ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

11月16日の釣り

2014-12-08 05:00:00 | 田舎

12月に入って最初の雨が降ってから本格的に寒くなってきました。今年ソフトボールの幹事校だった我が小学校は、未だ暖かかった11月30日に最終戦を行い、今年のリーグ戦を無事終了させることが出来ました。女子の参加チームは5校、我がチームは4戦無敗、総得点52、総失点15で優勝、監督である喪中の私は「要らん」と言っているのに、胴上げまでされても喜んでいる場合ではありません。昔は男子と同じくらいチームがあった女子も、今は存続が難しく、来年は1校が廃部になり、4チームでやっていくしかありません。

いつもなら3日間の釣行を行うY下君は、息子の参加で今回は2日間の予定、2日目の16日はなるべく早めに出航したかったのですが、やはり7時過ぎになってしまいました。この日も前日と同じように波も高くなかったので、大耳浦へ直行です。私は大耳浦がアカハタのよく釣れるところだと思っているのです。

             

早速、T中君にアタリがありましたが、何だか分らない魚なのでたぶん逃がしたのだろうと思います。

             

続いて前日ボーズだったマッサンにアタリ、上がったのはアカハタでした。

             

続いてY下君も小さ目のアカハタ、この日は船が沖へと流されていきます。普段なら大島に向かって右にあるウス島と左の地磯の先端を結んだ線辺りまで来ると、船を元に移動させるのですが、この日は風も無く、波も高くなかったのでずっと流しておきました。

             

すると9時前にマッサンが格闘しています。上がったのはカンパチでした。おそらく中層で釣っていたのでしょう。私の船でカンパチが釣れたのは初めてです。

             

同じ時刻にY下君の息子がアオハタを釣りました。前日よりよく釣れるようです。

               

マッサンにもアオハタ、その10分後に今度はハガツオまで釣って、マッサンは絶好調でした。

             

波も穏やかなのでこの日は潮岬沖へ行ってみることに、普段なら出雲崎を回ると波が高いので、潮岬沖へ出たのはこの日が初めてでした。観光タワーの下辺りはいつも川のように潮が流れているのを見ますが、その中に入って行ったらどうなるのかとおっかなびっくりで突入してみましたが、やはりかなりの速さで流されます。

                       

初めての場所なので、何処で竿を出せば良いのかよく判りませんでしたが、潮の激しい所から出た辺りでアオハタがT中君に。いつでも真っ先に釣り上げるのがT中君のようです。

                  

磯釣りする人なら一度は乗ってみたいアシカやコメツブ、ドウネなどの磯を見ながら、タイは釣れんかと船を住崎下まで走らせて釣ってみましたが、得体の知れないハゲらしき魚が釣れたりするだけなので、元の観光タワー下まで戻りました。

             

すると今度は乗っている人が小ぶりですが、次々にアオハタを釣り上げます。どうやらアオハタの棲家の上にいるようでした。

             

底に居る魚なので、釣り上げると浮き袋が体外に出るので、小さいからと言って海に帰してもおそらくは生きられないでしょう。まぁ小さいと言っても30cm位はあったのでしょうが、こんなに釣ってどう調理するの?って感じ、私なら逃がしてあげたい気持ちです。

             

たくさん釣ると捌くのが面倒臭いでしょ、だから私なら大きいのが2匹ぐらいあれば十分だと思うのですが・・・

でもこの日は本当にいろんな魚がたくさん釣れました。初めて乗ったY下君の義理息子も堪能したことでしょう。いつもはこんなに釣れることはまずありません。
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11月15日の釣り

2014-12-05 05:00:00 | 田舎

母親が亡くなって今日で1ヶ月が経ちました。この秋ごろからモモの早朝散歩は3つの公園を歩き回り、約1時間近くをかけていますが、亡くなったその日の朝の散歩は3つの公園を渡り歩いたうえで、以前住んでいた家の裏まで行ってみたのでした。前に住んでいた家は路地の奥に有り、今は建て替えられていて正面には行くことが出来ません。私が住んでいた頃に家の裏に出来た夜中に開く食堂は未だ健在であり、小学生の同級生が居た動物病院はもう有りませんでした。何故住んでいた家の近くまで行ってみたのかは定かではありませんが、そういうことってあるものなのかも知れません。

母親が亡くなって喪も明けてないのに10日ばかり経った11月の15・16日とY下君との約束も有ったし、T中君たちも行くような口ぶりだったので、私は端から殺生はしないつもりで船の操縦だけに専念しに串本に行ってきました。姫の家にも何か大切なものが置いてないか、そういうことも調べたかったし、少々疲れ気味だったので良い気分転換にもなると思っていたのでした。

                       

前日T中君に何時ごろ家を出るか聞いたところ、4時ごろとかと言うので夜なので3時間あれば十分着くと思い、7時には港に出ていたのですが、なかなかやって来ません。8時ごろにT中君に電話を入れると未だ日置だと言うし、Y下君は未だ富田でした。先に南防波堤に繋いであった船に乗り込み、出来ることはやっておこうと思っていたら、前回投入しておいた碇は誰かに上げられていました。おそらく碇は効いてなかったんだろうとは思っていましたが、誰が引き上げたのでしょうか、気になります。

1時間ほど経ってT中君とマッサンがやって来ました。マッサンはNHKの朝ドラの主人公と同じ呼び名ですが、NHKは名前からですが、釣人は苗字からのマッサンなのです。それから30分ほど経ってY下君から着いたとの電話、桟橋の波止場で待つように言いましたが、燃料を入れたり、燃料の残量を確認したりで、なかなか出航できず、Y下君はかなり待たされたと思います。今回は燃料缶2つ分を入れましたが、燃料缶からタンクにガソリンを入れるのは一苦労です。Y下君は長女の旦那を連れてきていました。

