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イスラムの地のキリスト教聖地/大聖人アウグスティヌスの眠るアンナバ(アルジェリア)【日曜フォトの旅】

2013年01月15日 08時02分10秒 | Weblog

イスラムの地のキリスト教聖地/大聖人アウグスティヌスの眠るアンナバ(アルジェリア)【日曜フォトの旅】

(晴れのち曇り、時々パリ)より

 
北アフリカのアラブ諸国を『マグレブ諸国』という。

モロッコ、アルジェリア、チュニジア。

その東のリビアとエジプトは、マグレブという括りには入れない様だ。

歴史的には、フェニキアが植民してローマに支配権が移り、ローマ帝国分裂後は東西ローマに別れて、更に東はビザンティンと名を変え、西はゲルルマン民族のヴァンダル族に破壊され尽くした後、アレクサンドリアの海賊に支配が移る。

その間に起こったイスラムが、ムハンマドの孫娘の系統と、その婿の系統とで正統を争って破れた「スンニ派」が次々とイスラム化して、ベルベル人と呼ばれるアラブと混血した北アフリカ系イスラムの勢力下に入って言って『マグレブ』圏の外郭が出来上がって行った。

ところで、東西ローマに分割し、夫々に「正帝」「副帝」をおく『四分統治』のローマ帝国に有って、西の副帝でった「コンスタンティヌス」が、大変ややこしい権力闘争の末、「西ローマ正帝」となり、東の正帝リキニウスと共同で「全ローマ帝国民に信仰の自由を認める」決定をする。

これが、俗にいう『ミラノの勅令』である。

実際には、東方のニコメディアで発表された「覚え書き」であるが、後の歴史でこの事が、彼をしてキリスト教を公認したローマ皇帝、と呼ばれるに致す。

その後、彼はフランク族やアレマン族などのゲルマン諸族の反乱を何度も鎮圧しながら支配権の勢力を東へと移して行く。

結局、リキニウスも倒した後、他に有力者が居なかった事も有って、全ローマの支配権を確立した。

実質的「東西ローマ」の終焉であり、旧統一ローマ帝国の再現である。

その際、彼は帝国首都をローマから、ギリシア野ビザンティオンに写し、新しいローマを建設した。

キリスト教をローマの国境に下のは更に半世紀の地のテオドシウス帝であるが、東方の優位性を造り上げたコンスタンティヌスが「東方教会」で列聖される所以となった。

337年、ニコメディアにて没。


そのほんの少し後、北アフリカの「ローマ帝国の穀倉」と呼ばれていた領土の町「タガテス」で生まれたのが、後のキリスト教大学者、大聖人となるアウグスティヌスである。

アルジェリアの西の外れ、リビア国境に近いその町は現在「スーク・アハラス」と呼ばれている。

以下に「アウグスティヌス」の生涯の概略を、Wikipediaから転載する。

(転載開始)

アウグスティヌスはキリスト教徒の母モニカ(聖人)と異教徒の父パトリキウスの子として、北アフリカのタガステ(現在、アルジェリアのス-ク・アハラス)に生まれた。
 
若い頃から弁論術の勉強をし、370年から西方第2の都市カルタゴで弁論術を学ぶ。
 
父パトリキウスは371年、死の直前に受洗した。翌372年、同棲中の女性(氏名不詳)との間に私生児である息子アデオダトゥス(Adeodatus、a-deo-datusから「神からの贈り物」の意)(372-388)が生まれる。
 
同棲は15年に及んだといわれる。当時を回想して「私は肉欲に支配され荒れ狂い、まったくその欲望のままになっていた」と『告白』で述べている。

キリスト教に回心する前は、一時期(373年-382年)、善悪二元論のマニ教を信奉していたが、キケロの『ホルテンシウス』を読み哲学に関心をもち、マニ教と距離をおくようになる。その後ネオプラトニズム(新プラトン主義)を知り、ますますマニ教に幻滅を感じた。

当時ローマ帝国の首都であったイタリアのローマに383年に行き、更に384年には、その北に位置する宮廷所在地ミラノで弁論術の教師をするうち、ミラノの司教アンブロジウスおよび母モニカの影響によって、387年に息子アデオダトゥスとともに洗礼を受け、キリスト教徒となった。
 
受洗前の386年、ミラノの自宅で隣家の子どもから「Tolle, lege(とって読め)」という声を聞き、近くにあったパウロ書簡「ローマの信徒への手紙(ローマ人への手紙)」第13章13-14節の「主イエス・キリストを身にまとえ、肉欲をみたすことに心を向けてはならない」を読んで回心したといわれる。

アウグスティヌスは、387年、母モニカがオスティアで没した後、アフリカに帰り、息子や仲間と共に一種の修道院生活を行ったが、この時に彼が定めた規則は「アウグスティヌスの戒則」と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなった(聖アウグスチノ修道会はアウグスティヌスの定めた会則を元に修道生活を送っていた修道士たちが13世紀に合同して出来た修道会である)。

391年、北アフリカの都市ヒッポ(当時、カルタゴに次ぐアフリカ第2の都市)の教会の司祭に、更に396年には司教に選出されたため、その時初めて聖職者としての叙階を受けた。

430年、ヨーロッパからジブラルタル海峡を渡って北アフリカに侵入したゲルマン人の一族ヴァンダル人によってヒッポが包囲される中、ローマ帝国の落日とあわせるように古代思想の巨人はこの世を去った。

(転載終了)


その、アウグスティヌス終焉の地「ヒッポ」は、現在アンナバと呼ばれる都会になっている。

生地タガステからきたに100キロ、地中海に面し背後が山となって守られた、要害の地である。


     
     背後の山頂から見下ろすアンナバの町


町の外れの海岸は、柔らかな砂浜である。


     
     アンナバ周辺の浜辺


海岸線の遊歩道から数メートル下の砂浜におりると、漁師が何人かテント掛けでその日の漁の揚がりを売っている。


     
     カジキマグロは、見事な角を残して殆ど売れてしまっていた


     
     眼鏡越しに、真剣に品定めする買い物客の男性も


余り多種に及ぶ訳ではないものの、魚の種類ごとにお行儀良く並べられていた。


     
     鯛の一種


     
     サヨリ? にしては「口先」が短いが…。


     
     これは正体不明のギョロ目君



現在のアンナバの町外れに「ヒッポ遺跡」が有る。

ウイキで述べられているが、4世紀の西ローマ帝国の北海岸で、カルタゴに次ぐ二番目に大きな町であったそうな。


     
     当時の邸宅跡


     



     
     当時の洗礼堂


後世の水盤ではなく、イエス自身がヨルダン川の中に腰迄入って跪いた如くに、当時の洗礼はちょっとした大型の風呂桶の様な感じで、腰迄浸かる様に作られていた。


     
     

この洗礼堂で、時のヒッポの司教アウグスティヌスは多くの「異教徒達」を改宗させたのだろう。




その背景の小高い丘の頂上に、現代のバジリカ聖堂が「聖アウグスティヌス」に捧げられて建立されている。


     


     



草むした小径を辿って、聖堂迄登って行こう。

そうすると、聖堂の正面と反対側、十字架の形の頭の側にたどり着く。

そのまま、正面に回り込んで行くのだ。



     
     バジリカ「聖アウグスティヌス聖堂」正面


さすが、フランス統治下の19世紀の建立だけ有って、リヨンの丘の天辺に建つ「ノートル・ダム・ド・フールヴィエール」や、マルセイユの丘の頂上に聳える「ノートル・ダム・ド・カンウヴィエール」にとても似た感じがする。

流石に土地柄、正面の一部装飾はタイルのモザイク文様である。


     
     身廊から奥の内陣を見晴らす


天井は見事な格子。

北アフリカの伝統建築で、天井は椰子の木で作られるのを、踏襲しているのだ。


     
     身廊の格天井


縦(身廊から内陣へ)と横(翼廊)の交差部、主祭壇の上の天井部分は塔が立ち上がり、クーポラで閉ざさずにそのまま明かり取りで抜けている。

さすがに雨に少ない土地柄ならではと言えるのだろう。


     
     明かり取りの塔


そして、内陣の方を向くと、天井の半ドームの見事なモザイク壁画が素晴らしい。

ただ、ほんの少し下部がくびれて、イスラム風。


     
     四分の一球面の「半ドーム」


そしてその下に、ひと際目を引くのが、大聖人の「聖遺物」である。



     


     
     聖アウグスティヌスの聖遺物匣


近くによってみると。。。


     
     聖人の涅槃像の前面に聖人の遺骨の一部を納めた水晶の聖器が



聖堂の壁面は、聖人の生涯を表したステンドグラスで飾られている。


     


     


     


     


     




再び外の出て、正面を背にする側の参道を下って行く。


     
     聖人の銅像の背後に聖堂


椰子の木が、いかにも地中海世界に居る事を実感させてくれる。


街の中心に至ると、見事な並木のトンネルの遊歩道が有った。


     
     不思議な枝振りの並木のトンネルは心地よい日陰を作っている



     
     所々に置かれた現代アート



     
     別に種類の木の並木


     
     とてつもない大木も




ところで、街の中にも現代的なホテルは有るのだが、背後の山の上迄登って行く事をお勧めする。

下の写真を良く見て頂きたい。

街の中央よりやや左の白いビルの当たりの真上に、微かに白いものがへばりついているのがお解りだろうか。

山頂の峰の一角に小さな集落があって、そこにすこぶる気分のいいホテルが有るのです。


     
     海から見たアンナバは三角形に飛び出した岬になっている



山頂の村のホテル。



     
     通りに面した全景



     
     エントランスを示す矢印



     
     内部のオープン・デッキ風サロン



     
     階段で屋根の上に上がって行ける



屋上からの眺望は、魂を揺すぶられる如き、絶景です。

街と反対側の斜面から見晴らす、山脈の遠望は素晴らしい。

まさに眼福。


冬季なので水が入っていないが、プールも有った。



     
     屋上プール



     
     別の角度からの反対側の海の眺め



     
     バー・ラウンジ



ちなみに部屋は、素朴ですが清潔です。



     
     やはりタイルの装飾


経済封鎖されて鎖国状態になる以前、国営ホテルとして作られて、その後保守点検がなおざりで、相当古びた感じはするけれど、異国情緒タップリのノスタルジー溢れたこのホテル、お勧めです。




「聖アウグスティヌス聖堂」の直下、に小さな考古学博物館が有る。

その前に置かれていた、カルタゴ時代の石碑が素朴で素敵でした。
     

     
     素朴な石碑



フェニキア人の町として誕生し、カルタゴが栄えさせ、アフリカ沿岸あって西ローマ帝国屈指の港町だった『ヒッポーネ』は、ローマ遺跡に重なってキリスト教の大聖人の聖遺物を守る聖地として、ヨーロッパ全土や小アジアや、アフリカ全土のキリスト教徒が、巡礼に訪れる町でした。

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