俳句雑誌の巻頭言に、ある俳人の文があった。
句作りは、何か伝えたいテーマがあって季題を添えるのではなく、季題そのものを写生の眼でたぐり寄せて作りあげるという意味に受け取った。
このあたりが素人の域を出ていない私には、おやっと思うところだった。私の俳句は、暮らしの中での発見、思いがあって、それを俳句で表現できればという思いで作っているのだが‥‥。
つらつら考えてみるに絵画、文学、音楽等の表現も、作者の思いがあってそれを表現する努力をしていると思うがどうだろうか。
とはいえ長年俳句を作り続けている俳人の巻頭言である。深い意味があると思う。
素人がゆえの思いを記した。
最近、鶯宿温泉のコマーシャルがテレビで放映されている。それを見るたびに妻を思いだしている。
30年も前のことだが、ゴルフを始めて1年たつかたたない頃、あるゴルフ大会に妻と参加したことがある。
その時、妻が最下位で私が最下位から2番目の順位だった。ブービー賞というものだ。
この賞品は豪華で、岩手県の鶯宿温泉にペアでの一泊旅行だった。妻の提案で子供たち孫たちを誘い賞品以上に出費の嵩んだ7人の旅となった。その時の温泉宿がテレビコマーシャルで放映されている。
妻のその時の様子が思い出され切なくなる。
このように思い起こす新しいきっかけに出会う時、妻を思い出している。
切ない思いも強いが妻との繋がりにほっとする時でもある。
女性介護士が殺されたとのニュース報道があつた。連日、人の殺されるニュースが流れる。
突如殺される。なんと不本意なことか。そして、その人には、妻や夫がいて、兄弟姉妹がいて、親がいる。愛している人を突然失う悲しさ辛さは図りしれないのだが、人を殺す人はそこまで思いやることはないのだろう。
恨みを晴らすことだけを考えて人を殺すのだろうから。
それでも殺人というものはあってはならないことだ。
話変わるが、郊外の道を運転している時、道路の端を自転車を漕いでる若い女性がいた。一生懸命漕ぐ表情をちらとみた時、この子の親も常に子供を心配しているに違いないと思った。
元気な顔を見せてやるといいねと思いながら追い越しをした。
自宅近くの家電量販店にいった。ここのトイレの入口付近は鏡張りとなっている。
腰痛と脚の痺れで無様な恰好で歩いている様子、ベンチに座っている姿が写っている。そこにはいかにも年寄りという自分の姿があった。
自分でも高齢者という自覚はあり決して若ぶっているつもりはない。
しかし、自分のイメージしている姿は60代の時の自分であったようだ。今日の鏡の中の自分は、イメージしている姿とあまりに違いすぎているのに驚いた。
これが現実なのだと改めて感じた。
これからは80代に迫った者の人間臭さと魅力を醸し出す人間にならなければと思っている。
金融庁が、老後の30年間で2千万円が必要になるという報告書発表した。
これからは若者が少なく高齢者が増加していくのだから間違いの指摘であろう。
そして、ご丁寧にも就労の継続、不動産の売却、移住の計画などで対応していくことを指摘している。これらはできるものとできないものがある。一律に言わないで欲しい。
報告書の内容がその通りであっても行政側にそれを言われると悲しくなる。高齢者国となっていく日本をしっかり導いていって欲しいから。人々に不安を増長させる内容を発表する見識のなさが情けない。
現在の高齢者である私は慎ましくどうにか生活している。心配は子供の将来である。たよりの年金をきちんと支払っているようだがそれが頼りにならないと思うのが心配なのだ。
若い子供は今の私ほど深刻になっていないようだが。
先日、芸人・山里亮太と女優・蒼井優の結婚会見が放映されていた。山里と蒼井の優しさと教養の深さが感じられる会見風景だった。思いやる二人を見てつい涙が出る場面もあった。
この二人の会見の司会をしたのが宮戸洋行という若い?芸人である。
この宮戸という人は翌日の情報番組にゲストとして呼ばれ番組司会者にいろいろ質問されていた。
それにたいする応えが戸惑いもなく明快であった。
結婚会見の山里にしてもこの宮戸にしても事前の準備もなく臨機応変に対応せざるを得ない場であった。
この話術の巧みさが芸人といわれる力なのであろうと気づいた。
芸人というのは売れっ子になってちやほやされているくだらない人間と思っていたが、それは一部の芸人なのかも知れない。