             

出航できたのは10時前、この日は今まで出航できた日の中で一番ではないかと思うほど波が穏やかで、大島の表側を目指して一気に須江港を通過し、大耳浦へ直行でした。着くなりT中君にアタリ、良い型のアカハタです。30分ほどしてY下君の義理の息子さんにもアカハタが来ました。彼はバス釣りはしたことがあるけど、船で海へ出て釣るのは初めてだそうで、Y下君は連れてきた甲斐があったと胸を撫で下ろしていました。でも本人は全く釣れていません。

             

昼まで大耳浦で釣りを続けましたが、アタリがあまり芳しくないので移動することに、樫野の方へ行き、カツオ島の沖でも竿を出しましたが、何も釣れません。九龍島やタイ島の辺りも流してみましたが、釣れません。仕方なく橋杭岩近辺の発泡スチロールのブイが有るところまで行ったのですが、ブイを見つけることが出来なかったのですが、その辺りを流すと久し振りにT中君がオウモンハタを仕留めることが出来ました。

             

橋杭岩から大島の権現島に向かってのラインを流すと何処かに岩場が有り、オウモンハタやガシラが釣れるのですが、ポイントを外れると砂場になるらしく、エソがよく釣れます。蒲鉾屋なら大歓迎なのかも知れませんが、私たちにとっては喰い付いてきてほしくない魚です。親子揃ってそいつを釣り上げていました。3時を目途に竿を上げましたが、この日はあまり釣れませんでしたし、マッサンなんかボーズになってしまいました。

       

夜は古谷魚店でイセエビ鍋で乾杯、今年串本では不漁だったカツオも今は釣れているようで、美味しいカツオも付いていました。この日ボーズのマッサンは酒を飲まないので、帰りは姫まで車で送ってもらったのでした。
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和歌山日赤病院

2014-11-26 05:00:00 | 田舎

3週間、ブログを更新していませんでした。この間、「何をしてるんやろ?」と心配してくださった方もおられるでしょうし、「何やっとんじゃ!」と怒っておられる方もおられたとは思いますが、少し余裕が出来たので久々に近況を綴ってみることにします。

10月25日は第4土曜日でした。いつものようにソフトボールの練習を終えて、居酒屋『乾杯』で喉を潤していると、6時頃に珍しく母親からの電話があり、「調子が悪いから、迎えに来て労災病院へ連れて行ってくれ」と聞き取れないような声で言いますが、もう飲んでしまっていたので、「今日はもう行かれへんし、明日も用事があるし、今何処に居るん?」と答えると「岩出」と言ったので、「それやったら弟に頼み」と言うと、「明後日には堺の家に帰ってるから、朝から来て」と言うので「分った」と言って電話を切ったのでした。岩出では弟の家の隣に家を構えて、その頃は堺にはあまり帰らず、殆ど岩出の家に居たようでした。

             

月曜の朝になって8時前に家を出て、暫らく走っていると、大阪市と堺市を分断する大和川の手前で、「もう迎えに来んでエエ」と少しは元気になった声で言うので「なんで?」と聞くと、弟に送って貰ったと言います。まぁ、少しは元気な感じを受けたので、そこから引き返したのですが、夜になって弟から電話がかかり、「土曜の晩に病院に連れて行ってくれと言うたから、あっちこっち手配したけど、和歌山の日赤病院が一番エエと言われたから、連れて行ったんで、一回見舞いに行ったってや」と言うので病状を聞くと、「大腸に穴が開いてた」と言います。まぁ詳しいことは医者に聞くしかないと思い、水曜日に見舞いに行くことにしました。

車で行くにはカーナビが案内してくれるのですが、いったいどの辺りに病院が有るのか見当もつきません。ナビの言う通りに慎重に車を走らせていると、何度か走ったことがあるような道路なのですが、南に走ってるのか西に走っているのか、どうも和歌山市内は判り難い道路の配置です。病院に着いて、部屋へ行くとよく眠っていたので起こさず、周りを見ると“家族の方が来られたら詰所まで来てください”と貼り紙が貼ってあったので、ナースステーションへ行くと、もうどなたかに話をしてあるので、不要みたいなことを言われました。そんなことなので昼食の時間も近かったし、外に出て南の方へどんなところなのか歩いてみたりしましたが、どうにも食べたいものも見つからず、病院に戻って食堂で食事を済ませ、待合室で時間を潰していると、市内に有るとはいえ、遠くを眺めると大阪市などとは大違いで、近くには山が見え景色の良いところだと思ったものでした。

             

病室に戻ると起きていたので、少し話をしたのですが、「もう、今度はアカンわ」といつものように言うので、いつものことやと思いながら「まぁ、米寿まで頑張りや」と話し、「遅なるから早よ帰り」とまで言われたので、「また来るから」と言って病院を後にしたのでした。気にはなりながらも、なかなか見舞いにはに行けず、次の週の水曜日に今度は電車で行ってみようと思っていたら、前の夜は夜中の1時過ぎに目が覚めてしまい、なかなか寝付けません。あまり眠れなかったので車でなくて良かったなどと思っていると、弟から「具合が悪いみたいやから、行ったってや」と電話があったので、もう行くつもりでいたので「ウン」とだけ答えて、南海電車に乗ったのでしたが、堺で区間急行に乗り換えて泉佐野までは順調だったのに、そこからは各駅停車でなかなか和歌山市駅には着きません。1時間半ぐらいかかった感じ、降りてからまっすぐ南方面に歩いて行けば15分ぐらいで病院に着きました。

病室に行くとそこにはもう寝ていたベッドは有りません。不思議に思ってナースステーションに行くと私を覚えていてくれたようで、病室が変わったと案内してくれ、担当医から話があると言うので、担当医に会いました。医者からは「今朝から昏睡状態に入ってる」と言われ、穴の開いた大腸のレントゲン写真を見せてくれたのですが、「ここは若ければ手術するのですが、もうお歳なので様子を見るしかありません」と言われ、「昏睡状態になったのは、この箇所ではなく、糖尿病を患っていたようで、今朝は血糖値が1500mgにもなっていたのが原因です」と言われましたが、そんな大病を見つけられなかった病院にも責任があると思いながらも、言ってもしょうがないので言わずに置きました。回復するのかどうかも分からないまま、病室に行くとずっとうわ言を言って、しんどそうでした。午後になって少しマシに思えたので、家に帰るのに2時間ぐらいかかるので3時過ぎに病院を後にし、家に着いて暫らくすると再び弟から電話、「もうアカンみたいやで」と言うので、慌てて車で病院へ行ったのでした。

病院に着いたのは7時過ぎ、すでに息を引き取った後でした。死亡診断書によると死亡日時は11月5日午後6時37分、死因は高血糖高浸透圧性昏睡。死因の要因は糖尿病でした。この後が大変、葬儀やお通夜の場所から遺体の引き取り等を依頼する業者の選定、和歌山で亡くなったので、葬儀場所はそこから近い岩出の業者に依頼しました。業者に遺体を引き取ってもらった後、私は一旦家に帰りましたが、前日ロクに眠ってないのになかなか寝付けません。6日も早くから岩出の家へ行き、葬儀の日にちや宗派などの相談をし、葬儀が翌日と決まったので、お通夜はその日の夕刻なので、遺影に使う写真を探しに堺の家へ行き、一旦家に帰って家族を乗せて岩出の葬祭場へと慌しい1日を過ごしたのでした。

7日は火葬時間が1時と決まったので、葬儀は10時から、本人の希望で家族葬にしたので参列者も少なく、短時間で終了しましたが、喪主になってしまったので読経後の挨拶もさせられ、おそらく次は死んだ時に乗るだろう霊柩車に生まれて初めて乗ったのでした。

翌日からもまた大変、死亡診断書は岩出の市役所に提出したので、住民票のある堺市の国民健康保険関係や国民年金関係で再度死亡届を出さなくてはならなかったのに、岩出からの報告が届いてなく、その日は殆ど無駄足を運んだことになってしまったのでした。後は実家の整理、山とある衣類などの形見分け、預金通帳も見つけなければなりません。それがなかなか見つからないのですよね。それに再び病院に行って診療費を払わねばなりません。手術が無かったので7万円ぐらいで済んだので胸を撫で下ろしています。

家族葬なのにかかった費用は91万円、家族葬などとは呼ぶものの、普通の葬式とあまり変わらないと思ったので、葬儀費用ってバカにはなりません。岩出ではお布施が真言宗で16万円と案外安かったと思っていますが、安いに越したことはありません。後は遺産相続、揉めないように巧く取り計らわなくてはなりません。
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国皇大神

2014-11-04 05:00:00 | 田舎

プロ野球の日本シリーズも我らがホークスの優勝で終わってしまい、先週の土曜・日曜は野球の放送が無くて、寂しい思いをした人もおられるでしょうね。かくいう私もそのうちの一人であり、第1戦を見ていた限りではタイガースの勢いはジャイアンツに4タテ喰らわせたクライマックスシリーズそのもので、私としても29年ぶりやったらタイガースに優勝してもらってもエエかなどと思っていたのでした。その後は第1戦で見せたタイガースの勢いは全く無く、ホークスの4連勝で終わってしまいましたが、セリーグの球団はタイガースの攻略法を学んだのではないかと思います。

             

結果として登れなかったけど、国王山へ登ろうと思ったのは『古座川町の山歩き』という古座観光協会で貰った地図のうち、串本から一番近いからだけではありません。私自身としてはあまり信用していませんが、南朝系天皇の末裔だと称する朝里家の氏神、国皇大神跡や現国皇大神があり、そこからの見晴らしが良いと『古座川風土記』に書かれていたのです。貰った地図では途切れていて分りませんが、『古座川風土記』の朝里氏遺跡の地図で見ると池野山から楠・樫山方面へ向かう道(おそらく町道)の途中から現国皇大神へ至る道が有り、Googleや国土地理院の航空写真で見ると、池野山川に沿って登って行く町道より、途中からの林道の方が土色ですが広く見えます。

             

山の中の地道は穴が掘れていたり、落石が有って通り難くなっていることもあるので、最初から歩いていくつもりでした。分岐点はすぐに分り、入口に“林道ムジ屋敷線”の標識がありました。『古座川風土記』によると漢字では武者屋敷線と書くようです。

       

歩き出した頃は舗装に近いような道でしたが、やはり次第に穴があったり、落石があります。今にも崩れ落ちてきそうな山肌が見えます。

 

歩き出して15分ほどで見晴らしの良い所へ出ました。国土地理院の地図で見ると車で200mほどは登っていますから、そんなに歩かなくても眺望のよい所に出られたのです。

       

