期はここでというお願いをした。

入所1年間で担当の介護士さんにも おじいちゃんの性格も気性もわかってもらえている、慣れ親しんだ場所にいさせてあげたいと

思った。当の本人は 自宅に戻りたい一心だったろうけど・・・。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする