F老人の気ままな島暮らし日記

尾道市生口島で気ままな島暮らしの日々。

卯之町の町並み

2017年09月13日 08時05分06秒 | 旅行記
夜半から激しい雨になりました。朝になるとしとしと雨に変わり、止みそうにありません。

とりあえず、道の駅の売店で五目寿司を買って腹ごしらえ。



急にPCがトラブルです。どうやってもインターネットにつながりません。延々と数時間あーでもないこーでもないとやってみましたがつながりません。

小降りになったので、宇和島藩の在郷町として栄えた卯之町散策に出掛けました。

卯之町のことは吉村昭の「ふぉん・しいほるとの娘」で知りました。シーボルトの娘、楠本イネの物語です。ある時期、イネを養育し、医師としての知識を与えたのが「二宮敬作」で、場所は卯之町でした。

まず、卯之町先哲記念館を訪れました。シーボルトの娘として波乱万丈の生涯を送ったイネとシーボルトの弟子でシーボルトと一緒に江戸に行き、シーボルト事件の当事者となった敬作を偲びました。









重要伝統的建造物群保存地区に指定されている町並みは雰囲気のいい空気を醸し出しています。





お寺につながる道を登っていくと、開明学校と宇和民具館があります。



昔の人が作った樽を見ていると職人の維持が感じられてほっとします。







実在の建物を含む町並み。
 


向かい側には「開明学校」。明治15年に建てられた小学校です。



二階建てです。



松本市の開智学校と姉妹関係のあります。



懐かしい教室。



敷地内には学校ができる前の寺小屋も再現されています。





学校を出て、すぐの小道に小さく二宮敬作墓の案内がありました。敬作は長崎で亡くなり、イネが長崎のお寺に手厚く葬ってありますが、遺髪墓が卯之町にあります。





二宮敬作旧宅。





蘭学者、高野長英は、蛮社の獄に連座して逃亡中、宇和島藩主、伊達宗城に庇護されて、砲台を築くなどしていましたが、卯之町では、二宮敬作の家に隠れていました。

「高野 長英(たかの ちょうえい、文化元年5月5日(1804年6月12日) - 嘉永3年10月30日(1850年12月3日))は、江戸時代後期の医者・蘭学者。

天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ(奉行所に自ら出頭した説もある)、永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監。牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられるようになった。獄中記に『わすれがたみ』がある。

弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄。この火災は、長英が牢で働いていた栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。脱獄の際、三日以内に戻って来れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処す[1]との警告を牢の役人から受けたが、長英はこれを無視し、再び牢に戻って来ることはなかった。脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも(江戸では人相書きが出回っていたためと言われている)硝酸で顔を焼いて人相を変えながら逃亡生活を続け、大間木村(現:さいたま市緑区)の高野隆仙のもとに匿われた。その際の高野家離座敷は文化財として公開されている。その後一時江戸に入って鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行うも春山が急死。その後、鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は、当時としては最高の技術を結集したものとされる。しかし、この生活も長く続かず、しばらくして江戸に戻り、「沢三伯」の偽名を使って町医者を開業した。医者になれば人と対面する機会が多くなるため、その中の誰かに見破られることも十分に考えられた。そのため硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされている。
嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛された。何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命したという。現場にいたある捕手役人の覚書による。しかし、奉行所に提出された報告書によれば、長英は短刀を振るって奮戦した後、喉を突いて自害したとある。」(wiki引用)

二宮敬作旧宅の裏側の細い路地に面して、高野長英が隠れ住んでいた建物が残されたいます。悲劇の蘭学者のことを思い、江戸時代の歴史に触れた気がしました。







雨は止みません。PCも直りません。

とりあえず、道の駅「ひじかわ」まで来ました。最後の手段です、復元をしみようと思います。





約1時間後、復元が終わり、つながるようになりました。雨も止みましたが時間的にどこにも出かけられません。停泊です。

本日のコース。



本日の走行距離・・・34km

本日までの航跡。



本日までの累積走行距離・・・316km