歩き始めて40分ほどで右側に赤い鳥居が見えてきました。南朝の末裔の氏神にしてはあまりにも簡素な神社です。昭和の後半以降、過疎・高齢化が進み、神主・氏子の国王山登攀が苦痛となったので、歩いてきた林道が敷設されたので、平成3年3月に車でも来れるこの地に遷座されたようです。

             

ここから林道を少し進むと折り返すように道があって、そのまま南下すると国皇大神跡地があると地図に記されています。持って行ったのはこの古座川町の山歩きの地図だけ、Googleや国土地理院の地図には国皇大神やその跡地の印は有りませんし、池野山や月野瀬へ降りる道も描かれていませんでした。

       

暫らく歩くと地図の通り鋭角に分かれて行く道が有ったので、この道かと思って登ろうとすると、チェーンで通行止めになっていましたが、車だけだったので、私は歩きだったので、行っても良いのだと思って、登って行きました。最初は登りだったのですが、すぐに下り坂になっていきます。軽自動車がやっと通れるような地道ですが、右側は急な崖の所も有り、ガードレールも無いので車だと怖い感じです。

                    

どんどん下る道を30分ほど歩いて、もうこれ以上歩くと眺望のよい所には出ないし、地図の距離からして歩き過ぎたと感じたので、この道ではなかったんだと思い引き返しました。

             

太平洋など見えそうもない地点まで降りてきていることが分ります。この後元の林道に戻り、国皇大神の鳥居までは何処かに道が無いかと探しながら歩いたのですが、分かりませんでした。

 

仕方がないので車まで戻ることにしましたが、どうやら一人で歩くのは、無駄ばかりしているようで、いくら毎日ヒマしているとはいえ、時間が勿体ないと思うようになりました。でもいろいろ教えてくれながら、一緒に歩いてくれるような人を知りません。写真は登って来た時と同じ場所で撮った写真、串本大島や重畳山が見えています。

               

これが古座観光協会で貰った古座川町の山歩き地図と、『古座川風土記』、右は国王山の地図部分と『古座川風土記』に載っていた朝里氏遺跡の地図、どちらも一長一短です。
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キイジョウロウホトトギスの里

2014-10-31 05:00:00 | 田舎

国王山行を諦めて、春に行った佐本渓谷へ再び行ってみようと思って、愚車を国道371号線で三尾川まで北上し、前回は工事で迂回させられた道へ入って、美女湯温泉の手前で左折すると佐本川に沿って県道があるので、その道で佐本渓谷まで行ってみようと思ったのでした。計画通りに県道に入ったのですが、その道の狭いこと、対向車が来たらさぞ難儀すること間違いありません。渓谷付近ではもっと道幅は広かったのにと思いながら、5分ほど走って車が2台停まっている所に私も愚車を停めて一旦下車しました。停めてあった車に乗って来た人は川に降りて、落ち鮎の簗漁の仕掛けを作っている最中でした。私はどんな道なのかと少し歩いてみましたが、どう考えても車2台分の幅はありません。仕方なくUターンして、七川ダムから佐本へ抜ける県道を走って行ったのでした。

             

秋になると渓谷の紅葉が素晴らしいと何かに書いてあったので、古座街道の佐本往来は歩いたので、もう一度最後の方の渓谷だけを歩いてみたかったのですが、なかなか上手くはいかないものです。秋になってもう一つ見ておきたかったのはキイジョウロウホトトギス、以前は一枚岩の前の国道際の山肌にもキイジョウロウホトトギスは咲いていましたが、今は一枚岩辺りではその花を見つけることが出来ません。春に佐本を訪れた際にキイジョウロウホトトギスの里と書いた標識があったことを思い出し、この日は西野川沿いの道を登ってどんな里なのかと期待を抱きつつ、歩き出したのでした。

             

大々的に水車小屋などと書かれた案内板もあるし、さぞかし観光地化されて、喫茶店風の店でもあって、そしたらそこで昼ご飯でも、オークワで買った弁当は夜にでも食べようと思って歩いていると2分も歩かないうちに山側の高い所にキイジョウロウホトトギスの葉が群生しています。ほとんど花が咲いていないので、車で通ったら気が付かなかったかも知れません。

            

群生していると言うより50mぐらいに亘って植えられているのです。来たのが早過ぎたのか、遅過ぎたのか、あのプラスチックで造ったような黄色い花が観れないのが残念です。

             

キイジョウロウホトトギスの花の成長を観察したことがないので、この白く立っているのがこれから花を咲かせる蕾なのかどうか分かりませんが、もし蕾だとしたらもう少し遅くやってきたら見ごろだったのかも知れません。

            

道路左側を流れる西野川も清流で見る目を飽きさせませんが、山側を見ていないとキイジョウロウホトトギスを見落としてしまうかも知れません。

       

ずっと人気のない道を歩いてきましたが、15分も歩くと田んぼや民家が見え出しました。10月中旬なのに稲が干されている風景を眺めて、もう脱穀した後の藁を干しているのかと思ったけど、よく見ると未だ籾は付いたまま、この辺りの稲刈りは随分遅いのですね。

             

更に3分ほどでキイジョウロウホトトギスについての説明板に到着、説明の最後の方は“西野川地区の山中茂氏は、この上の自宅の石垣にキイジョウロウホトトギスの栽培を成功させた人です。”とあったので、振り返って道の上の方の家を見ますが、キイジョウロウホトトギスの花を見つけることができません。

               

ところが歩いてきた道沿いの石垣に植えたキイジョウロウホトトギスを隠すように覆ってあるのを見つけました。隠しているのではなく、きっと日当たりが良すぎると花は咲かないのかも知れません。植えられているキイジョウロウホトトギスですが、やはり花をあまり付けてはいません。時期尚早だったのか、或いはキイジョウロウホトトギス祭が2週間前に行われているので、遅すぎたのかも知れません。

