F老人の気ままな島暮らし日記

尾道市生口島で気ままな島暮らしの日々。

神辺で感じた歴史-菅茶山・伊能忠敬・箱田良助・榎本武揚

2014年12月09日 05時11分07秒 | 日記・エッセイ・コラム
文化2年(1805)2月、61歳の伊能忠敬は江戸高輪大木戸から測量を開始し、第5次測量(西国:近畿・中国)に出発しました。東海道、伊勢路、大坂、京、琵琶湖などを測量した後、山陽道、瀬戸内海沿岸、島嶼の測量を行い、岡山で越年、1月28日には福山に達しました。さらに2月5日尾道、3月29日広島と測量は進み、このときの様子は各地に残っているようです。以前、千葉県佐原市にある伊能忠敬記念館を訪れたときに聞いた話ですが、幕府から各藩に測量隊の支援が命じられましたが広島藩だけが「絵師」を派遣し、測量の様子を記録させたそうです。有名な絵は大崎上島の御手洗地区測量時の絵です。



この絵で測量隊の各人の役割、測量器具の使い方などが判明したと説明してくれました。

その後、忠敬は山口で病気になりましたが、なんとか山陰、隠岐、北陸を測量し、11月、江戸に帰着します。

江戸時代後期の著名な儒学者、漢詩人の菅茶山は神辺出身で伊能忠敬より3歳年下です。京で勉学し、山陽道の宿場町であった神辺で塾を開きました。

"塾は1796年(寛政8年)には福山藩の郷学として認可され廉塾と名が改められた。茶山は1801年(享和元年)から福山藩の儒官としての知遇を受け、藩校弘道館にも出講した。化政文化期の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという。"(wiki)

手しごと市のあったACT神辺(ザ ビッグ神辺店)の隣に「菅茶山記念館」があります。塾と旧居も近くに残されています。





近在の箱田村の庄屋細川園右衛門の次男「箱田良助」は数学が優秀で、菅茶山の廉塾に入り勉学に励みます。

文化6年(1809)8月、伊能忠敬は第8次測量に出発し、中山道を測量しながら山陽道を下り、11月福山に入り、11月27日には神辺の本陣に止宿し、菅茶山と会談し、箱田良助はこの第7次測量から伊能忠敬の内弟子となり、以後の測量に参加しています。第8次では九州東岸から鹿児島、甑島、天草、九州北部を測量し、5月に江戸に帰りました。帰路には箱田良助の親宅にも止宿しています。

箱田良助はその後の測量に参加し、内弟子筆頭として測量の指揮もしたようです。1818年伊能忠敬が死去し、1821年『大日本沿海輿地全図』が完成します。おそらく箱田良助も大活躍したのでしょう。

その年、箱田良助は幕臣榎本家に婿養子として入り榎本武規と改名します(お徒士株を50両で買う?)。そして、その子釜次郎は昌平塾学問所やジョン万次郎の私塾で学び、名を武揚と変え、長崎海軍伝習所を経て、オランダに留学、幕府が発注した「開陽」で帰国します。

戊辰戦争、函館戦争を戦い、蝦夷共和国総裁として敗戦、明治5年特赦により復活、初代逓信大臣として郵便局のマークを作った人としても有名です。明治41年73歳で死去するまで外務大臣を始めいろいろな要職に付き、日本の発展に貢献しました。



神辺で歴史を感じ、いいときを過ごさせていただきました。