            

もう少し奥へ行ってみようと思って、更に歩き出しましたが、民家はなくなり、柑橘系の実がなる畑が続いてきたので、そこから引き返しました。

             

やっと見つけたキイジョウロウホトトギスの花、でももう枯れかかっています。キイジョウロウホトトギスを漢字で書くと紀伊上臈杜鵑となるようで、紀伊は紀伊半島を現し、上臈は宮中や大奥での位の高い女官のこと、杜鵑は花の内側の斑点が鳥のホトトギスの胸毛と似ているからだとか。紀伊半島に自生し、品位の高い女官のようで、ホトトギスの胸毛に似た斑点が有る花ということでしょう。しかし時代劇でよく聞く「この下郎」という言葉、上臈の反対語かと思ったけれど、違うんですね。

             

「鳴かぬなら」切って捨てようが、鳴かせてみせようが、鳴くまで待とうが、私はホトトギスがどんな鳥で、どんな鳴き方をするのか知りません。

水車小屋で軽く昼食をと思っていたのに、水車小屋はただの水車小屋なのでした。案内板に書くほどのことはありますまいに。往復1時間足らず、愚車に戻ってオークワで買った弁当を広げたのでした。
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国王山

2014-10-27 05:00:00 | 田舎

台風19号が近畿地方を完全に過ぎ去った先週水曜日に串本にやって来たのは既述済み、その頃は天気も良くて、大阪に居る時から寒くなって来たと感じていたので、長袖・長ズボンでやってきました。ただ大阪では靴下を履くことがなかったので、そのままキーンのサンダルで来たのですが、夜になって随分寒く感じ出し、去年の冬に買っておいたユニクロの裏ボアのスェットが役に立ち、靴下も履かなければならないほどになりました。キーンのサンダルは裸足でなければ履けませんから、靴下を履くようになってからは、クロックスのサンダルに切り替えたのでした。働いていた頃は靴下を履くのは11月になってからでしたが、串本は大阪より朝晩が随分寒いと思ったのでした。ところがオスプレイがやってきた日曜日以降はそんなに寒くなくなり、雨が降り出した月曜以降は靴下も不要なほど温く、水曜日になって部屋の中では再び蚊が飛びだしたので、あわててアースノーマットのコンセントを繋いだのでした。

             

水曜日の昼過ぎに串本に着き、翌日も疲れていたので何をするでもなかったのですが、『古座川風土記』を再び読み出すと、後南朝遺跡の朝里家のことがしきりに出てきて、国王山に朝里氏が建立したという国皇大神が有ると言うので、一昨年貰った地図に虫喰岩のある池野山から登り、ぼたん荘の有る月野瀬へ降りてくるハイキングコースが紹介されていたので、金曜日の朝から出かけてみることにしました。去年の秋にはトレッキング用のシューズは買ってあったのですが、寒いと思ったのでいつも出かけるハーフパンツではないものの、サンダルではなくランニングシューズで出かけたのが間違いのもとだったのです。たいした山でもなさそうなので、すぐに戻れると思い、昼からは佐本渓谷へ行ってみようと考えて、朝の連ドラ『マッサン』を見終わってから串本のオークワへ弁当を買いに出かけ、そのまま42号線を戻って、古座川町役場の前を左折して(古座橋ではなく、河内橋を渡ったから、古座橋方面からなら右折)国王山登り口を目指したのでした。

       

虫喰岩の手前でガードレールに楠・樫山方面と書かれていたので左折し、よく見ておかなければ気付かないような小さな『国王山登山口』の標識を見つけたので、その辺りに愚車を停めて歩き出しました。往復で3時間ぐらいと見積もっていたので、弁当とリュックは車に置いておきました。これなら車でも来れると思えるほど舗装された林道を歩きますが、横を流れる川には水は流れていません。12~3分歩いて漸く水音が聞こえてきました。

             

ここで舗装道路は終了、土手の向こうは池があり、池野山登山口の標識もあります。池が有ったことで、この地が池野山と呼ばれている所以が解ったような気がしました。

       

池の畔の碑には竣工記念とあり、昭和24年4月3日の日付が刻まれていますから、私が生まれる前にこの土手が竣工されたのでしょう。さてここからどちらへ進むかが判りません。来た方からまっすぐ、池を左手に見ながら山の方へと歩いて行きました。

             

2分ほど歩くと滝がありましたが、このまま歩けと言われれば進めないこともないのですが、どうもおかしい。滝があるなら地図にも滝のことが示されているはず、ここで地図とコンパス(方位磁石)を取り出し、方位を合わせると、こちらではありません。私は北に向かっていましたが、土手からは西の方へ歩かないといけないのです。

       

土手の西の端まで来ると、池から水が落ちる堰があり、水が流れているので向こう側に渡れるようにコンクリート製の飛び石が置かれていますし、向こう側には何やら標識も有るようです。堰への階段を下ると池からの水は2cmぐらいの深さで流れており、階段の一番下から最初の置き石まで1,5mぐらい、若ければ飛べるかも知れませんが、もうそんな力は私には有りません。どう考えても水中を歩かなければなりませんが、ランニングシューズでは2cmの水深は辛い、絶対に靴底より上部まで水に浸かり靴も靴下も濡れてしまうでしょう。こんなことならサンダルで来た方が良かったと思ったのですが、後の祭りでした。

             

こんなことなら逆のコースで歩けば良いのだと考え、元来た道を引き返したのでした。ここでよくよく考えれば、靴と靴下を脱いで渡って足さえ乾かせば、靴と靴下は濡れずに済んだのですが、車をこちらに置いているので、月野瀬には降りられず、再びここを通らねばならないので面倒です。往復で約40分を要しました。

ところで月野瀬の登山口に行こうとしたら、集落に入る道路が工事中で全面通行禁止の立て札があり、落胆してしまった次第で、この日は国王山には行けず仕舞いでした。
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オスプレイがやって来た Ⅲ

2014-10-23 05:00:00 | 田舎

オスプレイが帰ったと思い、ふと後ろの海を見ると、さっき隠れていた艦船が全体像を現せていたので、写真を撮ろうと海側へ移動しました。帰ってからニュースを見て分かったのですが、この船は海上自衛隊の護衛艦『いせ』だということ、せっかくなら三重県ではなく和歌山県に縁のある名前を付けた船がやってくれば良いのにと思うけど、そのような名称が付いた自衛隊の船は無いのかも知れません。でも何処を見ても『いせ』とは書かれていません。

       

船首から中央部、船尾と分けて撮ってみました。船首にも船尾にも砲台のようなものが装備されています。船首にはバスのような乗り物も載せられています。串本港に繋留している海上保安庁の船は私の船から比べたら、やたら大きいと思っていましたが、この船はもっともっと大きくて、やはり船ではなくて艦ですね。

             

船後方の向こう側に機関砲のようなものが2つあり、その左にも2つありますが、先が釣り竿のように曲がって細くなっているので、こちらは武器ではないようです。手前側には同じようなものが無いのには首をかしげますが、移動式なのかも知れません。

             

船尾と中央部にヘリコプターが1機づつ積まれています。中央のヘリコプターの横に並んで乗っている人たちは自衛官ばかりではないようです。こんな写真を掲載したら秘密保護法に違反したとして、逮捕され、拷問を受けるかも知れません。何と言っても、何が秘密なのか明らかにされていませんから、こんな写真でも秘密に当たるとされたらしょっ引かれる羽目になってしまうのです。だから皆さん、秘密保護法は廃案にして下さい。

       

『いせ』の後方に積まれていたヘリが飛び始めました。と思ってるうちに再びオスプレイも飛んできました。ニュースによると岩国基地のオスプレイは2機参加とありました。先に飛んで行ったオスプレイには尾翼と胴体に03という番号が打ってありましたが、今回のオスプレイは同じ箇所にⅡという意味でしょうか、二本線の縦棒が描かれていて別の機体が飛んできたことになります。

     


私の居た真上ではなく、少し斜め上をゆっくりと飛んで、着陸体制に入りました。着陸の瞬間は木が邪魔になってちゃんと撮影出来ていません。

              

今回の着陸後は救援物資のリレーや負傷者役の搬送などの災害訓練らしき行動が有りました。でもみんな真剣にやっていたのかどうか、実際に想定外の地震に見舞われたら、こんな状況じゃない筈です。日頃から訓練をしている自衛隊の人たちは、きっと冷ややかな目で見ていたに違いないと思います。

       

だいたいDMAT役(役か本物かは知りません)の人でも呑気に写真など撮っているのですから。DMATって災害派遣医療チームで、写っているのは看護師と書かれたベストを着ていますが、その下段はNURSEとありナースです。ナースって看護婦、女の人の仕事だと思っていました。男の人も看護するから、看護婦と言う言葉を使わなくなり、看護師に変ったんだと理解していたのです。ややっ、対面から写真を撮ってる自衛官(米軍人かも)の姿が・・・自分たちだけ勝手に好きな所から撮影しているなんて、ずるいんじゃないですかね。

             

日本国は未だオスプレイを購入していませんから、このオスプレイは米軍のもの(来年度は1機あたり100億円もするのに買うのかも)、なのに垂直尾翼には『竜』の文字が描かれています。何故なのか私には理由がよく解りませんし、米国空軍のマークや『竜』文字の下の8218(先のオスプレイは8223)という番号やMARINSという文字は消えかかっています。日本仕様にしているのか・・・それにしてもあまりきれいな機体ではありません。

             

回転ブレードの軸にあたるナセルといわれる部分、配線などがむき出しになっていますが、これで大丈夫なんでしょうか?飛んでいる姿を見ていると左右どちらのナセルも同じようにむき出しになっていますし、先に飛んできたオスプレイもこのようになっていました。

             

あまり上手く撮れていませんが、負傷者役を運ぶDMAT役の人たち。丁寧にも点滴を持って歩くDAMTの人の姿も、ここだけがやけにリアルです。

             

そしてついに乗降口が閉ざされ、飛び立っていくようです。この間35分程度、ずっとブレードは回っていましたからエンジンはかけっ放し、燃料は米軍持ちなのでしょうか。私たちの税金が無駄に使われてないと良いのですが・・・オスプレイのエンジン音は意外と喧しくはなく、飛び立つ直前だけやたら大きな音がしていました。

    


大きな音に変ったので、すぐ飛び立つと思ってカメラを向けたのですが、なかなか飛び上がらず無駄な時間を使ってしまいました。みんなが帰ろうとするので私も帰途に就いたのですが、この後オスプレイは『いせ』の船尾のヘリコプターが飛び立った跡に着艦し、負傷者役の人たちを降ろしたことをニュースで知りました。
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オスプレイがやって来た Ⅱ

2014-10-22 05:00:00 | 田舎

望楼の芝に到着以降待つこと1時間半、やっと待望のオスプレイが飛んできました。正式名称はMVー22ですが、オスプレイとは猛禽類のミサゴのことで、ネーミングからして防災用ではなく戦闘用の飛行機であることは間違いありません。従来のヘリコプターよりも早く(最大速度565km/h)、航続距離も長い(3590km)ものを目指して造られました。従来の米軍のヘリコプターは前後に回転翼が二つあるCH型と呼ばれるもの、その代表格のCHー47で最大速度は315km/h、航続距離は2252kmでした。但し、MV-22は全長が短く、最大乗搭乗人数はCHー47の55名に対して33名しか乗れません。

       

海岸沿いに見物している人達が皆真上を見ているのは、後から写真で見ると滑稽な感じがします。ただ見上げているだけの人は少なく、殆どがカメラやスマホやケータイ、或いはタブレット端末をかざしていますが、かく言う私も同じようにデジカメをオスプレイの方に向け続けていたのでした。

             

飛来したオスプレイは案の定、芝を刈りあげて造ったヘリポートの上で半回転し、観客にお尻を向けて着陸、私としては正面から見たいものでしたが、後部から人の乗降があるし、物資の搬出もあるので、それを見せるためのショーなので仕方ありません。報道陣は自分とオスプレイの間には邪魔者はいませんが、私たち見物人はオスプレイとの間に報道陣や県職員・警察・自衛隊などの関係者が邪魔になってしまいます。

             

結構大きなオスプレイが撮れていますが、実際にはこんなに遠くから撮影しています。やはり20倍率もあれば、肉眼より大きく写すことが出来ます。

       

この日は時折風が強く吹き、係の県職員が帽子を飛ばされないよう頭を押さえる姿や、警察官などは帽子を顎で留めているいる者もいました。何故か空中ではジェット機が2機飛んでいました。自衛隊の戦闘機なのでしょうか?こんな所では着陸できないのですから、防災訓練とは一切関係がありません。

             

見物客がオスプレイを撮りたくてカメラやスマホを手にするのは理解できますが、自衛隊員なのか米兵なのか、ちょっと分かりませんが、何故か乗務員までがスマホらしき物を操っています。

     


15分ほど殆ど何もしないまま、オスプレイは離陸を始めました。オスプレイは東の方へ飛んで行ってしまい、防災訓練らしきこともないまま居なくなってしまったのでした。
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オスプレイがやって来た

2014-10-21 05:00:00 | 田舎

台風19号が過ぎ去った先週の水曜日に串本に来ています。今回は誰も釣りに来ないので、山登りや佐本のキイジョウロウホトトギスを観に行こうと思っていましたが、何と言ってもCさんから教えて貰っていた19日の串本町の防災訓練にオスプレイがやってくることを楽しみにしていました。私は米軍が日本国内に基地を置くことを容認しませんし、1991年の試作機以来9度も事故を起こしているオスプレイが沖縄に配備されることにも懸念していました。しかしながら日本政府は沖縄どころか岩国基地にもオスプレイを配備することを容認、日本の何処へでもオスプレイを展開させる姿勢でいることに怒りさえ覚えます。そして今回は自治体主催の防災訓練では日本初となるオスプレイの参加を和歌山県で実施させたのです。戦争遂行のための飛行機であるオスプレイが日本の上空を飛ぶことには反対なのですが、実際にオスプレイってどんなヘリなのか、実際に自分の目で確かめることとは別問題、おそらく実際に近くで見ることなど二度とないであろうと思われるので、日曜日の朝が来るのを楽しみにしていたのでした。

       

串本町が沖合でM8,7の地震が発生したとする防災訓練をすると言うので、私はてっきり町民全員が防災放送などを聞いて、近所に設けられた避難所に走っていくものだと想定していましたが、そのような訓練ではなく、ただ単に潮岬の望楼の芝へオスプレイが物資を運んで来て、選ばれた町民がバケツリレーの如く物資を運び、負傷者をオスプレイに乗せるという訓練だったので、これはもう全くオスプレイの為のデモンストレーションのようなものです。

私は9時ごろに望楼の芝へ着けば良いと思っていたのですが、何故か8時半過ぎには着いてしまい、早過ぎたかと思ったのですが、もう展望タワーの前の駐車場は満杯、愚車を何処へ停めようかと車をゆっくり走らせたら、瓜田渡船の駐車場は未だ駐車している車が少なかったので、後から停めるであろう車があるといけないので、帰る時に出せないかもと思いつつ、奥の方に停めておいたのでした。望楼の芝の西側には訓練用の車両がいっぱい並び、観光タワーの屋上に見物客を確認したのが8時50分、オスプレイが飛来するのが10時ごろと聞いていたので、未だ1時間以上も待たなければなりません。

             

そんな時間なので未だ人は集まっておらず、来ている人は殆どカメラかスマホ・ケータイを手にしています。三脚に一眼レフのデジカメを用意している人も少なくありません。やはりオスプレイが珍しいのでしょうね。訓練見物場所などを設けているなんて、実際に地震が起きた時にどのように避難する訓練でないことは明白、このような訓練は町民にとって何の役に立つのでしょう。オスプレイを国民の身近なものにしようという政府の魂胆が見え見えです。

       

少し小高い場所から見ると望楼の芝の中央付近に芝を丸く刈ってあるのが確認でき、きっとここにオスプレイが着陸するんだろうと思える目印が作られてあり、その周りは遠巻きに虎ロープが張られて、見物人は近寄れなくなっています。辺りでは迷彩服を着た自衛官や和歌山県庁の人、それに警察官とおぼしき目つきの悪い人が行き交います。望楼の芝の中で最も見晴らしが利きそうな丘は自衛官によって占拠され、一般の人は立入禁止、頂上では自衛官がこともあろうにビデオカメラを用意していました。

         

このような催しにオスプレイが飛んでくる以上、それに反対の声を上げる人が絶対来ていると思っていて、遠くにゼッケンを付けた人が居たのを見つけたので、近づいたら負傷者役の人たちでがっかりしました。実際には来ていたようでしたが、私の目にはとまりませんでした。この催しを教えてくれたCさんも来ていて、大きな艦が来ていると教えてくれたのですが、私には見えなかったので、海の手前まで行ってみましたが、木の陰から少ししか見えませんでした。Cさんの居る所に帰ろうかと思ったのですが、見物人はあまり居ないものの、スタッフが前に居るので写真を撮るのに邪魔になると思い、海側から見るとあまりスタッフが居ないので、そこでオスプレイが飛んでくるのを待っていました。もう10時を回っていましたが飛んでいるのは新聞社のヘリコプターばかり、なかなかオスプレイはやってきません。10時13分、俄かに周りが騒然とし始め、展望タワーに上がっている人たちが一斉に西側の同じ方向を見ています。

             

芝の上の見物客には爆音は聞こえるけど何も見えていません。そして10時14分、南西の空からオスプレイが独特な姿を現しました。初めて見るオスプレイの現物ですが、未だこの時は遠くでした。
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燃料携行缶

2014-10-17 05:00:00 | 田舎

4月20日に200ℓの軽油を29000円で漁協のタンクから入れたのですが、その後6月に私の行けない日に三男たちが釣りに行き、軽油があまりにも減っていたので、誰かに抜かれたのかと疑っていました。200ℓの燃料を入れる前にどれほど軽油が残っていたのかもよく分かってなかったし、燃料を入れてから出航したのは、4月28日と5月の3・4・5日の4日間だけでした。私は未だ一航海、大島の周りを一周、釣りをしている間ずっとエンジンをかけっ放しにしていたら、どれ位の燃料を消費するのかよく解っていません。一度にたくさんの燃料を入れても燃料の減り加減がよく分からないので、家の近くのHOMESに置いてあった燃料携行缶を買うことにしました。

       

携行缶は1缶で20ℓ入ります。今の軽油価格で約3000円、これで1航海できれば乗船された皆さんから1回3000円づつ頂きたいのですが、3人も4人も乗れば貰い過ぎてしまいます。まぁ三男は1日で2000円、2日で3000円と言う提案をしているらしく、燃料代として少々貰い過ぎても他にメンテナンス等にお金がかかりますから、私としては一度にたくさん乗ってくれれば有難いわけです。携行缶を買って暫くしてから、K川君にその話をしていたら、使わなくなった携行缶があるから「要らんか」と言うのです。もう少し早く言ってくれれば携行缶を買わなくても済んだのにと言う思いがあるのですが、一度に燃料を携行できる量には規制があるらしく、GSで聞いたところによると40ℓなのだそうです。それなら丁度良いのですが、もうだんだん力が衰えてきた私にとって20ℓ缶一つ持つだけで重く感じているのです。油は水より軽いですから、水を20ℓ持つよりは若干軽い筈ですが、とても重いのです。ですから40ℓなど持てる筈がありませんので、K川君の貰った缶は未だ使用していません。

               

その後、9月の末になってK川君からいつものように「やるもんある」と電話、いつもは一緒に飲む機会に貰っているのですが、今回は駅での手渡しとなったので、忙しいのかと思ったのに、私は夕方になって約束の時間をすっかり忘れて家で飲んでいたのでした。電話がかかって慌てて取りに行くと、今回はカレーでした。明治もレトルトカレーに手を出し始めたのかと思ったのですが、手提げのクーラー袋に入っていたので、レトルトではなくチルドだとのこと、あまり意味が理解できませんでしたが、これを食べてみると確かに美味しい、100円前後で売られているボンカレーなどとは全く違う味がします。写真左のキーマカレーは電子レンジで温めるだけですが、右のエスニック風グリーンカレーなどはこれを加えて調理をしなければなりません。5つほど貰ったのに私は1つしか食べてなく、全部三男が食べてしまいました。いったいいくらするのか知りたいのですが、サンプル品で値段は書かれていません。まぁ販売されているものにも値段など書かれてはいませんね。

       

先日、5月に釣りに来ていたヒィチャンから先週の日曜日にこんなものを頂きました。『サバの冷燻』という聞いたこともないもの、貰った時には酔っていた私は家に帰るなり冷凍室に入れてしまいましたが、冷蔵ですぐ食べた方が良いのに冷凍なんてと翌朝思ったのですが、断熱材で巻かれていたので、あまり凍ってなかったようです。酢で締めた後、皮を焼いたようで、しかも何か味が付けられているので、美味しいけど、サバ本来の味はさほどしません。

 

こちらはソフト仲間のH田君が丹波の黒豆の枝豆を持って来てくれた夕方7時前の西空、最近はこんな時間に外に出たことがなかったので、この夕焼けをみた瞬間は感動しました。マンションのエレベーターの昇降と駐車場の横断の往復だけなので、5分もかかってないと思うけど、扉を開けた時に見た光景は、帰って来てカメラを持ってきたこの写真よりももっと美しいものでした。

             

ただ単にポッカリと浮かぶ黒い雲なのに、麓から雲に覆われた遠くにある高い山の山頂に見えて、幻想的に思えて仕方ありません。
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